満屋先生のこと

前回皮膚科学会ではエイズの講演はとんとないようなことを書きましたが、近日開催された東京支部総会(千葉大学松江弘之教授 会頭)では、満屋裕明先生の特別講演がありました。これは聴かねばなるまいと思い、同時間に別会場で重なってしまった「ハンズオンセミナー プリックテストを極めよう」の講習予約を取り消して聴講しました。
こんなにも著名なノーベル賞クラスの先生のまたとない演者の講演のわりには広い会場は空席が目立ちました。しかし満屋先生の講演は聴衆に感銘をあたえるものでした。
      HIV感染症とAIDSに対する治療薬の研究開発ーーAIDS IS LOSINGーー

講演が終わってから満屋裕明とはどういう人でどのような経緯でAZTを発見したのか興味があり、調べていたら
      エイズ治療薬を発見した男 満屋裕明(文春文庫)堀田佳男
       『MIYSUYA–エイズ治療薬を発見した男』(旬報社)(1999年)の単行本を文庫化したもの
という本がネットでみつかり、読んでみました。この本は著者が1987年に米国NIHで満屋先生にインタビューを始めてから長きに亘って取材を重ねた本で研究開発の経緯、その周辺の社会的な、製薬会社の商売的な側面も書かれていて、講演で満屋先生が話された純粋に医学的な面と共に当日話されなかった先生の栄光と苦悩の歴史の一端を知ることのできる本でした。今回の講演とこの本をネタに知りえたことを物語風に書いてみたいと思います。
(満屋先生は多く出てきますので、満屋と書いて敬称は省略します。)
1950年 長崎県佐世保市 出身
1969年 熊本大学医学部 入学
1975年 熊本大学第2内科 入局 岸本 進 教授 免疫 老化が専門
共済組合中央病院、熊本大学で原発性免疫不全症の研究
1981年 岸本先生が阪大第3内科教授へ転任
1982年10月 岸本教授が米国NCI(国立ガン研究所)のトム・ウォルドマンに依頼し、その下のラボ・チーフのサミュエル・ブローダーを推薦され渡米。
1983年 成人T細胞白血病ウイルス(HTLV-1)が手にいるようになり、ウイルス感染で引き起こされる免疫不全の研究にシフトする。
1984年春 サミュエル・ブローダーからエイズの研究の打診。当時はウイルスが発見されたばかりでばたばたと患者の死亡が続き、誰もが研究を躊躇していた。同じNIHにウイルスを発見したギャロのラボがあり(実はフランスのモンタニエのラボからのウイルスと後に判明するのだが)簡単にウイルスを入手できた。
満屋はすでに熊本時代に成人T細胞白血病の研究、実験、臨床の経験があったこと(返り血を浴びても伝染しなかった)、エイズの診療に当たっていた医療人に伝染したということは聞いていなかったこと、T細胞のストックを持っていたこと、誰もがやらなければ現に蔓延しつつある「現代のペスト」ともいわれた病気に誰かが立ち向かわなければならないという使命感(少しの功名心)などが満屋を研究へと向かわせた。また妻の後押しも手伝ったという。
研究は順調だったわけではない。ボスは指示はするが、ラボのある13階には日に数回顔を出すだけ、事務員や研究員は感染を恐れて自分らの前での実験を拒否、夜間別棟のギャロのラボで実験をはじめる。ブローダーは数か月でこの研究から手を引こうかと満屋に打診するも満屋は続行。その頃満屋はヘルパーTリンパ球のクローンをもっており大量に培養・増殖できた。それを用いて抗ウイルス薬を探し出すシステムができないかと作業仮説を思案していたところだった。そしてリンパ球の挙動にも個体差があった。「金沢大学からきていた谷内江先生から採血して取り出したヘルパーTリンパ球がよく増えたんです。そしてエイズウイルスにかけるとよく死ぬことがわかった。というより谷内江先生の血液でないとうまくいかなかった。」
1984年7月 バイエル製薬が1920年に開発したツェツェバエによる眠り病の特効薬スラミンがマウスのレトロウイルスにも効果があることが分かっていた(1979)。それをヘルパーT細胞に感染させたHIVウイルスに投与したところ、試験管内でウイルス抑制効果があることを世界で初めて実証した。
残念ながらスラミンの臨床治験では効果がなく、肝腎機能異常のために打ち切りとなってしまった。
当時の製薬業界はエイズの感染を恐れて、また患者数が3000人程度だったためにうま味を感じずに積極的に治療薬の研究には乗り出してこなかった。
ウイルス治療薬の開発・研究に強い1社(B-W社)だけがブローダーの誘いに応じた。そして可能性のある薬剤を送ってきたが、会社に所有権があるために、その正体は明かされていなかった。
年末、それまで使用してきた谷内江明宏(やちえあきひろ、金沢大学から来ていた留学生)からとったヘルパーT細胞の増殖がにぶくなり、実験に支障をきたしつつあった。細胞そのものの老化と考えられた。ここで、成人型T細胞白血病ウイルスに感染させたヘルパーT細胞を使用してみた。その細胞は正常細胞より簡単にエイズウイルスに感染した。
それを使用することで、新たなT細胞の材料を見出した。その細胞に満屋は「ATH8」という名前を付けた。「A」は谷内江の頭文字、「T」はテタノストキソイド(破傷風毒素)、「H」はHTLV-1(成人T細胞白血病ウイルス)の頭文字からそれぞれ取った。「8」は8番目に得た細胞群を意味している。
ひとつの試験管内のヘルパーT細胞とHIVの比率は20万個対100万個、1:5が最適であった。満屋の実験方法ではこれらを混ぜて1週間程度培養すれば試験管の底のペレット(細胞集塊)の様子を肉眼で見るだけで、薬剤の効果が判定できる簡便かつ超速の優れものだった。
1985年2月、B-W社からコード名「S」という薬剤が送付されてきた。1週間後その薬剤を加えた試験管ではHIVを加えたT細胞が死なずに生きていた。同社は他の研究室にも薬剤を送付していたが、その効果は判定できずにいた。満屋のみが初めてその薬剤の効果を発見した。後にそれはアジドチミジン(AZT)という20年も前に抗がん剤として合成された古い薬であることが明らかにされた。有機化学者のジェローム・ホーウィッツがサケとニシンの精子から抽出したチミジン誘導体だったが、抗がん剤としては効き目なく日の目を見ないでいた薬剤であった。1978年同剤がマウスのレトロウイルスの増殖を阻止することが分かったていた。それで同社が送ってきたものだった。効果が分かったあとでも同社はウイルス感染を恐れて検体の受け取りを拒否し、そちらで実験するようにいった。
その後も満屋は第2、第3の薬剤を見出すべく、日本の生化学の教科書(山村雄一 著)を元にアイデアを考え続け、DNAチェーンターミネーター(ジデオキシヌクレオシド系)が効くのではないかと閃いたという。ddA, ddC, ddG, ddI, ddTを検討し始めた。
1985年7月 AZTの臨床治験がFDAで認可された。異例ともいえる超速の速さであった。いかにこの薬剤が切望されていたかが分かる。治験ではAZTの強い骨髄抑制などの副作用がみられたものの、偽薬との比較で明らかな死亡者数の差、免疫力回復の差がでた。FDAは24週の治験予定を16週で打ち切った。偽薬グループの死者は19名だったのに対し、AZT投与群の死亡者は1名のみであった。これ以上治験を続けるのは非人道的という結論だった。治験薬が効くという理由で臨床治験が中断された前例はなかった。
1985年10月 満屋 PNASにAZTの試験管内での抗HIV効果を報告。
1986年9月から翌年3月まで認可前にAZTが全米のエイズ患者に無料配布された。
1987年 B-Z社はAZTの認可により巨額の利益を見込んでいた。患者は4万人を越え、死者はすでに2万3千人に達していた。
同年3月AZTがFDAよりエイズ治療薬として認可された。薬価は高額で1年間服用すると1万ドルに達した。
FDAの会見ではブローダー、NCI, B-W社、FDA職員の名前を出して米国政府を賞賛したが満屋の名前は一切でなかった。
無料配布されていた患者の多くは薬価の高額さに薬剤を十分に買えないという状況に陥った。満屋やブローダーは唖然としたという。
さらに、B-W社は本社の英国と米国特許庁にもAZTの発明特許を申請するが、発明者は社内の人間のみでそこには満屋、ブローダーなどの名前は一切なく彼らには内密にしていた。一旦米国特許庁に却下されたが、繰り返しの申請の末ついに会社は特許を手に入れた。
ニューヨークタイムズもラルフ・ネーダーの「パブリック・シチズン」、後発のカナダの製薬会社などがこの特許の無効性、法外な薬価の高さなどに異論を唱え訴訟を起こした。米国政府機関であるNIHでの仕事であったので、政府も民間の会社とは対峙すべきであった。しかし米国政府は動かなかった。そして米国の司法(B-W社のあるノースカロライナの地方裁判所)はこれを却下した。B-W社は巨額の資金を使って辣腕の弁護士を雇い、訴訟に勝訴した。満屋は裁判所から証人喚問されたりもした。2万5千ページにも亘る資料の提出を求めてきたが、それでも裁判に非協力的であると糾弾された。当然医学者の満屋に特許の知識が長けているわけではなかった。素人的に考えれば、満屋が発明したのは紛れもない事実だが、会社はすでに抗ウイルス効果は知っていて、AZTのエイズウイルスへの効果を発案したのは会社であり単に満屋はそれを追試しただけ、との言い分のようである。しかも彼の行動は冒険主義であるとされた。ためにする詭弁としか思えない。しかしそれが米国の裁判では通ったのである。
この本の著者の堀田は書いている。
「96年1月16日、最高裁も控訴を棄却した。それにより、満屋の名前がアメリカの特許に共同発明者として名を連ねる機会は、無くなった。それは平等と公正を基礎にした民主主義を実践しているはずのアメリカが、ひとつの「発明」を殺した瞬間であった。」と。
1991年 ddI(ジダノシン)が新薬の認可をうけた。
1992年 ddC(ザルシタビン)が新薬の認可をうけた。 今度は満屋は両薬の特許を手にした。 これによってAZTの市場での独占は崩れた。しかしそれまでにB-W社は10億ドル以上の売上をあげていた。
1997年 母校熊本大学の第2内科教授に迎えられる。
2003年 プロテアーゼ阻害剤の「ダルナビル」を発見 アラン・ゴーシュ教授との共同研究
2006年 FDAがダルナビルを新薬として認可、日本の厚労省も翌年認可。米国はアフリカなどに特許料なしで使用できるようにした。(特許無償委譲)。これは満屋が望んでいたことだった。
2015年 世界のHIV患者 3500万人  年間150万人のエイズ患者が死亡
2015年 日本学士院賞を受賞
2018年 「EFdA」という逆転写酵素阻害剤の研究開発中 抗ウイルス活性はAZTの400倍以上
後に満屋は述懐している。
「AZTを飲まなかったことで何百、何千という患者さんが死んだのです」
「そういうときに研究者が取り得る道というのは、第二、第三の薬を開発することなんです。研究を通じて戦うことだけ。それ以外、製薬会社に報復する手はない」「そして思ったのはザマーみろ、ということでした。」とインタビューで答えていたのはさんざん満屋をないがしろにした製薬会社へのせめてもの控えめな反論かと思いました。

