色素性乾皮症( 3 )

【色素性乾皮症(XP)のDNA修復機構異常について】

錦織千佳子 色素性乾皮症 皮膚科の臨床 Vol57, No6, 897,2015 より

紫外線によるDNA損傷は、ピリミジン塩基が隣接する部位で起きやすく、隣り合った同士が二量体を作るシクロブタン型ピリミジンダイマーや6-4光産物が多く作られます。これらはDNA 二本鎖構造にゆがみを生じますが、この傷を修復する経路としてヒトではヌクオチド除去修復(nucleotide excision repair: NER)が存在します。これにはゲノム全体を一様に修復する全ゲノム修復(global genome repair: GGR)と、転写鎖で優先的に行われる転写共役修復(transcription coupled repair: TCR)がありますが、両者は損傷DNAの認識機構は異なるものの、それ以降の経路は共通しています。上図のようにNERのいずれかのステップにかかわる分子に障害があるとXPA~G群を発症します。近年その遺伝子の塩基配列、また遺伝子座は解明されています(前項、色素性乾皮症ガイドライン表、参照)。

またNERとは別に損傷乗り越え修復(translesional DNA synththesis: TLS)があります。DNA損傷によって複製がストップしてしまうのを避けるために傷はそのままにして、向かいの二重鎖に塩基を挿入して複製を進めていきます。XP-Vではこの系で働くDNA合成酵素h(DNAポリメラーゼη :POLH)に障害があります。この酵素はピリミジンダイマーの向かいの嬢鎖にA-Aを挿入して複製を進めます。本来error prone(誤りがち)な複製経路ではありますが、紫外線によるDNA損傷ではチミンダイマーが多いことから結果的にT-T A-Aの誤りの少ない複製となっています。

XP患者では各群で臨床的に違いがありますが、同じ群でもその表現型と遺伝型との間に相関があります。本邦のXPA患者では88%でXPA遺伝子のイントロン3、3‘側のスプライシング受容部位のGからCへのホモ変異が認められ(IVS3-1G>C)、創始者変異と考えられています。これは日本人XPA群患者のXPA遺伝子のホットスポットであり、PCR制限酵素断片長変化(AlwNI)によるPCR-RFLF解析によって検出されます。同じA群でもエクソン6のナンセンス変異の場合は症状の進行が遅く神経症状は成人になってから発症します。日本人ではV群においても創始者変異が認められます。日本人でのXP遺伝子の保因者頻度は全体で人口の3%、A群は1%とかなり高率です。たまたま両親ともに保因者であった場合は1/4の確率で患者が生まれることになります。

【診断と検査】

特徴的な皮疹、光線過敏、その経過によりなるべく早期に診断することが重要です。
XPを疑ったら次の順に検査を進めていきます。

🔷光線照射試験、最小紅斑量の測定

sun lampなどのbroad band UVB光源を患者背部に照射し、24時間後にかすかに識別できる紅斑が生じる最小の紫外線量(最小紅斑量 minimum erythema dose: MED)を測定します。TCRに異常がある群ではMEDが低下し、紅斑出現のピークも遅延します。GGRのみ障害されるC群、E群およびTLSに障害のあるV型では低下しないことが多いです。
明らかにA群が疑われる場合は不必要な紫外線の照射試験は避け次の検査に進みます。以下の検査は患者さんの皮膚生検組織から細胞培養を行い、線維芽細胞を用いて行います。

 

🔷紫外線感受性試験(コロニー形成法)

一定量の線維芽細胞をシャーレに撒き、紫外線を照射して細胞が死滅し、コロニーが減衰し、細胞が生き残る割合を非照射対照に対する百分率で求めます。A群が紫外線致死に対して最も感受性が高く、XP-Vは最も感受性が弱いとされます

近藤靖児・市橋正光 色素性乾皮症 p164 光線過敏症 金原出版 東京 2002 より

🔷不定期DNA合成能の測定

不定期DNA合成(unscheduled DNA synthesis: UDS)とは定期DNA合成に対応する言葉で、本来DNAが合成(複製)されないはずの時期におこる合成をさします。定期DNA合成は細胞周期のS期(synthesis period)におきますが、細胞が分裂せず、DNA合成もしないG0期などでは、普段外部からDNAの前駆物質である3H-チミジンを与えても取り込みません。しかし正常細胞に紫外線を照射したあとでは下図のa.のように取り込みます。少量のDNA合成、修復があったことがオートラジオグラフィーでわかります。しかし色素性乾皮症の細胞では下図b.のようにこの取り込みが欠損ないし低下しています。

XP細胞ではUDSは正常細胞の50%以下に低下しますが、 XP-Vでは70%以上は保たれています。

 

近藤靖児・市橋正光 色素性乾皮症 p178 光線過敏症 金原出版 東京 2002 より

🔷宿主細胞回復能(host cell deactivation : HCR)

Sendai ウイルス、アデノウイルス、ヘルペスウイルスなどに紫外線照射し、これらのウイルスの希釈一定量をXP細胞が単層で隙間なく増殖した状態の時に、シャーレ内に散布します。そして1〜2週間培養します。ウイルスが増殖した部位は細胞融解を起こし、細胞がなくなり、プラークとなります。それはウイルスが増殖したことを示し、宿主細胞の修復活性能を反映しているとみなされます。XP細胞では(特にA群では)ウイルスの生存率が低下し、コロニー形成法と似たような生存曲線となります。

🔷相補性群試験

ポリエチレングリコールで処理することによって異なる人由来の細胞を融合させることができます。下図のように2種の細胞A,Bのいずれかあるいは両種の核を持つ2核細胞や多核細胞ができます。
これらに紫外線照射後トリチウム−チミジンを取り込ませ、UDSをみると、異なる細胞核(A-B)の入った細胞は、お互いに遺伝的に異なった欠損を相補うために、UDSは正常レベルまで回復します。これを相補性といいます。一方で同種の場合(A-AまたはB-B)はUDSの回復は全く見られません。このような検索を異なったXP細胞間で繰り返しA~G群までの相補性群が確定してきました。

近年はこのように面倒な細胞融合法ではなくて、紫外線照射したレポータープラスミド(ルシフェラーぜ発現ベクター)を患者細胞に遺伝子導入することによりHCRを指標にする方法で行われるようになり、検査の感度、迅速性が向上しました。但し、この方法ではNER低下の少ないXP-E, NER機能は正常でTLSに異常があるXP-Vの診断は困難だそうです(森脇真一  日皮会研修講習会テキスト より)。

細胞融合法


近藤靖児・市橋正光 色素性乾皮症 p163 光線過敏症 金原出版 東京 2002 より

🔷原因遺伝子産物の検出

XP-V患者ではMEDも正常で日焼け反応も起こさず、上記のコロニー形成法でも低下は少なく、UDSの低下も軽度とされます。これらの検査では確定診断に至りません。しかし、90%以上の患者さんでTLS(損傷乗り換え複製)で働くはずのPOLH蛋白の発現が認められないか、低下しているためにその蛋白の発現を検索することがXP-Vの確定診断に有用です。


