太田正雄のこと

 太田正雄/木下杢太郎の評伝は上野賢一先生(筑波大学名誉教授)による『「杢太郎」落ち穂拾い』が「皮膚科の臨床」誌への連載として2009年に始まり、上野先生のご逝去された後を継いで、2013年5月号からは小野友道先生(熊本保健科学大学長)が『太田正雄/木下杢太郎 世界的で、人道的で』というタイトルで2017年3月号まで連載されました。
 ここで、今更太田正雄について何かを書くことは、両先生に対して失礼なことかとは思いますが、まとめたことを書いてみたいと思います。その理由はこの皮膚科の巨星のことを、詳細に、格調高く紹介していただいた先達に敬意を表するためと、もしまだ太田正雄のことをよく知らない、特に若い皮膚科の先生に知って頂き、その評伝を読んでいただきたいという思いからです。
 まとめを読んで、お二人の評伝を読む気になれば望外の幸せですし、その気を起こさなければ、小生の纏める力、文章力の乏しさによるもので、恥じ入るばかりです。
 膨大なその足跡と資料を、簡潔にまとめる能力などありませんが、皮膚科医としての太田正雄と、文人としての木下杢太郎に分けて概略を書いてみたいと思います。まずは皮膚科医としての太田正雄について。

明治18年(1885年) 静岡県伊東市で太物雑貨商「米惣」の四男三女の末っ子として生まれる。
14歳 東京の独逸協会中学に入学。
明治36年(1903年) 第一高等学校第三類(医学コース)へ進学。
明治39年(1906年) 東京帝国大学医学部入学。
明治45年(1912年) 東京帝国大学皮膚科泌尿器科入局、入局前7か月間衛生学教室で細菌の研究
大正5年(1916年)  南満医学堂教授
大正10年(1921年) フランス留学
大正13年(1924年) 県立愛知医科大学(現名古屋大学医学部)皮膚科教授
大正15年(1926年) 東北帝大教授
昭和12年(1937年) 東京帝大教授、傳染病研究所所員を兼任
昭和20年10月15日(1945年)死去