当日の講演の終わりに現在のエイズの治療の進歩によって、エイズはすでに現在の黒死病ではなく、天寿を全うできる慢性病にまでなったと。AIDS is losing. そしてあと10年、自分はまだまだ治療薬がない疾患、例えば成人T細胞白血病、B型肝炎ウイルスの治療薬の開発に情熱を捧げたいと述懐されていました。これ程の業績をあげながら、まだまだ新たな夢に邁進するその情熱はどこから湧き出てくるのか、ただただ恐れ入り仰ぎ見る思いでした。
またさらに、プルーストの箴言を引用されました。
「真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目でみることなのだ。」
そして、常に愚直に問題の現場にいること、という現場主義の大切さを述べていました。
Stay Hungry Stay Foolish
これは若い医学者に向けたメッセージでしょうか。
講演の座長の山梨大学の島田教授は若かりし頃、NIHで共に過ごした思い出を述べ、長年サポーターとして付き合ってきたこと、また特許無償提供は山梨大学のノーベル賞の大村先生を思い起こすと述べられたことが印象的でした。まさに日本人の優れた倫理観を体現する人々だと思いました。

エイズの歴史において忘れてはならない先生であることを再認識したことでした。

エイズは今

今年の秋のEADVの講演の中でAIDSの治療についてのレビューがありました。普段皮膚科の講演会でエイズについての治療の演題など(多分)なく、セミナリーでも皮膚科関連の皮疹の解説であったり、梅毒との関連の講演が主でした。皮膚科医は診断には関わっても、治療は感染症専門家に依頼して自らは治療に携わってはいないと思います。
小生は最近のエイズ事情には疎く、ほぼ素人同然ですが、死に至る恐い病気と思っていたのが、近年の治療の進歩で慢性の病気で治療はずっと必要だが死に至る病ではなくなったという現実に驚き、目から鱗の感じでした。
それで一寸帰国後気になっていたところでした。
たまたま目にした皮膚病診療10月号のトピックスが独立行政法人国立病院機構大阪医療センターHIV/AIDS先端医療開発センター長の白阪琢磨先生の寄稿【「エイズ診療」について】でした。それにそって書いてみようと考えました。

エイズは梅毒の近年の爆発的ともいえる都市部の増加に伴って増加が危惧されてはいます。しかし、絶対数は日本ではまだ諸外国と比べて少なく一般社会での危機感、感心はそれ程高くはないように思われます。
しかしながら、たまたまでしょうが、このところエイズに関わる話題がにわかに多く報道されるようになりました。
真偽のほどは分かりませんが、AV女優にHIV陽性者がでて、業界の男優がパニックに陥ったとか。
また映画ボヘミアン・ラプソディーが大ヒットとなり、往年のクイーンのフレディ・マーキュリーが再び俄かに脚光を浴びてきたことで、エイズへの関心も高まってきた(?)こと。
さらに近日はあろうことか、中国からエイズになりにくい遺伝子を受精卵に導入しゲノム編集した双子の女児を誕生させたニュースまで飛び込んできました。(これも実は虚偽だと否定する報道もありますが)
ことほど左様にこのところエイズの話題はさかんです。今はネットをみると週刊誌的な興味本位の記事から厚労省の専門的、学術的な啓蒙記事まで情報が満ちあふれています。
小生がわざわざここに専門記事を書き写す必要もないでしょうが、一般の人は膨大な情報の洪水の中で何が本当の処か、つかみにくいのではないでしょうか。
それでここではエイズがウイルス疾患で性行為や血液などを介して伝染する病気だ程度の認識しかない人を想定して概要を書いてみます。ただ、免疫だの遺伝子だの専門外の医師ではなかなかついていけない部分もあるなかでは、一般の人には一寸読む気にもならないかもしれません。ただAIDSの歴史、現況だけは読み物として頭に入ってくると思います。
【AIDSの歴史】
1920年頃 アフリカコンゴの首都Kinshasa市でチンパンジーのレトロウイルスがヒトに伝染し、HIVが誕生したと現在では信じられている。
1981年 米国ロサンゼルスで元々元気であった若いゲイ男性5人がニューモシスティス肺炎という稀な普通免疫の低下した人が罹る肺炎に罹患したという報告がなされた。
同時期ニューヨークやカリフォルニア州の男性達にKaposi肉腫の発生が報告、次いで薬物注射常用者にもニューモシスティス肺炎が報告。
NEJM誌に米国大都市のゲイ男性に原因不明の免疫不全の集団発生があり、血中のCD4リンパ球数の著減が指摘された。感染症、栄養、薬剤などの原因が推定されたが確定されなかった。
1982年 共通の原因として性的接触が指摘されたが、その後血友病患者やハイチ人の発症もあり、米国疾病予防管理センター(CDC)がこの疾患を後天性免疫不全症候群(acquired immune deficiency syndrome: AIDS)と命名した。
1983年 男性患者のパートナーの女性でもエイズの発症が報告された。フランスのパスツール研究所、ついで翌年に米国で病原体としてレトロウイルスが発見された。
年末までにエイズ報告者は3000人を超え、うち1300人が死亡した。
1984には薬物注射を避け、注射針の共用を避ける勧告をした。年末までに約8000人の報告があり、うち4000名弱が死亡した。
1985年 米国食品医薬品局(FDA)はHIVの抗体検査(ELISA)を承認した。米国の映画俳優ロック・ハドソンがエイズで死亡した。彼の遺産が米国エイズ研究財団の設立基金となった。年末までに全世界から患者の報告があり、総数は2万人を超えた。
1985年 満屋裕明博士が世界で初めて抗HIV薬AZVの有効性を発見した。
1987年 AZVが臨床の場で認可されて、同剤の延命効果が証明されたが、副作用は強く、効果は限定的であった。
1996年 三者併用療法(highly active anti-retroviral therapy: HAART 現在のART)の劇的な効果が報告された。
HIVのウイルス量をRT-PCRで測定できるようになった。
2007年 世界初のHIVインテグラーゼ阻害薬であるラルテグラビルが承認された。