🔷XP患者の遺伝子診断

近年XP遺伝子は同定され、遺伝子診断が可能になりました。特に日本人のXP患者に多く見られるXPA 群の患者ではXPA遺伝子のイントロン3、3‘側のスプライシング受容部位のGからCへのホモ変異が88%にヘテロ変異が9%に認められます。前者の遺伝子異常(IVS3-1G>C)は日本人患者のXPA遺伝子のホットスポットであり、PCR制限酵素切断片長変化で同定できます。遺伝子異常があると制限酵素で切断されますので2本のバンドがみられます。一方保因者の場合は、1本は切断され2本のバンドとなりますが、もう1本鎖は正常なので切断されません。従って合計3本のバンドが見られます。健常者では切断されませんので1本のバンドとなります。この検査は血液、頬粘膜、羊水などでも施行できます。重症のXPA群に対しては羊水による出生前診断が行われています。羊水9mlを2分して一方はPCRに、もう一方は培養に用いられます。

これら検査の詳細については、大阪医科大学皮膚科、神戸大学皮膚科のホームページで解説があります。神戸大学皮膚科では検査部と共同でXPの遺伝子診断を他病院からも受託可能なシステムを構築したそうです。

参考文献

光線過敏症 改訂第3版 監修 佐藤 吉彦 編集 市橋 正光  堀尾 武 金原出版 2002 東京

錦織 千佳子: 色素性乾皮症 皮膚科の臨床 Vol57,No6,892 2015

Visual Dermatology Vol.10 No.5 2011 特集 光線過敏症-最新の研究から遮光対策まで- 責任編集 上出良一

 

色素性乾皮症( 2 )

色素性乾皮症(xeroderma pigmentosum:XP)の臨床症状について

*遺伝的にヌクレオチド除去修復(nucleotide excision repair:NER)の異常で発症するA~G群(XPA~XPG)、損傷乗り越え合成(translesion synthesis:TLS)の異常で発症するバリアント型(XPV)の計8つのグループに分類されています。
頻度はXPAが53%で最も多く、次いでXPVが25%でこの2型が大部分を占めます。以後XPDが8%、XPFが7%でE群G群は稀でB群の報告はありません。 全世界的にはXPCが多く25%で、XPA, XPVも同程度にみられます。

*臨床的には
・皮膚症状のみを呈する皮膚型XP(XP cutaneous disease)・・・日本人では45%がこの型で90%のXPD, XPE, XPF, XPC, 75%のXPG, XPVが該当します。
・皮膚症状に神経症状を伴う神経型XP(XP neurological disease)・・・日本人では55%がこの型でXPA, 10%のXPDが該当します。
・皮膚症状にコケイン症候群(Cockayne syndrome:CS)を合併するCS合併型XP (XP/CS complex)・・・日本では3例
(XPDが2例、XPGが1例)と極めて稀です。
【XPの皮膚症状】
大きく「サンバーン増強型」と「色素沈着型」に分けられます。
(1)サンバーン増強型
XPA>>XPD、XPF>XPG,XPB この順に日焼けがきつく生じます。とりわけA群は修復能も低く、皮膚症状も重症で、皮膚、眼の光線過敏症状は生後間もなくから生じ、高々5分程度の日光暴露でさえ高度の浮腫性紅斑や水疱を伴う激しい日光皮膚炎を生じます。日焼けの特徴は日光暴露後3~4日後まで増強、ピークを迎え、1週間以上持続することです。高度の急性期の日焼け反応は水疱、びらん、痂皮などを伴うために時として細菌感染症と誤診されやすいそうです。
このような急性の日焼け様反応を繰り返した後は露光部に長期に亘って色素沈着を残し、そばかす様の小色素斑が増えてきます。新旧の皮疹が入り混じるために大小不同で濃淡も不揃いなのが通常の雀卵斑(そばかす)と異なるところです。さらに慢性期になると皮膚は乾燥して粗ぞうとなり、毛細血管拡張、色素沈着、色素脱失、皮膚萎縮の混在する多形皮膚萎縮をきたし、年齢不相応の光老化の皮膚症状を呈してきます。
適切な紫外線防御を行わないと皮膚症状の進行とともに、露光部に基底細胞癌や有棘細胞癌や悪性黒色腫を高率に発症してきます。XPに生じる皮膚癌は健常人の種類、臨床像に大差はないとされます。但し発症年齢が20年以上若い方へシフトしています。特に修復能の低いA群とC群では10歳前後で皮膚癌を生じます。
(2)色素沈着型XP(XPV>>XPC>XPE)
サンバーン様皮疹を生じず、前述の慢性期の色素異常のみが徐々に進行し、比較的弱年齢で露光部に皮膚癌を多発してきます。日焼けが目立たないために成人になってから診断されることが多いとされます。
XPVは修復能も比較的に保たれており、日焼け反応の増強や遷延化もみられません。そのために適切な日焼け対策がなされていないことが多く、皮膚癌の多発、色素異常によってはじめて診断されるケースが多いです。そのためにかえって他の群よりも皮膚癌の多発、発症は高頻度にみられます。
XPCはヌクレオチド除去修復機構のうちglobal genome repair(GGR)は低下していますが、transcription repair (TCR)は保たれているために(後述)、異常な日焼け反応はみられないか、あってもごくわずかです。
【XPの皮膚外症状】
本邦では60%の症例に進行性の精神・運動・発達障害がみられます。特に最重症のA群では2,3歳頃までの発達遅延は目立たないものの徐々に末梢性、中枢性の進行性の神経障害が顕在化してきます。10歳までには難聴が進行し、15歳頃には聴覚機能はほぼ消失します。運動機能では徐々に腱反射の消失、小脳失調、痙性麻痺が出現、歩行困難となり、15歳頃には起立不能となります。運動機能は6歳頃がピークとされます。嚥下機能も低下し、誤嚥性肺炎を起こし気管喉頭分離、気管切開や胃瘻が必要となってきます。肺炎などで突然死にいたることもみられます。
これらの神経変性の原因、分子機構は光線過敏機構のようには明らかに解明されておらず、脳のグリアの変性や酸化ストレス、ROSなど想定されていますが、いまだ不明です。従ってその治療は対症療法とならざるをえません。
眼も紫外線の影響を受けるために、結膜や角膜の乾燥、結膜炎、角膜炎、眼瞼外反、内反、角膜潰瘍、涙腺分泌の低下、睫毛消失などが生じます。また眼瞼部悪性腫瘍も生じることもあります。網膜にはUVBはほとんど到達せず、直接的な紫外線障害はおきませんが、神経症状として視神経異常は起こり得ます。
【XPへの対応と患者ケア】
<皮膚や眼への対応>
遺伝性の光線過敏症であるために、根本的な治療法はなく、いかに早期に確定診断をして厳密な遮光を徹底できるかということが重要です。(遺伝子診断などについては後述)。紫外線はUVB(中波長紫外線)~UVA(長波長紫外線)にわたる防御が必要となります。
紫外線対策
・外出時には高SPF値(SPF30以上)、高PAグレード(PA+++)のサンスクリーン剤を使用すること、適量、十分量を塗布すること、汗や手で拭ったりして落ちることを想定して2時間ごとに塗りなおすことが必要です。
・衣服は長そで長ズボンで外出時は遮光生地やフィルムで作った頭布、帽子、紫外線防護服、UVカット眼鏡を着用することが必要です。
・屋内や車中でも窓ガラスからの紫外線を考慮し、遮光フィルムや遮光カーテンを使用します。就学児童の場合は学校の窓にもUVカットフィルムを貼り、紫外線防御への配慮をすることも必要です。
・皮膚癌に対しては、早期診断、早期治療が鉄則です。最近はダーモスコピーが活用されますので、ごく初期、小さい腫瘍の診断、治療も可能となってきています。
<XPの神経症状への対応>
神経型XPは全身性疾患といってもよく、その神経変性に対しては未だ原因不明のために有効な治療方法がなく、、進行抑制のために早期から脳の刺激や、聴覚の刺激を行い、運動、マッサージ、リハビリなどが必要となってきます。
診療、治療は皮膚科医が中心となるものの、小児科、眼科、整形外科、耳鼻科、理学療法科、看護・介護部門などと連携しながら全身的にケアしていく必要性があります。