【HIVとAIDS】
HIVはhuman immunodeficiency virusの頭文字でエイズの病原体ウイルスのことです。レトロウイルス科レンチウイルス亜科に属し、HIV-1,HIV-2がありますが、世界に蔓延しているのはHIV-1です。それぞれの起源はチンパンジーとマカク、マンガペイなどの猿(霊長類)に感染していたウイルスに分かれるそうです。
HIVに感染すると(1)急性感染 (2)無症候性キャリア (3)AIDS発症 の3期の経過をとります。
(1)急性感染
HIVに感染すると、1ヶ月前後で約7割にウイルス血症に基づく感冒様症状が発生します。ただこれは未治療でも自然に軽快し次の無症候性キャリアの時期にはいっていきます。HIV感染初期には血液検査をしてもまだ結果が陰性となり、感染していることが分からない時期があります。これをウインドウ期と呼び、感染機会から約4週間といわれます。この時期を過ぎると血液中にHIVに対する抗体を検出できるようになります。そのため保健所などでは感染が気になる機会から3か月後の検査を推奨しています。このウイルスは性行為、血液媒介、母子感染で伝染するので、それ以外の例えば汗、唾液、公衆トイレ、プール、温泉などでは伝染しません。
HIVは多くは傷のある皮膚・粘膜から侵入していきますが、その際皮膚の樹状細胞やランゲルハンス細胞がHIVの初期の免疫応答、侵入、防御に重要な役割をもっていることが明らかになってきました。それを活用した治療、さらには予防薬も検討されています。倫理的側面は別として、今回の中国でのHIVに感染しにくい遺伝子導入によるゲノム編集ベビーの誕生もこの理論を応用したものかと思います。
(2)無症候性キャリア
この時期は無症状ですが、リンパ組織を中心にHIV感染による免疫能の障害が進行し、CD4の値は緩やかに低下し続けます。未治療だと約10年の潜伏期間ののち大半がエイズを発症します。近年は発症までの期間が短くなっている可能性も示唆されています。
(3)エイズ発症
CD4陽性リンパ球が200/μlを下回るころから種々の日和見感染症を呈するようになってきます。厚労省エイズ動向委員会の定めるエイズ指標23疾患に該当するとエイズと診断されます。ART療法が行われない場合は発症から約2年で死亡するとされます。
指標疾患(indicator disease)の概略を示しますが、皮膚科に関連する疾患も多く、診断のきっかけになる場合もあります(いわゆる”いきなりエイズ”)。概して普通の疾患よりも重症だったり、何か定型的でない場合が多いようです。
A.真菌症・・・食道・肺カンジダ症、ニューモシスティス肺炎など
B.原虫症・・・トキソプラズマ脳症など
C.細菌感染症・・・、肺結核、敗血症など
D.ウイルス感染症・・・サイトメガロウイルス、単純ヘルペス、帯状疱疹、伝染性軟属腫、陰部の疣贅、ポリオーマウイルス感染など
E.腫瘍・・・カポジ肉腫、非ホジキンリンパ腫、子宮頸がんなど
F.その他・・・反復性肺炎、間質性肺炎、HIV脳症、全身衰弱など
【治療】
1987年 米国で満屋裕明博士が世界初の抗HIV薬AZT(アジドチミジン)を開発しました。その後ddC,ddI,3TCなどの逆転写酵素阻害薬も開発されましたが、臨床効果は限定的でした。
1995年 サキナビル、リトナビル、インジナビルというHIVのプロテアーゼ阻害薬を含む三者併用療法(highly active anti-retroviral therapy: HAART)が承認されました。
1996年 RT-PCR法でウイルス量が計測できるようになりました。
2007年にはHIVインテグラーゼ阻害薬であるラルテグラビルが承認されました。
現在では、逆転写酵素阻害薬(核酸系、非核酸系)、プロテアーゼ阻害薬、インテグラーゼ阻害薬、侵入阻害薬の5クラスの抗HIV薬をガイドラインに従い、組み合わせ多剤併用療法が行われています。以前はCD4陽性リンパ球の低下をみて治療を開始する考えもありましたが、近年は治療薬の進歩もあり、副作用も少なく、早期治療の様々な利点が明らかになり、できるだけ早期の治療が推奨されています。
(但し、CD4数が500/μLより多い場合は医療費助成制度を使えない可能性もあるとのことです。)
ART療法の導入によって今やエイズの生命予後は飛躍的に改善され、もはや致死的な疾患ではなくなり、慢性疾患と呼ばれるまでになりQOLも大きく改善してきました。内服をすることによって他への感染を防止しうるまでになりました。しかしながら日和見感染症や悪性腫瘍のリスクは高く、抗HIV薬は一生飲み続けていくことになります。また近年は慢性例で軽度の認知症例が増加傾向にあり問題になっています。HIV関連神経認知障害(HIV Associated Neurocogenitive Dysfunction: HAND)とよばれます。きちっと内服を続けていた人が飲み忘れたり、いい加減になったりしたらこれを疑う必要があるそうです。
HIV治療法は年々進歩をとげ、現在では1日1回1錠の投与も可能になり、これからは1か月に1回の注射、1週間に1回1錠の内服でも可能になる治療法も期待されているそうです。

国内の現況を下の図でみると、ここ数年新規HIV感染者の数は横ばいのようです。しかし特に都市部での新規梅毒患者の発生数は爆発的ともいえるほどの増加傾向を示しています。梅毒などの性感染症に罹ると、HIV感染のリスクも数倍に増えるといわれていますので、本邦のHIV感染の増加が懸念されています。それに日本では症状が出て初めてエイズと診断されるいわゆる「いきなりエイズ」の患者さんが多いといわれています。それはすなわち本人はそれまでHIV陽性と全く気づいていなかったということです。日本人のHIV陽性者は実際は報告例よりもかなり多いとされています。性感染症に罹ったことのある人、懸念のある人は積極的にHIV検査を受けておいた方がよいでしょう。
【予防】
現在のエイズ治療はさらに進歩して、予防投与、感染初期の投与まで検討されるまでになりました。(曝露前予防投与,、曝露後予防投与)。無論予防には性交渉時のコンドームの使用が大前提ですが、ART療法によって血中ウイルス量が200コピー/ml未満とHIV未感染のカップルでは、コンドーム無しでの性交渉で感染を予防できうる報告までもなされるようになってきました.

 

斎藤 万寿吉 新興再興感染症の現状とその防御 梅毒とHIV/AIDS  日皮会誌 127:1523-1531,2017

白阪 琢磨 「エイズ診療」について 皮膚病診療:40(10);974~982,2018

タイトジャンクション物語

近着の皮膚病診療に 追悼 橋本 健 先生  橋本 健先生の「声」へのお返事:横内麻里子 久保 亮治
という記事がありました。
「皮膚バリア、最近の進歩ーケルビン14面体モデルー」(皮膚病診療:39(8);808~813,2017)への橋本先生の質問の回答でしたが、橋本先生はその後お亡くなりになったため、同誌編集委員長の斉藤隆三先生が橋本先生の奥様の了承のもとに掲載された追悼文を含めた記事でした。

 ケルビン14面体モデルによるタイトジャンクション(TJ)構造、ターンオーバーの機構の解明は横内先生の皆見賞受賞となり、当ブログでも取り上げています。(2017.6.29)。また久保先生のTJを含む皮膚バリアの総説も取り上げました。(2016.3.27)
それで、その機構については簡単に触れるに留めます。表皮は角層の下に3層の顆粒層があります。顆粒層の細胞を外側からSG1,SG2,SG3と名付けるとTJはSG2同志が接着する面の上側(apical)に存在します。
橋本先生の質問は著者(横内ら)がみたZO-1(TJ裏打ち蛋白質)の角質細胞の形態は私(橋本)がかつて報告した電顕の所見と同一であり、辺縁に二重にみられた線は重層した上の細胞の圧痕ではないか、特にZO-1が共存してもしなくても形態的な構造ではないか、という主旨のもののようでした。著者らは数十年も前に明確かつ子細な電顕構造を指摘し、角層下の顆粒層に’tight’な細胞間接着構造があり、そこに物質の浸透をブロックするバリア構造があると結論付けされた橋本先生の先見の明に敬意を表しつつも、細胞が垂直に重なった圧痕ではうまくTJの分化が進んでいかない理由も述べています。
著者らはTJの研究の歴史について、古くは19世紀末のケルビン卿の14面体の提唱、1976年のAllenとPottenの角層細胞の14面体形態の報告、1986年ZO-1、1993年occludin、1998年claudin-1というTJ蛋白の発見がありこの分野のサイエンスが進歩し、その積み重ねの上に得られた結果であることを述べています。

橋本先生は電子顕微鏡の分野では世界的大家で、我々が学んだLEVERの皮膚病理組織の教本の電顕部分は橋本先生が担当されました。長年米国で活躍され、お弟子さん達も日本から多く先生の許へ留学されました。小生がかつてミシガン大学に短期間いた時に先生はデトロイトのウエイン・ステート大学皮膚科のチェアマンでした。ある時ミシガンとウエイン・ステートの合同研究会があり、そこで堂々と講演されたり、米国人と対等に討議されている様を間近にみて、古武士のような風格を感じたことがありました。日本人でもすごい人がいるものだと感嘆したことでした。お宅にお邪魔した時は、しかしにこやかで(緊張して何を話したか覚えていませんが)、立派な邸宅のフカフカした絨毯に日本の住宅事情との違いに驚いたことを覚えています。この投稿をみるとお亡くなりになる直前まで現役として研究されていたということになります。偉大な皮膚科学者に哀悼の意を表します。