XP-V  顔面の色素斑と皮膚腫瘍(基底細胞癌)の多発、皮膚は乾燥してキメが粗い。

黒色腫瘤近傍の病理組織像 基底細胞癌、真皮内に腫瘍塊を認める

色素性乾皮症診療ガイドライン より

色素性乾皮症診療ガイドライン改訂委員会 森脇 真一 他

日皮会誌: 125(11), 2013-2022,2015(平成27)

色素性乾皮症( 1 )

森脇 真一 先生(大阪医科大学皮膚科)の講演内容をまとめてみました。(一部他文献参照)

 色素性乾皮症(Xeroderma Pigmentosum: XP)は1870年オーストリアの皮膚科医 Kaposiらにより、色素異常を伴う重篤な光線過敏症として初めて記載されました。しかしこの病名は、病状が皮膚のみに限局する印象を与え、全身性疾患であることを反映していないとして、現在ではやや不適当という考えもあります。
1968年に米国の放射線生物学者CleaverがXP患者さんの細胞には紫外線によって生じたDNA損傷の除去修復機構が欠如していることを発見しました。それ以来この疾患の光線過敏の病態研究が解明、発展したのみならずヒトでの紫外線によるDNA修復機構の解明も飛躍的に進展してきました。
そこに至るまでには基礎科学者による大腸菌をはじめとした微生物によるDNA修復機構の研究の歴史がありました。
(DNA修復 武部 啓 著 東京大学出版会 1983 東京)
その後、XPの紫外線DNA損傷の修復システムの機能欠損は詳細に解明され、ヌクレチオド除去修復の異常で発症するA~G群(XPA~XPG)、損傷乗り越え合成異常で発症するバリアント群(XPV)の計8つの群に分類されています。
近年各群の責任遺伝子も同定されて、遺伝子変異の同定も可能となってきました。
 XPは高発癌性劣性遺伝性の光線過敏症です。その頻度は稀で、西ヨーロッパや米国でそれぞれ100万人あたり2.3人、25万人あたり1人ですが、本邦では10万人あたりに2.2人と推定され世界的にみても罹患頻度の高い国です。
また日本人では光線過敏症状、神経症状ともに重症であるA群が最も多く全体の半数以上を占め、さらにその80%以上にXPA遺伝子の同一の変異を認め創始者変異と考えられています。近年の研究ではその創始者は2400~3600年前の縄文時代に日本に現れ、120世代に亘ってこの島国で増え続け受け継がれてきたそうです。その創始者変異を持つ保因者(ヘテロ接合体)頻度は現代の日本人の113人に1人と決して少なくありません。現在は血族結婚は稀ですが、たまたま両親ともに保因者であった場合には1/4の確率で患者が生まれることになります。地域差もあり本州ではA群が多く、北海道、九州ではV群が、沖縄ではD群が多いそうです。日本人ではV群においても創始者変異がみられるそうです。
 XPという言葉、疾患が一般に広く知られるようになったきっかけは世界的には2001年 ニコール・キッドマン主演の”アザーズ”、日本では2006年の“太陽のうた”という映画、テレビドラマによるところが大きいそうです。その放映後60万筆もの署名提出が指定難病の認定に役立ったそうです。2005年には全国XP連絡会も結成されました。ただこの映画ではXPは「夜しか活動できない病気」「日の光に当たれない病」という趣旨の描写だけが強調されているきらいがあり、A群などの神経障害、聴力障害、精神発達障害などへ触れられることがほとんどなく連絡会では「主人公の設定に実際と異なる表現もあるが、映画を機会にXPに関心を持ってもらえることを強く願う」という旨のコメントを発表しています。
XPは新たな難病制度のもとで、平成27年1月より小児慢性特定疾病722疾患のひとつ」(14.皮膚疾患)として、また平成27年7月より指定難病(疾病番号159)として公的補助の制度が開始されたそうです。

XPの大雑把な歴史的な流れをみてきましたが、次に臨床、基礎的な面について触れてみたいと思います。

参考文献

光線過敏症 改訂第3版 監修 佐藤 吉彦 編集 市橋 正光  堀尾 武 金原出版 2002 東京

錦織 千佳子: 色素性乾皮症 皮膚科の臨床 Vol57,No6,892 2015

Visual Dermatology Vol.10 No.5 2011 特集 光線過敏症-最新の研究から遮光対策まで- 責任編集 上出良一

ブログトラブルのお詫び

ここ数日来ブログがダウンしてしまいご迷惑をおかけしました。Wordpressの更新ボタンをクリックしたのがきっかけでした。以前も同様のことがありました。                                                                         

こうなってしまうと自分ではどうにもなりません。ブログの立ち上げからお世話になっているI氏にお願いして復旧してもらいました。幸いな事に元通りに回復しましたので一安心、またボチボチ記事をアップして参りますのでよろしくお願いします。

 

光線過敏症

先日、光線過敏症の研修講習会がありました。
色素性乾皮症 (大阪医科大学皮膚科 森脇 真一 先生)
日光蕁麻疹 (関西医科大学皮膚科 岡本 祐之 先生)
ポルフィリン症 (弘前大学皮膚科 中野 創 先生)
薬剤性光線過敏症・光接触皮膚炎 (浜松医科大学皮膚科 戸倉 新樹 先生) でした。

光線過敏症には、これら以外にも色々ありますが、上記の疾患は代表的、かつ重要な疾患かと思います。これらの疾患を中心に講演内容をまとめてみたいと思います。

太田正雄のエピソード ( 2 )

🔷東北帝大時代
仙台での10余年間の生活は、彼にとって医師としても文化人としても落ち着いた充実した年月だったように思われる。「仙台にゐた時は閑が多く、しばしば庭の草木を写生した。」しかし一方で還暦祝賀会での回想では「次に仙台へ行ったが、ここでは競争が激しく相当勉強した。仙台を去る時、学生になぜ東京に行くのかとやられた。勉強の便があるからと言ったが、残念ながら何もしなかった。・・・」と述べている。謙遜であろうが、無論そんなことはなく、多大な業績を残したことはすでに述べた。 東北には阿部次郎、小宮豊隆、児島喜久雄などの文化人がおり、またドイツの建築家のブルーノ・タウトとの交流もあった。
 満州時代から遠ざかっていたハンセン病の診療、研究も再開している。皮膚科学教本は出版していないが、学生への講義を学生らがまとめたものを、大幅に朱書きして校閲を繰り返し講義録としたガリ版刷り、Dermatologie 333頁が残っているという。太田は「余りにも原稿に誤りが有るので、自分で書いた方がはるかに楽だった。」と述べたという。
また昭和12年(1937年)東大転任の年には、動物寄生性皮膚疾患を出版している。東大泌尿器科の高橋明教授は木下杢太郎追悼号に真菌、ハンセン病などの業績を紹介したなかに「又著書<動物寄生性皮膚疾患>は之亦博士が非常に努力して書かれたもので、小は原生動物のスピロヘエタから大は節足動物の昆蟲類に至る多種多様の動物にして、苟も直接間接に人間に於て皮膚症状を惹起する寄生動物に関しては、細大漏らさず系統的に記述した又と得難き良書である。斯る大著述は全く太田博士にして始めて為し得たものと信ずる。」と最大の賛辞を送った。杢太郎日記には朝から夜半までこの本の虫の文献渉猟に費やしている様子や金原出版からの出版の催促にも「千本の手が有はしまいし。さういふわけには行かぬ。」とその歴史、語源をギリシャ、ラテン語まで遡るなど徹底している。368頁のうち文献記載だけで77頁を割いている。熊本大学にもその一冊があるという。それを読んだ小野友道先生は「これだけの歴史を書くのにどれだけの文献を渉猟したのか、引用文献のリストを見るだけで筆者は怖気づくのである。」「ともかく現在でも動物寄生性皮膚疾患の論文を書く際には、まず読んでおかなければならない名著であることを若い皮膚科医の諸君にお伝えしたい。」と述べている。また東大で花開いた太田母斑の研究もその萌芽はすでに仙台時代にあった。
🔷東京帝大時代
充実した仙台での生活を打ち切って、昭和12年東京帝大の教授に就任した。学生達の面倒見もよく、森鷗外の会なども開催し、彼らから強く転任を慰留された。学問、研究の発展のための決意だったが、東京での生活の始まりは意外とも思われるほど苦渋、後悔の言に満ちている。赴任4ヶ月後の日記には次のように、東京に来た事を後悔する言葉に満ちている。
・経済的に苦しい。単身赴任で、仙台に家族を残して来たが、報酬は2軒の家を支えるには足りない。嫌な紹介患者を診なければならないが、その礼は僅かである。しかも退職発起人などの出費は次々に来る。
・教室が彼にとっては過渡期で、自分の外で回っている。自分は唯皮膚の外来と入院と講義とに関わっているだけだ。
・医局はこの1か月以来動揺して、新しい部署に出ていく。お互いに関連のない博士論文の仕事をするだけで、特に自身の癩の研究は中止状態だ。
・東京の教室は思ったほど、富裕ではない。年12万円の収入も大部分は本部に取られ、残りは教室運営と医局員の研究費に費やされ、本を買うことも、画工を雇うことも、ライカ写真機を買うこともできず、仕事は自費でやらねばならない。
・少しの余裕を文芸のことに向けることは東京では却って難しい。
・殊に困ることは仙台のように一教室が自分の主宰ではないことである。(皮膚科泌尿器科教室であり、教授は2人いた。大正時代までは土肥慶蔵が1人主任教授で両学を全て仕切っていた。戦後分裂する前の過渡期であった。)
・個人生活が楽しくない。
・泌尿器科から全く離れたこと、仙台時代と違って他科の人々とは全く別世界の人となったこと。
それでも、次第に東京生活にも落ち着きを取り戻していく。しかし時代は戦争への足音が迫ってきていた。言論活動にも、教室の仕事にもその影響はでてきている。物資は不足し、教室員は戦場へと駆り出されていった。その中でも4題の宿題報告をなし、着実に業績を重ねていった。

 太田正雄の活動として、ハンセン病は特に力をいれた分野であった。満州、フランス留学時代一旦その研究から遠ざかったが、また仙台で復活する。特筆すべきは1930年マニラでの第1回国際癩会議に出席したことであろう。この会議では国際連盟の委員である長與又郎が招待されたが、病気のために太田が替わって国を代表して出席した。この国際会議とそれに続くフィリッピンのクリオンのハンセン病施設見学で、太田の考えが癩の絶対隔離ではなく、「隔離と外来治療」という確信に至った。しかし、日本での国の政策は明らかに「絶対隔離」へと向かっていった。東京帝大教授となってからは、さらにハンセン病の研究に情熱を注ぎ、伝染病研究所に通い、癩菌の培養に取り組み、また外来治療もなされた。日本で本格的にハンセン病に取り組んだ人は光田健輔であった。後に癩予防法廃止運動に取り組んだ元厚生官僚の大谷藤郎は「日本のらい事業の良くも悪くもその殆どが光田健輔氏の主張と行動に負うており、まことに巨人というにふさわしい生涯であった。だが今日になってみると、数十年にわたる患者悲劇の結果に対して、今その功罪が問われている」と述べた。これに対し太田は国策としての絶対隔離に表立って異は唱えられる立場ではなかったものの一貫して批判的であった。癩は細菌感染症であるから、合理的な治療法は化学的療法です、と言い切っている。そのために癩菌の動物接種培養に努力しているとしている。戦時下においても空襲の間隙をぬうようにして伝研通いを続けて、癩菌の培養に取り組み続けた。残念ながらそれは失敗に終わった。それも道理で、2001年に癩菌の全遺伝子が解読され、偽遺伝子が多く機能している遺伝子が少ないことなどから、菌は生体のマクロファージなどやヌードマウスの足蹠など特殊な環境でのみしか増殖できないことが解明されたそうである(小野友道 (26) )。ただ太田の考えの方向性は正しく、戦後間もなくしてプロミンによる治療効果が明らかになった。その報告を待たずに太田は昭和20年10月15日にあの世へと旅立っていった。