もう一人、忘れてはならない人がいます。かつて講演で久保先生が自分の生涯の恩師であると話された月田承一郎先生のことです。どんな人かどんなことをした人なのか気になって先生の本をもとめました。
「若い研究者へ遺すメッセージ 小さな小さなクローディン発見物語」という確かにわずかに93頁の小本でした。しかし中身は凄い、小さなどころか、偉大な本でした。早逝(52歳だけどそうといってもいいか)した天才の研究に捧げた人生のエッセンスが凝縮したものを割と淡々と記した本でした。表紙の帯には「亡くなるひと月前に遺した渾身の書下ろし」とありました。
灘高、東大出のエリートながら立身出世ではなく純粋に科学を愛し、同じ研究者である奥様と共に、タイトジャンクションの命題を解決していった経過が書かれていました。当時大変な流行になっていた細胞間接着分子カドヘリンの周辺を研究のターゲットにしたといいます。細胞の接着複合体(小腸上皮)はアピカル面からtight junction, adherens junction (cadherin), desmosomeがみられることが分かっていました。皆が「カドヘリン山」を目指すのならば、人も金もない貧乏旅団ならば、一ひねり二ひねりしないと目立った研究は出来ないと考え、「単離接着装置」をラットの肝臓から得て、「カドヘリン山」からはずれた分団の蛋白質群の解析に向かったそうです。そこでみつかった分子量220KDの抗原がカドヘリンの裏打ち蛋白質と想定していたところ、実はcDNAを単離してみたらZO-1と同一なことが分かったそうです。ここにTJの裏打ち蛋白質であるZO-1が沢山あるなら、この分画はTJの研究にも使えるぞ、との閃きから研究が進展していったそうです。
当初ラットの「単離接着装置」を抗原にして、モノクローナル抗体をマウスでとっても、ZO-1のみしかとれませんでした。これは種が近すぎるからとの考えで(また材料の肝臓が小さな動物ほどきれいな単離装置がとれる)、種の遠いヒヨコで行ない、また膜蛋白質だからと少量のSDSという界面活性剤を混ぜて実験したところ、見事TJから膜蛋白質を単離することに成功しました。そしてTJすなわちzonula occludensからこのたんぱく質をオクルディンと名付けました。
(ちなみにこの実験を担当した古瀬さんはJCB誌上でTJのブレイクスルーと絶賛されたそうですが、日本での評価は低く、日本学術振興会の特別研究員に落ちたそうです。カドヘリン発見者の竹市先生は彼我の目利きの差に嘆き激怒されたそうです。)
その後ヒトのオクルディンの発見への苦労、たまたま院生がコンピューターホモロジー検索から類似アミノ酸配列をみつけて、同定に至ったとのこと。しかしオクルディンをノックアウトしても予想に反して立派な上皮ができ、TJストランドも形成しました。実験を遂行した斎藤さんは「オクルディンをノックアウトしただけではなく、僕たちのオクルディンストーリーまでノックアウトしてしまった。」と揶揄されたそうです。本物は他にいる、挫折しそうになりながら「真の幻のTJ内在性膜蛋白質」があるに違いないとしてまた研究を進めていきました。
またしても古瀬さんのアイディアで普通に抽出できるものを抽出しきって駄目なのだから、最後の不溶物の中に真の物質があるだろう、との想定でその中からオクルディンと同様な挙動をする分子量23KDの膜貫通蛋白質を同定し、クローディンと命名しました。これは強力なTJストランド形成能力を有し、TJを持たない線維芽細胞でもこれを導入するとTJストランドを発現しました。その後クローディン遺伝子ファミリーの発見など研究は進展していきましたが、最大の山場は乗り越え、比較的安全な将来が見渡せる高みに到達していました。
ところが残念なことに、これらの発見からほどなくして、月田先生はすい臓がんに侵され、余りにも早い人生の最期を迎えてしまいました。いかに無念だった事でしょう。そしてこの本が人生最後のメッセージとなったわけです。
しかしTJの分野で分子生物学のバイブルのような教科書に名を残せた事は本当に幸せだったと述懐されています。
この本は題名に「若い研究者へ遺すメッセージ」とあるように志ある若い研究者にお勧めしたい本です。

横内先生の投稿をみて、その本題から一寸ずれたかもしれませんが、関連する事を書いてみました。

最近の乾癬治療・生物学的製剤2018

また乾癬の記事で恐縮ですが、千葉生物学的製剤乾癬治療研究会がありました。確かに乾癬は治療のトピックスが多く、進歩が早いこともあり、このところ講演会は多い気がします。
今回は岩手医科大学の遠藤幸紀先生による生物学的製剤のレビューでした。豊富な臨床経験に基づいて分かりやすく解説して下さいました。岩手県のみならず、東北一円から患者さんが受診しているとのことでした。また若い頃は東北のクイズ王としてテレビ出演も果たしていた事などの逸話も挟みながらの面白い講演でした。
まず、乾癬の生物学的製剤のラインナップと、乾癬の病態からみてその作用点を分かり易く解説されました。また最近開発されたIL-17阻害薬については詳細に解説していただきました。
発売順に並べると
2010年 レミケード(インフリキシマブ)、ヒュミラ(アダリムマブ) 【TNFα阻害薬】
2011年 ステラーラ(ウステキヌマブ)  【IL-23阻害薬】
2015年 コセンティクス(セクキヌマブ) 【IL-17阻害薬】
2016年 トルツ(イキセキズマブ)、ルミセフ(ブロダルマブ)【IL-17阻害薬】
2018年 トレムフィア(グセルクマブ)【IL-23阻害薬】
舌を噛みそうなややこしい名前がずらーと並んでいますが、命名には法則性があるそうです。一応書いてみると。
まずモノクローナル抗体は英語でMonoclonal AntiBodyで略してmab(マブ)となります。ただ1種類の抗体産生細胞(B細胞)から作られた抗体のコピーで同一の分子構造をもちます。ちなみに蛋白質なので消化されるため経口投与ができず、静注か皮下注になります。
またマウス抗体は-omab、キメラ抗体は-ximab、ヒト化抗体は-zumab、完全ヒト抗体は-umabと命名されます。
動物由来成分を有する抗体はアレルギー反応を起こしやすいので、近年はなるべくヒト成分のみでの抗体の生成の方向へ向かっています。
更に標的によって抗腫瘍tu、免疫調節i、インターロイキンki、心血管ci、骨so、ウイルスviと細分されているそうですが却って訳が分からなくなりそうなので、スルーします。
オマブ、キマブ、ツマブ、ウマブの違いを知っているだけでもなんとなくわかる気がします。
近年は乾癬はT細胞性免疫疾患だそうで、昔は免疫疾患とは教わった記憶はなく(今でも?)時代の変遷にビックリです。
乾癬の病態はTIP-DC➡Th1➡Th17軸で説明され、それらに関わるインターロイキン、受容体などをピンポイントでブロックする抗体の効果によって乾癬の病態が理論的にさらに補強されているようです。
しかしながら、乾癬の病態論のパラダイムシフトともいえる理論の転換は結構偶然の産物もあるそうです。シクロスポリンの有効性しかり、TNF抗体製剤しかり、当初は乾癬を目指して開発されたものではなく、移植免疫や、関節リウマチの治療に使ったら乾癬にも効いたなど、偶然の結果で、各種薬剤のトライアンドエラーの積み重ねで、理論づけが進化していったそうです。

乾癬の病態、生物学的製剤の概要については藤田先生の論文から引用させていただきました。
(藤田 英樹:皮膚臨床 60(10);1489~1496,2018)

立て続けに乾癬病態の中心ともいえるTh17をターゲットにしたIL-17阻害薬が発売され、3剤とも微妙に違いますがそれぞれに今までの製剤よりも高い有効性を示しているようです。
これ程までに多くの乾癬に対する生物学的製剤が登場してくると、それぞれの製剤の特徴、使い分けが問題になってきますが、スピード、関節症状の有無、自己注射の可否、投与間隔、安全性、経済性などを指標として使い分けていくといった解説をされました。関節症状ではTNF阻害薬>IL-17阻害薬>IL-23阻害薬の順に有効である程度の導入基準はあるが、7剤に対し絶対的な使用基準はないとのことでした。遠藤先生の数百例もの豊富な使用経験からすると患者さん個々で効果に差があり、正解はない、例外があるとのことでした。
先生は最後に金子みすずの詩集の「私と小鳥と鈴と」からとってきた言葉「みんなちがって、みんないい。」という言葉で締めくくられました。これが講演演題名でもあったのですが。
ここで金子みすずが出てくるか、と一寸意外な感もあったのですが、しばし薄幸の純真でナイーブな詩人に想いを馳せました。