太田が東京帝大へと赴任したのは、皮肉にも日華事変が生じたまさにその年であった。徐々に経済が困窮し、物資は不足し、言論の統制は厳しくなり、学徒は戦場へと駆り出されていった。その中でもあれだけの業績を上げ、ガリ版刷りながら皮膚科の教科書を残している。彼はその時代をどのように生き、戦争をどのように感じていたのだろうか。日々の日記から見て取ることができる。大戦直後の医局でのねぎらい会では「私は今まで陸軍海軍の奴らめ勝手なまねばっかりしてやがると陰口をきいてきたが、(12月)8日からは言わなくなった。こんな未曾有の世に生まれてきたことを有難いと思っている。(中略)今回の開戦でわれわれはいよいよ東亜共栄圏の指導者になるようになった。・・・」などと一見戦いを容認するような発言もしている。まあ、まがりなりに政府の役人の立場の彼が否定的な言動はできなかったであろう。陸軍軍医学校に講義に出かけ、陸軍のペニシリン研究会に参加するなど軍部に協力する立場であった。しかし、次第に日記の中には戦争、軍への批判的な記事が多くなる。大本営発表、空襲警報の記載はあるが、(どこそこが爆撃されたなどの記載は禁忌だったらしい)教授生活、伝研での研究はほぼ通常通り続けたらしい。しかし、ミッドウェー、ガダルカナルの敗退、18年6月5日山本元帥葬送遥拝などを経て、さらに軍に対する批判記事が多くなっていく。一般人が見たら非国民扱いか、特高に検挙されるやもとも思われる内容もある。「帝都をかくも惨憺たる目に會はせるなど、軍部の見込みは疎く大戦の準備はヘマであったことは誰しも考へる所である」「軍部は力に於て支配せり。その力が弱くなれば、又弱いと知られるれば既に他の窺う所となり、陽にではなくても陰に批評を受けるやうになる」「力以外にはその叡智、道義、科学、技術に於て他部に優つてしといふことがゐる所がなかったことが暴露する」「命は鴻毛より輕しといふことが揚言せられる。そして人の子を犬の子、いなごの如く殺した。命をあまり輕く見ることが、防ぐのみならず攻める武器の發達をも阻害した」などと綴った。そして空襲のさなかでも学生への講義を続けた。防空壕の中で学生に向かって「君たちは勉強しているか。」「こういう時局だからこそ、勉強しなくちゃいけない。朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。いま、まさに否応なしにその状況に置かれているんだ。」「君たちは知識と知恵を区別しなくてはならない。知識は、人間が知的活動を続ければ続けるほど無限に増えてゆく。でもいくら知識を積み重ねても、それでは知識の化け物になるだけだ。それではいかん。人間のためになるようにするにはどうすればいいか。知恵が必要だ。では知恵を学ぶにはどうすればいいか。古典に親しむことだ。古典には人類の知恵が詰まっている。」そう言うと杢太郎は立ち上がり、風のようにさあつと去っていった、とある。この時期に医学生として太田の講義を聴いた加藤周一は後に「1945年8月15日、降服の放送を聞くと、多くの人々は泣いたが、死病の床にあった太田正雄は、手を拍つてよろこんだといわれる。彼は戦争が何を意味するのかを知っていた。私には、知るべきことで、彼の知らなかったことは一つもないように思われる」と述べている。
 敗戦後の廃墟のなかで、10月15日太田は61年の波乱に満ちた生涯を閉じた。胃癌であった。多くの弟子達に見守られながらの最期であった、と「とのゐ袋」に記載があるという。しかし敗戦後の窮状では霊前には手向ける献花さえもなかったという。
泉下の太田正雄は今日日本国内だけではなく、国際的にも皮膚科医として、はたまた文化人として高く評価されているのを知っているのであろうか。その足跡は現在も色褪せていない。

 太田正雄はかつて森鷗外のことを「森鷗外は謂はばテエベス百門の大都である。東門を入つても西門を究め難く、百家おのおの一兩門を視て他の九十八九を遺し去るのである。」と記したが、岡本隆はこの文は「実はそのまま木下杢太郎の案内書にも書かなくてはならない」「故上田三四二も生前、<鷗外はおろか、木下杢太郎だってわれわれの(研究、論評の)手に余る存在だ>と嘆いた」という。
彼を生涯の師表と仰ぐ野田宇太郎は太田正雄の亡くなる数年前から編集者の立場ながら太田に密着している。そしてその没後は資料を渉猟して「木下杢太郞全集」の完成に力を注いだ。今日木下杢太郞の足跡が忘れ去られる事なく、世の中に繋がってきているのは、野田の寄与によるところが大とのことである。

上野賢一先生、小野友道先生の随想の中から医学に関した部分の評伝を抜き書きしましたが、文化人としての木下杢太郎の部分は敢えて省いてきました。次回はその部分について抜き出してみます。

太田正雄のエピソード(1)

主に皮膚科医としての太田正雄のエピソードを経年的にみてみました。
🔷幼少時
明治18年(1885)静岡県伊東市で生まれる。後年姉たけ子は大阪毎日新聞に「今日では兎も角博士になりましたが、小学校の頃はもう学校が嫌ひで嫌ひでどうにも学校に行って駄々を捏ねるもんですから私などよくあれをおんぶして連れていったものでした。それでも「学校に行っても目を瞑ってゐるよ」と申し、そりゃどんなことをしていやうと勝手だと申しますとほんとに目をつぶってたきりで永いこと皆を弱らせたものでしたの」と述懐している。それでも成績は優秀で高等小学校では首席で級長も務めた。
幼少時は兄姉などの影響で多くの本に親しんだ。
🔷高等学校以前
太田家は彼を医者にする目論見であったが、本人は文学や美術が好きで画家になりたかったが、自分より絵のうまい親友の山崎春雄が画家にならず、医学を志したこと、姉きんの画家への強い反対もあり第一高等学校第三類、すなわち医学コースに進んだ。
🔷高等学校
一高時代はドイツ語の岩元偵先生のゲーテの「イタリア紀行」の講義に感銘し、在学中に「明星」「パンの会」などで活躍し、ニーチェ、トルストイ、ゲーテ、ツルゲーネフなどを読み文学部志望との間に揺れる時代であった。
「・・・われは今医業の潮流にあるものなり、されどわれに何となくいやなる気持ちす。而して之に対して、対象を文学にとらむとせり、これはわれに、人のとるべき道なりといへるが如き気持ちす。・・・」
さらに「・・・われの嘗つて-昨年三月頃に於て-迷へりしはわれの医業たらむか画工たらむかの疑なりき、その時決せざりし医の業は、われの嫌ふ所、われの恐るる所、わが主張に反する所なり、画工たるはわれの好む所、其職業はわれの崇ぶ所なり、・・・}とも述べている。
また別の所では自分は国家力の競争、人種間の闘争に価値は見いだせず、軍人、役人には決してならないだろうこと、また医師は数人の病を医するのみで、数人の全癒は我一生の目的かと自問し、自分の進むべき道は文学とまで述懐する、その一方で画業への未練も綴っている。才能に溢れた若き日の太田正雄のある種青臭い青春の悩みのようであるが、これは若き日だけの悩みではなく彼の人生を通した基調となっていくものである。
後年、彼が40歳の時、「一高時代の回顧」という随筆にその思いが凝集されている。
「・・・その三年の生活をいまなほ感謝してゐる。わたくしの自然及び人生に對する眼を當時の恩師及び先輩が直接間接に開いてくれたからである。中に就てわたくしは岩元教授から受けた多大の薫陶を銘意する。多勢の學生の不平にも拘らず、一箇年間にゲエテが伊太利亜旅行三分の二弱を読に了しめた事は實に先生であった。わたくしも分相應にゲエテの気像を感知することが出来た。現にわたくしが人生に處して、心常に平なるを得るは先生から植ゑつけられた多少の読書癖に由るのである。」
🔷東大医学部皮膚科入局の頃
大学生の数年間を、パンの会において、Strum und Drang時代を過ごした杢太郎であったが、卒業後の進路については迷っていた。私淑する森鴎外に相談したところ生理学を勧められた。しかししっくり来ず精神病学はどうかと再び相談するも余り共感を示されなかった。そのうち「土肥君などは教授のうちの最も教授らしい教授だ」といわれ、それも影響して土肥慶蔵主催の皮膚科黴毒科教室に入局することになったようだ。後年東北大学時代に当時のことを振り返り「土肥先生は笑いながら、その男は卒業のときあとから算へる方が早かった。何が出来るかときくと畫がかけるというので醫局に入れた。その後は予期に反したと云ったといふ。・・・」一方で「U氏(衛生学教室で細菌学実習で杢太郎を指導)が杢太郎を知っているかと尋ねたところ、”例年入局は漫然と卒業席次に依って決め、特殊な才能を問題にすることはない。太田君は文芸に限らず多彩な才能を持ち、稀にみる天才的人材である”と答えた」とある。
当初は文芸にふけり、試験日も忘れて再試験を鴎外先生に懇願するも果たせず留年するなどあまり好ましくない学生とみられていた節もあるが、すぐにその実力に評価を替えたというところであろうか。
入局後は、午前は外来に、午後はサブロー真菌培養器と顕微鏡を机上において、真菌を鏡検して写生するという日課であった。その顕微鏡像は限りなく美しく見え、この時間が最も楽しかった、と述べている。
🔷満州から欧州留学へ
南満医学堂教授への赴任は土肥教授の提案であったが、東京での誘惑と雑音の多い生活から離れて静かな自省の世界への願望もあったようである。「所詮わたくしは本来在るべき所に帰着したのである。」と。5年の満州生活を辞し、朝鮮、中国を旅し、10月帰国、翌年5月には欧州留学へ旅立った。アメリカ、キューバ、ロンドンを経てパリに落ち着いた。彼は獨協出であり、欧州の概念の8割方がドイツであったので当初はフランス語に苦労したらしい。暁星やアテネ・フランセの仏語やサブロー博士の著書などでは太刀打ちできなかったらしい。それでもサブロー博士の指導を受け、徐々に慣れていった。サブロー博士にやや反発しながらも真菌の分類に新境地を開き、のちにフランス国からレジオン・ド・ヌール賞を受賞したことはすでに前編で述べた。
🔷県立愛知医科大学時代
正雄は帰国後は、伝研で癩、真菌、皮膚科の研究をやりたかったようだが、土肥慶蔵の鶴の一声や愛知の山崎学長の懇請によって、愛知医科大学に就任した。上司の土肥慶蔵との書簡のやり取りをみると、慇懃な手紙ながら正雄があまり土肥に相談、連絡を密に取らなかったことへの不興の様子が見て取れる。妻をはじめ、親戚などは定職を斡旋してくれた土肥に感謝し、御任せなさい、という態度であったが、正雄自身は自分の将来への思惑とはややずれを感じながらの赴任であったようだ。そして名古屋での2年は「申し分なき厄年相味わひ候」ということになる。借家は大学から遠く、床もがたがたであった。赴任後2年目には虫垂炎となり、長期入院あげくに開腹手術、その間、兄圓三(永代橋を設計するなど優秀な建築家であった)は復興院での疑獄事件に巻き込まれ、無実ながら心労のため自死してしまった。しかし厄年の暗闇にも蕉門の俳諧に目覚め、同好の士と連句会を催したりしている。半年にも亘る療養生活にも別れを告げて10月からは東北帝大の教授として旅立って行くのであった。
その送別会での発句には「よき酒のされども秋の別れ哉」とある。太田を師と仰ぐ医師の谷本光典は後に先の句を評して「うまい発句である。杢太郎にとって厄年の闇黒に、一抹の明りがさしたのは俳諧の窓だけであった、じんと心にしみる句である」と評した。