乾癬に対する生物学的製剤はこれで7剤も出てきました。さらに開発中の薬剤が数種類も控えているとのことです。抗体製剤は乾癬の治療において目を見張るような素晴らしい成果を上げてきました。いままでほぼあきらめるしかなかった関節症や重症乾癬が寛解にまで至る例がでてきました。しかしながらいくつかの乗り越えなければならない点も残されているようです。
その一つは寛解とはいっても治癒には至らない点でしょうか。注射している分には治っているが止めると再発する点。入口はあっても出口が見つからないような感じ。薬剤だから当たり前といえば当たり前ですが、この薬剤の非常に高額な点、免疫を抑制するなどの副作用のある点も長期的には問題となってきます。当然長期使用となってくるわけですが、患者さんも当然年を取っていきます。悪性腫瘍や糖尿病、肺炎、肝炎、心不全なども起こしてくるでしょう。こういった人には生物学的製剤は原則使用禁忌です。また高齢化してくると収入は減ってきて年金暮らしとなっていくでしょう。高額療養費制度はあるとはいえかなりな負担になり使用を諦めるケースもあるそうです。バイオシミラーといっていわば後発医薬品のようなものも発売されてきていますが、皮肉なことに安くて高額療養費の限度額を下回ると却って自己負担額が増えるという事態も起こってきます。また低所得者が使用を諦め、生保だと継続できるなどの機会均等といえないケースも起こり得ます。そもそも破綻しかかった現在の健康保険医療制度がいつまでもつのでしょうか。
使用を中止すると悪化する訳なので、そういったケースではどうケアするかといった出口戦略も専門家の先生方に研究して頂きたいという気がします。
重症乾癬に選択できる製剤が多数できたのは朗報ですが、一寸お腹一杯という気もします。本邦では40-50万人の乾癬患者さんがいるといわれますが、バイオ製剤の適応になるのはそのごく一部です。またオテズラの発売でさらに少なくなった感があります。こんなに高い薬を少ない対象に集中して製薬会社は元がとれるのだろうか、と下種の勘繰りをしてしまいます。ただ全世界的にみると数億人の患者さんがいるのでそこはしっかり計算されているのでしょうが。
あと、使用にいろいろと注意を要する薬剤なので我々開業医レベルでは使用しづらい点も難点です。病診連携は常々勧奨されていますが、実際は副作用管理などのリスクは多く、メリットは少ないという事実があります。
最後は一個人のバイアスのかかったネガティブな感想に偏ってしまい、折角の遠藤先生の講演内容の言わんとする主旨を損ねてしまったきらいがあります。(しかし、市井の片隅で皮膚病診療に当たっている一医師のぼやきを表すのもありかと思い、敢えて心配な部分も書きました。このことが杞憂に終わってしまえば却って幸甚です。)

飯塚先生の講演

 先日恒例の浦安皮膚臨床懇話会がありました。なんともう156回とのことです。毎回素晴らしい講師の先生が全国から来ていただき、千葉にいるだけで誰でも(皮膚科医なら?)聴講できる会です。小生は以前はスルーしていましたが、もうお亡くなりになり二度と聞けない大家なども含まれていていまさらながら自分の不明、不勉強を悔やんでいます。
主催者の高森先生に毎回どうしてこんな素晴らしい講演をする人が来るの、と一寸馬鹿な質問をしてみたのですが、高森先生は「いつも学会などで聴いていて、目星をつけた先生を全国から呼んでいるんだよ。」とのことでした。高森先生から声を掛けられたらどの先生も都合がつけばまず断らないでしょう。第1回は臨床の大家、宮崎医科大学の井上勝平教授だったと懐かしそうに話していました。今は亡き植木教授、森教授、玉置教授なども講演されたそうです。これらの教授の講演は今になってとても、とても聴きたいのですが永遠に叶わぬ夢となり果ててしまいました。(そういえばバンクーバーにいって偶然バスの中で同席したドイツの高名な(多分ドイツ皮膚科の大御所)先生の婦人に植木先生は知っているか、ドイツに来て退官後も熱心に勉強していたと言われて、名前は知っているけど業績はあまりよく知らずに、冷や汗ながらあいまいに答えたことがありました、皮膚科のモグリだと思われたかも。でもかつてのベルリン国際学会とかばん持ちで訪れたハイデルベルク大学のPetzoldt教授の話題で何とか繋がりましたが)。
 今回の飯塚先生は過去に数回講演したとのこと、他の会で過去に千葉に講演にいらしたこともあるのですが、今回は1年前から招聘の連絡をとっていたとのことで、高森先生も期待の人でしょうが、小生にとってもとても期待していた先生でした。
今回の講演はオテズラについての講演でしたが、PDE4(ホスホジエステラーゼ4)阻害剤であるオテズラはサイクリックAMPを不活性型のAMPに分解するPDE4を阻害する薬剤です。乾癬ではおしなべてシグナル伝達系が亢進している中で唯一の例外がadenylate cyclade系で、cAMPの上昇にブレーキがかかっています。オテズラは乾癬表皮に過剰に発現しているPDE4を阻害し、細胞内cAMP濃度を上昇させる薬剤の開発の成果として誕生しました。
cAMPの発見の話は過去にも書きましたが、1958年のSutherlandによる発見、さらにPDEの発見により、セカンドメッセンジャーとしてこの物質は一躍注目を浴び、1971年にはミシガン大学のVoorheesが乾癬表皮ではcAMPが低下していることを報告しました。阪大の吉川先生、北大の飯塚先生、根本先生らはマイアミ大学のHalprin先生や安達先生らの指導のもとVoorheesの説の検証をされました。
その当時の苦労話から、その後進化した最近の乾癬の病因、病態について懇切丁寧に、広範な知見を披瀝、解説して頂きました。難しい話を噛み砕いて素人にも分かりやすく説明して下さるのですが、何回聴いても途中でついて行けなくなります。
考えてみれば人体内、細胞内外で生じている代謝、シグナル伝達系の全貌など完全に解明されているわけではないし、その中で乾癬がどのように不調をきたしているかも完全には解明されていないわけです。はい、これが正解です、というように単純明快にはいかないのも当然です。しかしながら過去から現在に至る乾癬研究の全体に通暁していて、免疫、表皮増殖に偏らずに生体のダイナミクス全貌をみて真実に迫ろうとする迫力はなんとなく理解できました。
先生はマイアミ大学のHalprin先生の生体代謝の全般に亘る見方を教わったことがその後の先生の研究のバックボーンになっている(というような)お話をされました。
 高森先生は若かりし頃からの共に競い合い、勉強し合った仲間だとおっしゃいました。彼はどんなに少ない人数の講演でも、興味を持ってくれる人がいれば手抜きをせずに話すのだ、と言っていました。
一般向けにはいつもやや高度過ぎて、ついていけないきらいはありますが、外連味のない講演は久しぶりに学生に戻って先生の講義を受けている気になり年甲斐もなく一寸若返った気がしました。

最近ちょっとあたふた

ここ1,2か月何となくあたふたと落ち着かない日々を過ごしました。たまたま講演やら書き物が重なったせいでした。
普段からそういった活動に慣れている現役バリバリの先生方にとっては、日々当たり前の普通の活動なのでしょうが、慣れない者にとっては気の重い日々でした。
皮膚の日の講演会でサブとはいえ、「手荒れ、足荒れとそのケア」の話をし、医療情報雑誌に乾癬のインタビュー記事の依頼を受け、それをまとめ校正し、なぜか専門でもないダーモスコピーの依頼原稿をホイホイ受けてしまってから、それを纏めるのに四苦八苦してしまいました。盆、暮れ、正月が一緒にきたような忙しさ、といってはオーバーですが、気分的にはそんな感じで普段一つのことしか頭が回らない自分にとってはオーバーワークだと思いました。安請け合いはしないことだとやっと分かりました。一応皮膚の日講演も終わり、一段落といったところです。でも慣れてなくてあれもこれもしゃべろうとして予定時間をオーバーしてしまい最後はしどろもどろですっ飛ばしてしまいました。不完全燃焼感が残ってしまいました。
冗談を交えながら、ぴたっと時間通りに終わり、立て板に水を流すような講演をする先生をみると頭脳構造の違いを見せつけられるようで落ち込んでしまいます。
でも、人前で話したり、雑誌に書いたりするといかに普段の知識があやふやかを再認識することができ、自分の知識の確認になることがわかります。それだけでもよしとするか。
でもまあ、こういったことはもうないでしょう。
多少いい加減な知識でも後ろの方でボーと聞いていたほうがずっと楽です。しかも日皮会誌で専門医試験の問題をぱらぱらみていたら、その難しいこと、流石に聞いたこともない事柄はないのですが、さて正確に解答しなさい、説明しなさいといわれれば正確に覚えていないことのぼろが丸見えの思いでした。

老兵はだんだんと時代についていけなくなっているのかなー。

今年もノーベル賞

10月、またノーベル賞の月間がやってきました。最近は日本人が受賞するのも恒例になってあまり驚きもしませんが、やはり凄いことです。今年は特に本庶先生ということで、名だたる免疫学の大家とか、科学者が論評したり、記事を書いたりされています。とりわけ皮膚科に関連が強いとあって、皮膚科の免疫や癌の専門の先生方による興奮と感嘆の念の込められたコメントが伝わってきます。
皮膚科とはいえ、素人がブログにするのもおこがましい感じがしますが、メラノーマへの若干の思いがあり、一寸書いてみます。
小生がメラノーマ(悪性黒色腫)の実臨床にかかわっていたのは、もう30-40年も前の昔になります。その頃は大した治療法もなく、手術で取り切れなくて一旦転移したらもう、茫然と見守るだけしかなかったような時代でした。数々の思い出は苦いものばかりです。
駆け出しの内科医だった頃、胸部のレントゲンを撮ったら小さな丸い影が胸中まるで豆をばら撒いたように映った像があり、慌てふためいて皮膚科の主治医の処に駆け込んだことがあります。ベテランの皮膚科の先生はしごく冷静で、そんなにあわてふためくものではないとたしなめられました。よく覚えていませんが、患者さんも主治医もメラノーマの状況は十分にわかっていてばたばたしても何もいいことがないのは承知のことだったのでしょう。QOLを考えて冷静に対応されていたのだとと思います。
また皮膚科に移ってからも数々の患者さんと出会いました。大学の職員ながらメラノーマで最後は脳転移しながら結構永らく従容として仕事されていた方。また下肢のメラノーマでは鼠蹊部のリンパ節廓清をすると逆流性にin transit 転移 といって下肢中に再発する患者さんが多くありました。当時はDAV Feron療法といって抗がん剤のダカルバジンの点滴を繰り返していましたが、患者さんは吐気でトレイをかかえながらゲーゲーとしていました。またインターフェロンやピシバニールの局所注射をやったりしていましたが、大して効いた感触はありませんでした。苦しみが続いて、「先生、もういいです。楽にして下さい。」などといわれ愕然としてなすすべもなく虚しさや無力感を感じたこともありました。
一時期メラノーマ細胞を培養して樹立株を作ろうとしたり、ヌードマウスに移植したりして実験のまね事をしたりしていましたが成果はあがりませんでした。
開業してからはとんとメラノーマとは縁がなくなりましたが、時々講演を聴いてもそれ程治療の進展もないようでした。ブログに駄文をかくようになってもしばらくは以前の抗がん剤治療が続いていました。DTIC(ダカルバジン)とフェロンの時代が続いていたと思います。しばらくして分子標的薬の話を耳にするようになりました。
まとまった記事としては2016年9月26日の「メラノーマの薬物療法」として書いています。これは同年の日皮会生涯教育シンポジウムで宇原 久先生の講演「メラノーマに対する免疫チェックポイント阻害薬」の内容をまとめたものです。読み返してみて内容をほとんど忘れていました。そのあとの大塚篤司先生の解説の内容もほぼ忘れていました。
他人の受け売りはほとんど身につかないのですね。
ともあれ、2011年米国FDAで免疫チェックポイント阻害薬 ipilimumab(ヤーボイ、抗CTLA-4抗体)と分子標的薬vemurafenibがメラノーマの新規治療薬として承認され、メラノーマ治療の新時代を迎えました。(J. Allison教授は1995年CTLA-4を発見、抗体の開発に取り組み、これが腫瘍の排除につながることを証明しノーベル賞に繋がりました。)
2014年には今回のノーベル賞のもとになった抗PD-1抗体nibolumab(オプジーボ)が世界に先駆けて日本でメラノーマ新規治療薬として承認され、メラノーマ治療のブレイクスルーになったことは有名です。(それまでは欧米から周回遅れといわれていた日本のメラノーマ治療がやっと先頭集団に近づいたといわれます。)ほどなくして肺癌などにも認可されましたが、その高額なこと、一部の患者にしか効かないこと、副作用などクリアーすべき課題も多いようです。
PD-1が本庶研究室で発見されたのが1992年とのことなので、オプジーボの開発、臨床化には長い時間がかかっていて、製薬メーカー探しの苦労話なども聞きます。さらにもっとそれ以前からの地道なぶれない基礎免疫学の研究があったといいます。
この薬剤によって、かつてなすすべもなかった悪性黒色腫の一部でも寛解する患者がでてきたことは凄いことです。
ただただ最近の医学の発展の速さは驚くものがあります。若い医師は普通にヤーボイ、オプジーボを使いこなしている(らしい)ですが、時代おくれのロートル医には耳学問の世界の薬です。今年のEADVでもヤーボイとオプジーボの併用によってさらにメラノーマの延命率が向上するデータが示されていました(副作用も格段に上がる)。しかし小生がこれらの薬に実際にお目にかかるのは医師としてでではなく、多分患者としてでしょう。
日本人の科学力のレベルの高さに喝采です。でも、ノーベル賞クラスの先生方はこぞって日本の科学力の低下を危惧されています。アジアでも中国やその他の国の後塵を拝するような予想をされています。経済力の低下はすなわち国力の低下、科学立国の位置の低下につながるのでしょうか。でも戦後の復興期の湯川秀樹の頃は金も設備も何もなかったといいます。経済力だけではないのかも。若い科学者達、金はなくても日本人の潜在力を信じて頑張ってとエールを送りたいと思います。

パリ遠近  サンルイ病院ムラージュ博物館

今年のEADV(ヨーロッパ皮膚科学会)はパリで開催されました。学会を一寸覗いて、あとは観光しました。
ぶらぶら歩きの一端を。
学会場はシャンゼリゼ通り、凱旋門からも近くの、2つ目のメトロ駅Porte Maillotのすぐ前にありました。Palais des Congres de Parisという大きな国際会議場でした。
賑やかな会議場を一歩外に出て、大通りを渡るとそこはもうブローニュの森の入口です。歩みを進めると、フランスの小学生の課外学習かと思われる一団やランニングをしている人達がいました。さらに歩みを進めて森の中に分け入るとそこは細いトレールだけでもう人ひとりいません。静かで森の息吹を感じながら歩け、大都会のすぐ近くにこんなところがあるのかと、山歩きの好きな小生には感激でした。しかし、たまに人や自転車が現れると一寸緊張します。あまり奥深いトレールは独り歩きには一寸不向きかもしれません。特に夜間は結構怖いところでもあるそうで。
もっと進むと広い道にでました。のびやかな道は湖沿いに南下してロンシャン競馬場やローラン・ギャロスのテニス場に続いています。森の中にはいくつもの綺麗な庭園があるそうですがスルーしました。途中の河沿いの道は広々と開けて、木立もあり、ジョッギングや散策の人もみられ素敵なところでした。競馬場まで2時間近く歩くと、さすがに疲れてきて帰りはメトロの処まで歩くのも面倒になりタクシーに乗りました。
今度の学会ではMartine Bagot教授によるサン・ルイ病院皮膚科見学のガイドツアーが組まれていて、病院の説明と共にムラージュ博物館でカクテルサービスもついているというものでした。興味があったので申し込んだのですが、定員に達し残念ながら選外でした、とのメールが入りました。はるばる日本からきて見学できないのも癪なので、何とか見学したいとメールしたら、数日後に予約がとれました。それで指定の日に行ってきました。
サン・ルイ病院のことは先代の岡本千葉大教授を始め、いろいろな先生方から聞き及んではいましたが、先年岡山大学皮膚科岩月啓氏教授らが纏められた「原著に学ぶフランス皮膚科学の古典」という書をみてからは是非機会があれば訪れたいと思っていた場所でした。先代の岡山大学名誉教授荒田次郎先生もサン・ルイ病院に留学されており、同大学との関係は深いものがあるそうです。
当日、午前10時に所定の場所に来るように、とのことでした。ムラージュ博物館はサン・ルイ病院の角の一隅にありひっそりとしていました。入口もよく解らず、近くの人に尋ね裏口から建物に入りましたが、女性職員が表の入口まで案内してくれました。ベルを押すと中年男性の係官が親切に案内して下さいましたが、英語は不案内のようでした。それでも2階に上がり、ムラージュ室を案内してくれて自由に見てよいが写真はダメとのことでした。人ひとりいない部屋で数時間じっくり見学でき、解説もウエルカムカクテルもありませんでしたがかえって自分だけの至福の時を過ごせました。
ムラージュとは皮膚疾患の蝋細工で、カラー彩色された疾患群は生々しくまるで眼前に生きた人がいるかのような臨場感があります。そしてフランスの至宝ともいうべき名医たちが名づけた疾患を含めて数々の皮膚疾患のムラージュがアルファベット順に壁一面に展示してありました。展示は講堂の1階、2階にわたっており、2階部分は回廊のようになっていました。トータル162の硝子ケースに入ったムラージュの数々の中には、今日あまりお目にかからない胎児梅毒や3期梅毒、軟性下疳、ハンセン病、皮膚結核などの疾患が豊富にありました。岩月教授はそれら古典の中から15疾患、12著者を選定し、その原典をサン・ルイ病院の図書館で閲覧・コピーして翻訳出版されました。翻訳に当たっては岡山大学からCivatte教授の許に留学され、さらにソルボンヌ大学にも在籍された大熊 登先生が担当されたそうです。
皮膚科医ならば誰もが学ぶ冠名疾患の数々。
Devergie, Gibert, Bazin, Fournier, Darier, Brocq, Vidal, Besnier, Hallopeau, Sezary, Degos などの名前が挙げられ、ムラージュと共にその疾患の記載があります。100年以上も前、電子顕微鏡もなく、免疫学、細菌学、組織学なども発展していない時期にそれでも疾患の病因に迫ろうとする熱気、皮膚症候の記載の精密さには驚かされます。
日本の皮膚科学は土肥慶蔵を創始者としてドイツ学派の影響の基に発展してきたのは事実で、フランス皮膚科学は云わば傍流の感もありますがこうしてみるとその黎明期には大きな力をもっていたことが分かります。
事実、このムラージュに関してはサン・ルイがその創始であり、ドイツ、オーストリア学派もサン・ルイのムラージュを参考にして、また技術を学んで作っていったそうです。
数時間歩きっぱなし、数多くのムラージュに圧倒されて、さすがにぐったりと疲れがでました。もっといたかったけれど係官にも迷惑だろうし、午後はメキシコからの見学者もあったようなので、お礼をいっておいとましました。
旧病院の中庭はまるで公園か庭園のようで、皆さんも芝生に寝転がってランチなどしていました。小生もしばしベンチで疲れをとりました。旧病院から道路を挟んで、これと対照的な新病院がありました。皮膚科の外来、入院もあり、Prof. M. Bagotの案内板の表示もありましたが、アポイントなしでしかもどこの誰とも分からない者がいきなり訪問するのも失礼なことと思い入口ホールを見ただけで失礼しました。最新の病院とともに古い歴史建造物も同居させた懐の深さを感じさせる病院でした。