下記の随想よりの抜き書きですが、具体的な号数は省略します。

随想 「杢太郎」落ち穂拾い 上野 賢一 皮膚科の臨床 51(1)2009~55(4)2013

随想 太田正雄/木下杢太郎 世界的で、人道的で 小野 友道 皮膚科の臨床 55(5)2013~59(3)2017

今年もクリスマス

 早いもので、今年もあっという間に年末になってしまいました。
昨日はクリスマス、テレビでクリスマスソングの特集をやっていました。出てくる音楽のほとんどが分からず、時代遅れのロートルになってしまったことを実感させられました。しかし、若い人たちが楽しそうにクリスマスソングを歌い、楽しんでいるのはいいものです。
 自分的には、山下達郎のクリスマス・イブが一番しっくりきますが、これはもう定番で誰もが知っている、毎年流れていてこの季節だなと思わせる曲だからかもしれません。
 やはり、懐かしいのはビング・クロスビーのWhite Christmasでしょうか。あの甘い歌声とともに、クリスマスツリーをイメージできて、やはりクリスマスソングのkingと納得します。でも、これは第二次世界大戦の米軍兵士の間で流行した歌だそうです。若い兵士達は平和な故郷のクリスマスを思い起こし、帰郷を願ったのでしょう。
平和や清らかな願いのはずのクリスマスですが、昨今のエルサレムの政情などをみると、何か皮肉な感じがします。
つい、ジョン・レノンのイマジンを思いだしてしまいます。
Imagine there’s no coutries
It isn’t hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people living life in peace

You, you may say
I’m a dreamer,but I’m not the only one
I hope some day you’ll join us
And the world will be as one

今年も残りわずかとなりました。皆さまよい新年をお迎え下さい。
来年から少し、皮膚科の記事も再開するつもりです。

太田正雄のこと

 太田正雄/木下杢太郎の評伝は上野賢一先生(筑波大学名誉教授)による『「杢太郎」落ち穂拾い』が「皮膚科の臨床」誌への連載として2009年に始まり、上野先生のご逝去された後を継いで、2013年5月号からは小野友道先生(熊本保健科学大学長)が『太田正雄/木下杢太郎 世界的で、人道的で』というタイトルで2017年3月号まで連載されました。
 ここで、今更太田正雄について何かを書くことは、両先生に対して失礼なことかとは思いますが、まとめたことを書いてみたいと思います。その理由はこの皮膚科の巨星のことを、詳細に、格調高く紹介していただいた先達に敬意を表するためと、もしまだ太田正雄のことをよく知らない、特に若い皮膚科の先生に知って頂き、その評伝を読んでいただきたいという思いからです。
 まとめを読んで、お二人の評伝を読む気になれば望外の幸せですし、その気を起こさなければ、小生の纏める力、文章力の乏しさによるもので、恥じ入るばかりです。
 膨大なその足跡と資料を、簡潔にまとめる能力などありませんが、皮膚科医としての太田正雄と、文人としての木下杢太郎に分けて概略を書いてみたいと思います。まずは皮膚科医としての太田正雄について。

明治18年(1885年) 静岡県伊東市で太物雑貨商「米惣」の四男三女の末っ子として生まれる。
14歳 東京の独逸協会中学に入学。
明治36年(1903年) 第一高等学校第三類(医学コース)へ進学。
明治39年(1906年) 東京帝国大学医学部入学。
明治45年(1912年) 東京帝国大学皮膚科泌尿器科入局、入局前7か月間衛生学教室で細菌の研究
大正5年(1916年)  南満医学堂教授
大正10年(1921年) フランス留学
大正13年(1924年) 県立愛知医科大学(現名古屋大学医学部)皮膚科教授
大正15年(1926年) 東北帝大教授
昭和12年(1937年) 東京帝大教授、傳染病研究所所員を兼任
昭和20年10月15日(1945年)死去