  夜の凱旋門

 一寸横に逸れるとこういった細道もあった。一人で分け入るのは一寸恐そう。

 湖沿いの開けた散策コース

 散策している人、ベンチでくつろいでいる人も。

 はるばるとロンシャン競馬場まで歩いてきた。流石に疲れた。

 競馬場の入口。

 岡山大学岩月教授らが纏められた。サン・ルイ病院医学図書館蔵書からフランス人皮膚科医の名を冠した代表的な疾患の原典翻訳とムラージュの紹介本。今回見学のきっかけとなった本。

 サン・ルイ病院の古い建物の入り口の一つ。

 iPadを片手に博物館をめざした。

 ムラージュ博物館の入口。意外とこじんまりとしていて見落としそう。でも写真を見くらべたら、1889年、第1回国際皮膚科学会の記念写真はこの場所にずらっと出席者が並んで写っていた。

 サン・ルイ病院の名前の由来であるフランス国王ルイ9世

(在位 1226-1270)。入口すぐのコーナーにある。

 別のコーナーには真菌で有名なサブロー博士。かつて太田正雄もパリで師事した真菌の大家である。

 旧病院の中庭。三々五々ランチタイムの休憩。

 道路を挟んで対照的に近代的な新病院。

 新病院の入口ホール。

種痘様水疱症と蚊刺過敏症

種痘様水疱症とは、幼少時に日光露光部を中心に中心臍窩を伴う水疱や痂皮が付着した丘疹が多発し、瘢痕を残して治癒する疾患です。蚊のアレルギーとは一見何の関係も無いようですが、重症型ではEBウイルス関連のT/NKリンパ球増殖症を発症して予後不良になる点で繋がりがあります。

まず種痘様水疱症(hydroa vacciniforme:HV) について
歴史的には発疹が種痘に似ていることから、1862年にBazinがHVと命名しました。また症状が似ていることから当初は骨髄性ポルフィリン症も紛れ込んでいたようです。

近年、HVの皮膚病変部には(Epstein Barr virus:EBV)が存在することが明らかになりました。ほとんどの症例では、成人前に自然軽快します。古典型HV(classical HV: cHV)。しかしながらごく一部(10%?)ではHVの臨床像ではあっても次第に非露光部にも皮疹を認め、発熱、リンパ節腫脹などの全身症状あるいは血液学的異常を伴う全身型HV(systemic HV: sHV)に移行するケースもあります。
最近三宅らは9歳以上で発症した場合と、EBV再活性化マーカーであるBZLF1 mRNAの皮膚組織での発現が予後不良の因子である可能性を報告しています。
EBウイルスが潜伏感染したT/NK細胞が皮膚病変部に浸潤していますが、これが皮疹の形成にどのように関わっているかは明らかではありません。
HVの他に皮膚科関連では、重症の蚊のアレルギー、蚊刺(ぶんし)過敏症(hypersensitivity to mosquito bites: HMB)があり、慢性活動性EBウイルス感染症(CAEBV)と合わせてEBウイルス関連T/NKリンパ増殖症(lymphoproliferative disorders: LPD)と呼びます。
血液中にはEBウイルス感染γδT細胞が増殖しています。
HMBは、虫刺されやワクチン注射に続いて、激しい皮膚反応と発熱や肝障害などの全身症状をきたします。
cHV群は、良好な経過をとりますが、sHVとHMBの予後は不良で発症後それぞれ10年、5年で死亡率5割とされています。

ちなみに慢性活動性EBウイルス感染症とは遷延あるいは再発する伝染性単核球症様症状を呈し、血液中および病変組織にEBウイルスのDNAが見られる疾患です。日本など東アジアと中南米に多く、遺伝的な背景が考えられています。
通常はB細胞を標的とするEBVが、TあるいはNK細胞に感染して増殖を誘発するとされていますが、その詳しい機構はまだ不明です。腫瘍性疾患の特徴と免疫不全症の特徴を併せ持っています。
それで、種痘様水疱症、蚊刺過敏症の他に多臓器不全、血球貪食症候群、悪性リンパ腫などを合併します。
また慢性疲労症候群とよばれる疾患群の一部にCAEBVが含まれていることもわかってきましたが、疾患の全貌はこれからの研究に委ねられているとのことです。
治療は、抗ウイルス剤のアシクロビル、ガンシクロビル、IL-2、IFN、ステロイド、シクロスポリンなどの免疫抑制剤、抗がん剤などがつかわれますが、なかなか完治には至らないようです。。唯一造血幹細胞移植が完治しうる治療のようです。
最近、これらの患者さんのEBV感染細胞の中では、転写因子STAT3が恒常的に活性化していて、免疫、炎症の暴走を起こしているが、これを抑制するJAK阻害薬でその活性化が抑制され、さらに炎症性サイトカインの産生も抑制されるとの研究があります。臨床上での効果に期待したいところです。(ちなみにこのチロシンキナーゼのシグナル伝達系でSTAT3は乾癬表皮においても活性化しているとされ(高知大学 佐野)興味あるところです。)

参考文献

岩月啓氏  EBウイルス関連皮膚T/NKリンパ増殖症ー種痘様水疱症と蚊刺過敏症ー
日本小児血液・がん学会雑誌・52巻(2015)3号 p.317-325

三宅智子 種痘様水疱症 皮膚疾患 最新の治療 2017-2018 編集・渡辺晋一・古川福実 南江堂 東京 2017

風雪のビバーク

風雪のビバーク  松涛 明

久しぶりの山の本の記事です。といっても実は以前同名で当ブログに記事を書いているのですが、ある時ブログがダウンしてしまってこの部分も復元できずに反故になってしまいました。皮膚科の内容は昔のこととてそれ程気にも止めませんが、むしろ山の本のことはずっと気にかかっていました。その中の一つがこの本でしょうか。それで図書館から借りてもう一度読んでみました。
著者の松涛 明(まつなみあきら)の紹介文として次のように書いてあります。
「1922年仙台に生まれ、府立第一中学校から東京農大に学ぶ。中学時代から登山に熱中し、1938年7月東京登歩渓流会に入会。つねに尖鋭なクライマーとして活躍した。1949年1月、槍ヶ岳、北鎌尾根において打ちつづく風雪のため遭難死す。行年28歳」

本書は、松涛明亡き後、北鎌尾根遭難の顛末を風雪のビバークとして、杉本光作らの登歩渓流会がまとめたものと、生前の彼の寄稿文、記録集よりなる遺稿集という体裁をとっています。それゆえに全体の松涛明の本としてのまとまりには欠けますが、短かった彼の山の人生の足跡、考えを知ることができます。なにより遭難し、最期の時まで克明に記された手記には読む人に感動と感涙の念を起こさせ、不朽の山岳名著として有名です。
彼らが遭難した北鎌尾根は山岳愛好家にとっては特別なところのように思われます。それは、当の松涛 明の壮絶な遭難の手記とともに、これまた山岳家のレジェンドともいえる加藤文太郎が遭難死したところでもあるからです。北鎌尾根は日本アルプスの中でもひと際目立ち、秀麗な槍ヶ岳から北に連なる岩尾根です。風雪のビバークは遭難報告、手記部分ですが、生前の松涛明の山行、文章には早熟な非凡な才能を感じます。もしも彼がそのまま生きていたら日本の登山界をリードするような山岳人に成長したのではないかと思わずにはおられません。
本書の山行記録の中で特筆すべきはわずか18歳での北穂高岳滝谷第1尾根の冬季初登攀、遭難前年の北岳バットレス中央稜初登攀の記録でしょうか。戦前の(昭和14年)それ程良い装備もなく、滝谷もそれ程開拓されていなかった時代に、日本でも一級の岩場の冬季滝谷を初登攀しています。しかも本格的な岩登りは前年に始めたばかりです。東京登歩渓流会に入会1年わずかですでに尖鋭的な登山をはじめています。滝谷の登攀は夜間にまで及び、皓々と月の照る北穂の頂上に抜け出したのが夜の22時15分だというから驚きです。後年「貧弱な私の経験を通じて、この登攀は最も苦しくもあり、かつ想い出深いものであった。もう一度やれと言われても恐らくやれないかと思う。」と述懐しています。
北岳バットレスは戦前から何回も通った岩場ですが、昭和23年はその集大成ともいえる1週間にもわたる大樺沢生活を送り北岳バットレス概説をしています。第1尾根から第5尾根までほぼ全ての尾根を登りつくし、23年合宿では直接北岳頂上に突き上げるクラッシックで北岳で最もハイライトともいえる中央稜の初登攀を成功させています。
これ以外にも昭和15年の「春の遠山入り」では、伊那ー易老岳ー聖岳ー赤石岳ー悪沢岳ー椹島ー伝付峠と3月の雪深い長大な南アルプスを1週間にわたって単独で横断した記録で目を見張るものです。
その他、短期間に丹沢、谷川、穂高、南アルプス、八ツなどを精力的に登っています。