木下杢太郎の追想文は数多くある中で、医学的業績も含めて全人的な全貌は彼の直接の後任者である北村包彦(1889~1989)1946~1959 東大教授による追悼、回想文に「杢太郎の姿を具象的に、鮮明に、魔法のごとく浮かびだして」いる。(上野(39))
それを基にして上野、小野先生の評伝から業績、足跡をたどると。
🔷真菌症
東大皮膚科入局後は、顕微鏡に向かって真菌の観察、描写に余念がなかったそうである。またサブロウの真菌学の教本を学び、仏語にも親しんでいったようである。フランス留学時は碩学のサブロウに師事した。当時のサブロウは大先生で東洋からきた無名の青年医師を軽く見ていたふしがある。汗疱状白癬の発見をサブロウに送付した際、その存在を全く評価していない手厳しい内容の返信を受け取っている。また留学時にはサブロウなどてんで小生を信じぬから(実験を)中止した、などと愚痴を述べている。しかしその後植物学的形態より真菌新分類方式(Ota et Langeronの分類)を提唱し、後にフランス国よりレジオン・ド・ヌール賞を受賞している。(これについてはサブロウから多少の不満をウケた事があると述懐している。)ただ、サブロウの死に際しては太田はその業績を讃え、教養深く古典、音楽、彫刻にも秀でていたと追悼の文を雑誌に献じた。
 山口英世は近年の分子生物学的手法を用いた真菌の分類がおよそ百年前の太田の分類と驚くほど一致していることを指摘し、太田の精緻な形態に対する能力の素晴らしさに驚嘆している。むしろ菌の毛髪に対する態度を基礎にしたサブロウの系統分類よりも科学的なのかもしれない。また山口は数十年の空白を経て、太田の分離発見した真菌株(M. ferrugineum)がヨーロッパで保存されているのが見つかり太田先生の論文通りの見事な鉄さび色をしたコロニーが生えてきたときの興奮を述べている。太田の弟子で戦後の医真菌学を継いだ福代良一は(太田の真菌での業績で)「特筆しなければならないことは第一に、東アジア地区の頭の白癬(シラクモ)の主要な原因菌であるM. ferrugineumが新種として発見・命名されたことである」と述べている。(小野 (41))
真菌の研究は(珍しく)長きにわたり真菌に関する論文は39編(日16、独5、仏16、英2)と多彩である。
「先生が帰朝されたときには適当な席がなく、いっそ皮膚科学を捨てて伝研か北里研で真菌学の勉強をしようかと考えた。・・・昭和12年5月再び遠山の後任として東大に転じた。この間真菌学の第一人者として菌種コレクション、新菌種の決定、その顕微鏡的所見、培養の肉眼的所見の研究、日本ミコロギー協会の設立など、我が国の医真菌学の基礎を確立したものの、戦後に医真菌学が大いに興ったのを見ないで、又国情の大きく変わった姿を見ないで歿くなったことは惜しまれる。」(北村)
🔷母斑症
太田母斑、これはもう太田正雄を世界的な大皮膚科医として、世界中の教本に取り上げる所以となった真骨頂ともいえる研究業績である。東大に着任後すぐにその存在に注目したようで(その萌芽はすでに仙台時代からある)すでに前年にその端緒となる報告をしているが、「我國に甚だ多き母斑の一典型たる「眼・上顎部褐青色母斑」並にそれと眼球色素沈着症との關係に就いて」を昭和14年(1939年)に発表している。
「ここに記す一種の母斑は、従来は大體色素性母斑と診断せられ、専門家の特別の注意をば惹かなかったやうであるが、それは色素性母斑とは其性質を異にし、寧ろ青色母斑の一特殊型と見做すべきものである。・・・此母斑は皮膚に於ては眼神経と上顎神経との支配域のみに發現し多くの場合(我々の観察例二十六中十七、即ち六十五%)には眼球メラノオジスと倶に存するのである」と、その観察は鋭く、すでに今日の太田母斑の概念をほぼ記載している。両側性症例の存在もあげている。女性に多いことにも触れている。(小野(44))
また谷野の論文を指導した際に「君、クロアスマとの關係もしらべなくては、いけないね」と話したという。これは今日の真皮メラノサイトーシス、肝斑など鑑別を要する顔面の色素斑の諸型もすでに太田の頭の中に浮かんでいた可能性もあるのではないか。・・・さらに最初の論文で病理組織像がカラーの顕微鏡図として残されており、そこには真皮のメラノサイトばかりではなく、それを被覆している表皮部分のメラノサイトの数も周辺より多く描かれていて・・・太田正雄の観察力の緻密さ、あるいはパターン認識の力量は他を寄せ付けない凄さがある。(小野 同上)
🔷ハンセン病研究
ハンセン病については北村は太田正雄の生誕100年にあたり「日本癩学会の諸学者と提携しての癩の病型分類、その病理組織学的根拠の追及、延いて結核様癩の確立、癩の新接種法としての人癩類代家鶏接種の試み・・・」と書いている。
また上野は「定年後は研究対象として真菌学を選ぶことはしなかったと思う。極端な言い方をすれば、植物としての真菌には興味を持っていたが、それ以上突っ込む気はなかったのではなかろうか。・・・真菌よりも癩(ハンセン病)が彼の仕事の対象として強かった。定年後に研究生活を続けたとしたら、癩に向かって行ったことは確実であろう。・・・仙台時代に感染状態についてフィールド研究を行い、東南アジアでの国際癩学会を期に、該地(シャム、フィリピン、支那など)の癩対策、特に社会的対応をつぶさに視察し、また疫学的調査を『南方諸国に於ける癩』(1943)として纏めた。そして結論的には癩は不治の病ではなく、的確な治療剤があれば必ず完治は可能であり、当時の王道であった光田式の隔離方針には大きな疑義をもっていた。こんな方式は日本だけではないか。海外では厳重隔離どころか在宅診療をしている。癩は遺伝でもなく、体質に基本があるのではなく、細菌感染症であるから、必ず有効な薬剤があるに決まっている・・・昭和20年前後はスルフォン系薬剤の治癩効果が注目され始めたときであり、杢太郎が生きていたら、治癩剤は数年は早く完成したであろうと言われている。(上野 (26))
また谷奥喜平の思い出として、「学会の懇親会で”杢太郎で有名な太田先生”と呼び声がかかって、”僕は癩を研究している人は立派だとおもう。みな研究者でありヒューマニストだ。最高の勇気を持った人たちばかりです”と挨拶されたのが私の記憶に残っている」とある。(上野 (27))
(長々と上野先生の文を引用しましたが、太田の癩に対する考え、取り組み方、当時の状況が具に理解できると思います。しかしながら現実には日本は戦後も諸外国と異なる道を辿り、ハンセン病治療に大きく後れをとって禍根をのこしてしまいました。)
🔷その業績の評価について
上に書いた主要な業績だけでも、文句なしに超一流の評価がされているものの、一方で皮膚科に限らずあまりにも多方面に手を広げて才能が有り余ったせいか、「杢太郎は序曲は歌ったが、その歌劇を最後まで書き上げなかった」と批評する論調も少数みられる。直接の弟子の北村包彦(かねひこ)の杢太郎論にも「太田教授は、その発想、或いはその所説が想像的に過ぎると屡々云われたが、想像力が研究を誘導したこともあったと思われる。これ等の業績の発表に寄与したものとして、教授の広く、深い語学力、優れた文章力を挙げたい。・・・」とやんわりとその研究が想像的過ぎるといわれたことを述べている。
 上野が座長を務めたある座談会で”序曲問題”に主題を向けた際に平川は「自分が一番活き活きと感じている問題にさーと入っていく。そして多少飽きが来て、その問題が少し古くなって、筆がにぶくなるという感じになっていると、その仕事はどうもそれ以上あまり続けないというタイプじゃございませんか。非常にねばり強い面も一面ではあるのですけれども、画面でいえば、広いキャンバスを力にまかせて油絵具で埋めていくという人ではなくて、やっぱり印象派のタッチのいいところをさっさとかく。紀行文など特にそういう感じではないかと思いますが。」
また杉山は「詩でも、白秋が”通っていったあとにもったいないほどのいろんなものを残していった”と『食後の唄』の序文でいっている程多くを未完成で残していかれた。詩作の上に一生かける人間にとっては、本当にもったいないと思うのと同じで、小説でもそうでしょうし、おそらく専門の医学の中でも、そういうものを次々と振り捨てられるというか。・・・」
さらに宇野浩二は「彼は骨の髄までの好事家であり、芸術の殆どあらゆる方面に一通りの才能を持ち、相当の学識を持ちながらどの一つも貫けなかった」。このようなネガティブな批判に対して、吉田精一は「杢太郎は芸術的気質を多分に持ち、それこそ”骨の髄までの芸術家”であったために、自己の持つものを折にふれて発散せざるを得ぬ衝迫を感じ、その結果が多岐にわたったのである。・・・」と述べている。そして「この豊かな詩才と、芸術的天分のもち主が、生涯芸術以外のことを本業にしなければならなかったのは、あるいは不幸というべきだろうか。」とまで言っている。
ネガティブな論評の最たるものはムラージュ制作の天才的職人の長谷川兼太郎である。「あの人も医者なら医者、文学なら文学やってりゃあ文化勲章ぐらいもらえたのに。要するに気が多いんで、これじゃ駄目だと思ったな。医学でも糸状菌やってるかと思うとレプラやる。それもどんずまりまでやるんじゃなくて又変わる。それじゃ具合悪いわな。傳研でやったが(中略)学会で発表したんだが失敗したね。・・・」。これに対して、上野は「飾らない文章で微笑ましく言わんとするところはよく分かる。一般の平均的な、換言すれば世俗的な受け取り方にはこのようなものが多いのも理解できる。しかしこれは杢太郎を真に理解していない幾多の論説の骨格を示している。」と述べている。
川村太郎は太田正雄の皮膚科研究について「宿題報告(皮膚腫瘍に関する;1940)の内容は未完成のものであるが、凡人の思いつかない大きな問題を指摘することで終わっている。したがって先生の指摘された点をほじくり返しているといろいろのものが出てくる。・・・メラノサイトのneural crest説(1948)以前に“黒色上皮種”でケラチノサイトとメラノサイトの関係を提示し、これらの研究から太田母斑の流れが生まれてきた」。
上野は序曲問題を総括して次のように述べている。「杢太郞のセンサー(感受性)があまりに鋭く、ために次々とテーマが移動していったことが、「一寸齧りですぐ気を移す」と解されて、それが「序曲だけ」という表現になったものと思う。・・・彼のあふれる才能は、そのとき既にそのセンサーは、次の問題を感知してそちらに触手が伸びていったということである。・・・序曲を、「その歌劇の全貌を概観(Ubersicht)したもの」という本来の概念で言うならば、「杢太郞は序曲を歌った」ということは、彼がその問題に関して、「その本質の全貌を捉えて理解して仕事をした」ということになり、この意味で「序曲を歌った」という言葉を使ったならば、それは杢太郞の仕事を正確に評したことになる。」(上野 (22)(23))。

上野、小野先生の評伝を正確に網羅することなど、とてもできませんが、次回は皮膚科医としての太田正雄の生涯におけるいくつかのトピックス、エピソードを書いてみたいと思います。

落ち穂拾いのこと

再開するブログの名前を考えあぐねて、皮膚科落ち穂拾いとしました。
ことさらその理由など書くこともないかもしれませんが、そのいきさつを一寸書きます。
皮膚科の先生で「皮膚科の臨床」という雑誌を購読している方ならば、きっとああ、それは上野賢一先生が長らく連載されていた随想 【「杢太郎」落ち穂拾い】 から拝借したものだな、と気づかれるかと思います。
まさにその通りで、素晴らしい随想なのでいいなー、と常々思っていました。それを拝借してブログの表題にするのが、適切なのか、不適切なのかはわかりませんが。

杢太郎とは、木下杢太郎のことで、これは文芸的な活躍の場で用いたペンネームで本名は太田正雄といいます。
若い頃は北原白秋などと詩作を行い、劇作、翻訳もこなし、キリシタン美術に造詣が深く、英語、仏語、独語をよくし、その絵は玄人はだしでした。
しかし本職は戦前の東京大学皮膚科教授で、その名前は知らなくても、太田母斑と聞けば知っている人もあるかと思います。日本人の名前のついた皮膚疾患名はそれほど多くはありませんが、その中でNaevus of Otaは国際的に有名な疾患の中でその最たるものかと思われます。

それは兎も角、一般の方で《落ち穂拾い》といえばまずミレーの油彩絵画を思い浮かべることでしょう。単に貧しい農村の人々の日常を絵にしたものと思っていました。ところが実はウィキペディアをみると、深い意味があるとのことでした。欧州では麦畑の株を長い鎌で刈り倒して、フォークで集めて脱穀するのだそうですが、その際、集めきれなかった落穂が多数地面に残されます。当時は旧約聖書のルビ記に定められた律法に従って、貧農や寡婦などの貧しい人々の命の糧として、畑の持ち主は落穂を残さずに回収することは戒められていたとのことです。
その落穂は大切なもの、という考えととるに足らないものとの考えがあるそうです。また英語のgleaningにあたり、「情報や知識をすこしずつ集める」という意味もあるそうです。上野先生はこのような意味で使われたのかもしれませんし、膨大な杢太郎の足跡の一部しか辿れない、という謙遜の意味で使われたのかもしれません。
《落ち穂拾い》にそのような深い含みがあることなど知りもしませんでした。

このような経緯をよく考えてみると一介のロートル皮膚科医の備忘録のようなブログに無断で《落ち穂拾い》と表題の一部を拝借するのはますます不適切なような気もしてきました。
ただ、今は亡き天国の上野先生も小さなブログゆえ見逃して下さるだろう、と勝手に推し量りました。
小生の思いは、皮膚科の時々の、遠近の話題を取り上げて、自分の備忘録としたいとの思いです。《落ち穂拾い》としてそこに皮膚科の大先達へのあこがれの匂いが含まれたらいいな、との思いもあります。