単に登るだけではなく、登山に対する真摯な考えを持ち、会報に鋭い考察も寄稿したりしています。特に3年程の兵役を終えて、戦後になると登歩渓流会の中心人物になっていったようです。会の重鎮の杉本光作氏は「約3年間の軍隊生活は、彼を人間的に大きく成長させていたようだった。一言でいうならば、人格に一段と磨きがかかった感じだった。復員してからは物資不足と安定しない世情にもかかわらず、再び山への闘志をかきたてて戦前にも劣らない山行を続けていたのだった。戦後は会の古い人達も殆ど山から遠ざかっていたので、松涛君が事実上の会の指導者だった。山行の傍ら会報の編集、発行、発送まで一人でやっていた熱心さにも頭の下るほどだった。山に対して卓越した識見を持ち、会をぐんぐん引っ張って行ったのもこの頃である。」と述べています。さらに自ら学生でありながら極地法をとる日本山岳会や学校山岳部の在り方に疑問を持ち、登山は大衆のものだとの考えから山岳連盟の必要性を主張し、将来のヒマラヤ登山に対しても一家言をもっていたそうです。
寄稿文も単なる報告ではなく、一方で簡潔で正確を期しながら、一方で情景の描写は活き活きとして伝ってきます。タラ、レバながら遭難しなければ戦後の登山界のリーダーとなっていたのでは、と思わせます。

次に私の好きな一節を引用します。
戦後山どころではなく、山を忘れようと自分にいいきかせようとして暮らしていた頃の文です。
『ある日、私は隣村に通ずる橋を渡って、伯父の家へ急いでいた。今まで貸していた土地の問題について伯父の知恵を借りるために。もう夕暮れ近くなって、涼しい風が田の面を渡っていた。稲の青い穂が波打って、秋が近づいていた。田園の果に、筑波、加波の山波が夕陽を浴びて黄ばんでいた。その上に、山の高さの数倍の高さに、巨大な積乱雲が盛り上がっていた。紅みがかった円い頭は、なおも高く湧き返っているようだった。その姿は突然、私にかつての日の夏の穂高を思い起こさせた。それは烈しい、自分自身でどうにも抑えられぬほどの山への思慕であった。静かな夏の夕暮れ、人気の絶えた奥穂高の頂に腰を下ろしている時、ジャンダルムの上に高く高く聳えていた雲は、この雲ではなかったか。そして今もまた、この雲があの穂高の上でひっそりと黙って湧き上っているのではないだろうか。
「山へ行きたい」、「穂高へ行きたい」。もう用件も何もあったものではない。すぐ家へ帰って、ルックを詰めて・・・。よほどのこと、私はそうしようかと思った。』・・・時として自分にもこのような感情が湧き上がることがありました。

戦後の山への活動を再開させて、さらに高みへと邁進していた時に突然、終止符が打たれます。それがこの本の題名にもなった槍ヶ岳北鎌尾根での風雪のビバークです。実はこの計画には先があって、穂高を経て焼岳までの縦走を計画ししかもノンサポートで、荷揚げも行わず、約1ヶ月分の食料装備一切を2人で担いで行動しようという壮大なものだったそうです。
遭難には想定外のことが積み重なって起こることが多いですが、この山行も普段とは様相が異なっていました。まず、12月年末には異常なほどの気温の高さです。23日の手記。「雪の消えた事オドロクばかり、P2の側稜はまるで五月の山で、地肌さえでている。P1との間の沢へ入って中間の側稜を登ったが、非常に苦しかった。」
その後の雨風です。大雨でずぶ濡れになり、テントも濡れ、有元との合流は数日遅れ、濡れたテントはバリバリに凍り、残置し、ツエルト、雪洞泊に予定変更しています。ラジウスは焚きっぱなしで後日の器具の不調にも繋がったかもしれません。しかも26日には「熱っぽく、耳下腺腫れる。雨もひどいので休養とす。朝食抜きで11時頃までねる。午後有元にヤッホー送るも応答なし。」とあり、27日には「豪雨沈澱、テント破れんばかりにはためく。」 28日には有元と合流し一旦下山、その後一転して気温は降下、30日は湯俣からP4手前でビバーク、31日は「アラレ、ミゾレの中のツェルトビバーク、雪はげしくツェルトを覆い、首の根を抑えつけられた。これまでに最も苦しいビバーク。身体は濡れ殆ど眠れず、燃料消費烈し。」と。
明けて1月1日は大風雪、アイゼンも輪かんも効かず、烈しい風雪中に苦闘しやっと北鎌コルに雪洞を掘り逃げ込むもラジウスが不調となりました。 1月2日「ラジウス破壊、然罐とガソリンの直焚きで水を作る。7時頃息苦しくて気付いてみると入口閉塞、有元掘る。動揺激しく、風雪は昨日にもましてひどいし、濡物もそのままなので1日沈澱。上るか、下るかの岐路に立つ。」とあります。実はここが生死の分かれ目だったかもしれません。そのままならば撤退していたかもしれませんが、皮肉にも「夜星空となる。ラジウスも応急修理で何とか燃え出したので明日は登高とする。」と書いてあります。つかの間の偽りの天候回復だったようです。
1月3、4日も風雪、有元は足を凍傷にやられ、それでも悪戦苦闘の末悪場独標越えをしています。夜中には小さい雪洞の入口は風で飛ばされ、全身雪で濡れる、と遭難寸前の状態です。(後の記録でも雨、ミゾレ、吹雪と続く気象は異常で1月4-8日に亘る大吹雪は記録的なものだったそうです。)
1月5日 フーセツ SNOWWHOLEヲ出タトタン全身バリバリニコオル、手モアイゼンバンドモ凍ッテアイゼンツケラレズ、ステップカットデヤリマデ ユカントセシモ(有)千丈側ニスリップ上リナホス力ナキ タメ共ニ千丈ヘ下ル、カラミデモラッセルムネマデ、15時SHヲホル
1月6日 フーセツ 全身硬ッテ力ナシ 何トカ湯俣迄ト思ウモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス オカアサン アナタノヤサシサニタダカンシャ、一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス。何ノコーヨウも出来ズ死ヌツミヲオユルシ下サイ・・・
有元ト死ヲ決シタノガ 6時 今 14時 仲々死ネナイ 漸ク腰迄硬直ガキタ、全シンフルヘ、有元モHERZ、ソロソロクルシ、ヒグレトトモニ凡テオワラン ユタカ、ヤスシ、タカヲヨ スマヌ、ユルセ、ツヨクコーヨウタノム サイゴマデタタカフモイノチ 友ノ辺ニ スツルモイノチ 共ニユク(松ナミ)・・・
我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル、個人ハカリノ姿 グルグルマワル 松ナミ、・・・
数次にわたる捜索隊は7月末に千丈沢の四ノ沢出合い付近で2人の遺骸を発見しました。カメラ、手記は散逸しないようにライファン紙の袋に入れて、岩陰の流出の恐れのなさそうな場所に置いてあったそうです。
この山行の計画、天候予想、行動の判断など後にはいろいろと論評があるようですが、遭難最期にこのようにかくも冷静に手記を認めたことには驚きを禁じえません。何か死を達観して従容として死地に向かう侍のようです。これは戦争を経験した当時の人々の人生観もあるのかもしれません。同時代に活躍した岳人であり、文筆家の安川茂雄は書評に次のように書いています。「私たち(私も三島同様に大正14年だが・・・)の同時代には、たしかに死はごく身近な存在であったことはたしかである。・・・例えば、本書中にのこされた松涛の遺書、それは三島のそれとは明らかに異るのではあるが、そこにつらぬかれている死への距離、あるいは親しさといったものに無限の感動を覚えるのだ。・・・三島が葉隠れ論語中の「武士道とは死ぬこととおぼえたり」という言葉にいたく感銘していたそうだが、松涛のこの遺書中には「アルピニストとは死ぬこととおぼえたり」の印象を私など胸にうけるのだ。」
安川のこの文が松涛の考えそのものを代弁したものかどうかは分かりませんが、あの時代に青春を過ごし戦場で明日をも知れない毎日を送り、現に戦場で散っていった仲間を幾人もみたであろう人はどこか自分の死すらも達観して見られた、あるいは死に遅れた余分な命という気持ちがあったのでしょうか。
この本は最近もまた別の発行元より、再版されています。確かそこには手書きの遺書のコピーが載せられていました。それを思い起こす度に深い感動を抱かずにはおれません。遭難、また彼の全てを美化するつもりはありませんが、そのような時にはまた本書を紐解いて彼の足跡に触れてみたくなります。