木下杢太郎の追想文は数多くある中で、医学的業績も含めて全人的な全貌は彼の直接の後任者である北村包彦(1889~1989)1946~1959 東大教授による追悼、回想文に「杢太郎の姿を具象的に、鮮明に、魔法のごとく浮かびだして」いる。(上野(39))
それを基にして上野、小野先生の評伝から業績、足跡をたどると。
🔷真菌症
東大皮膚科入局後は、顕微鏡に向かって真菌の観察、描写に余念がなかったそうである。またサブロウの真菌学の教本を学び、仏語にも親しんでいったようである。フランス留学時は碩学のサブロウに師事した。当時のサブロウは大先生で東洋からきた無名の青年医師を軽く見ていたふしがある。汗疱状白癬の発見をサブロウに送付した際、その存在を全く評価していない手厳しい内容の返信を受け取っている。また留学時にはサブロウなどてんで小生を信じぬから(実験を)中止した、などと愚痴を述べている。しかしその後植物学的形態より真菌新分類方式(Ota et Langeronの分類)を提唱し、後にフランス国よりレジオン・ド・ヌール賞を受賞している。(これについてはサブロウから多少の不満をウケた事があると述懐している。)ただ、サブロウの死に際しては太田はその業績を讃え、教養深く古典、音楽、彫刻にも秀でていたと追悼の文を雑誌に献じた。
 山口英世は近年の分子生物学的手法を用いた真菌の分類がおよそ百年前の太田の分類と驚くほど一致していることを指摘し、太田の精緻な形態に対する能力の素晴らしさに驚嘆している。むしろ菌の毛髪に対する態度を基礎にしたサブロウの系統分類よりも科学的なのかもしれない。また山口は数十年の空白を経て、太田の分離発見した真菌株(M. ferrugineum)がヨーロッパで保存されているのが見つかり太田先生の論文通りの見事な鉄さび色をしたコロニーが生えてきたときの興奮を述べている。太田の弟子で戦後の医真菌学を継いだ福代良一は(太田の真菌での業績で)「特筆しなければならないことは第一に、東アジア地区の頭の白癬(シラクモ)の主要な原因菌であるM. ferrugineumが新種として発見・命名されたことである」と述べている。(小野 (41))
真菌の研究は(珍しく)長きにわたり真菌に関する論文は39編(日16、独5、仏16、英2)と多彩である。
「先生が帰朝されたときには適当な席がなく、いっそ皮膚科学を捨てて伝研か北里研で真菌学の勉強をしようかと考えた。・・・昭和12年5月再び遠山の後任として東大に転じた。この間真菌学の第一人者として菌種コレクション、新菌種の決定、その顕微鏡的所見、培養の肉眼的所見の研究、日本ミコロギー協会の設立など、我が国の医真菌学の基礎を確立したものの、戦後に医真菌学が大いに興ったのを見ないで、又国情の大きく変わった姿を見ないで歿くなったことは惜しまれる。」(北村)
🔷母斑症
太田母斑、これはもう太田正雄を世界的な大皮膚科医として、世界中の教本に取り上げる所以となった真骨頂ともいえる研究業績である。東大に着任後すぐにその存在に注目したようで(その萌芽はすでに仙台時代からある)すでに前年にその端緒となる報告をしているが、「我國に甚だ多き母斑の一典型たる「眼・上顎部褐青色母斑」並にそれと眼球色素沈着症との關係に就いて」を昭和14年(1939年)に発表している。
「ここに記す一種の母斑は、従来は大體色素性母斑と診断せられ、専門家の特別の注意をば惹かなかったやうであるが、それは色素性母斑とは其性質を異にし、寧ろ青色母斑の一特殊型と見做すべきものである。・・・此母斑は皮膚に於ては眼神経と上顎神経との支配域のみに發現し多くの場合(我々の観察例二十六中十七、即ち六十五%)には眼球メラノオジスと倶に存するのである」と、その観察は鋭く、すでに今日の太田母斑の概念をほぼ記載している。両側性症例の存在もあげている。女性に多いことにも触れている。(小野(44))
また谷野の論文を指導した際に「君、クロアスマとの關係もしらべなくては、いけないね」と話したという。これは今日の真皮メラノサイトーシス、肝斑など鑑別を要する顔面の色素斑の諸型もすでに太田の頭の中に浮かんでいた可能性もあるのではないか。・・・さらに最初の論文で病理組織像がカラーの顕微鏡図として残されており、そこには真皮のメラノサイトばかりではなく、それを被覆している表皮部分のメラノサイトの数も周辺より多く描かれていて・・・太田正雄の観察力の緻密さ、あるいはパターン認識の力量は他を寄せ付けない凄さがある。(小野 同上)
🔷ハンセン病研究
ハンセン病については北村は太田正雄の生誕100年にあたり「日本癩学会の諸学者と提携しての癩の病型分類、その病理組織学的根拠の追及、延いて結核様癩の確立、癩の新接種法としての人癩類代家鶏接種の試み・・・」と書いている。
また上野は「定年後は研究対象として真菌学を選ぶことはしなかったと思う。極端な言い方をすれば、植物としての真菌には興味を持っていたが、それ以上突っ込む気はなかったのではなかろうか。・・・真菌よりも癩(ハンセン病)が彼の仕事の対象として強かった。定年後に研究生活を続けたとしたら、癩に向かって行ったことは確実であろう。・・・仙台時代に感染状態についてフィールド研究を行い、東南アジアでの国際癩学会を期に、該地(シャム、フィリピン、支那など)の癩対策、特に社会的対応をつぶさに視察し、また疫学的調査を『南方諸国に於ける癩』(1943)として纏めた。そして結論的には癩は不治の病ではなく、的確な治療剤があれば必ず完治は可能であり、当時の王道であった光田式の隔離方針には大きな疑義をもっていた。こんな方式は日本だけではないか。海外では厳重隔離どころか在宅診療をしている。癩は遺伝でもなく、体質に基本があるのではなく、細菌感染症であるから、必ず有効な薬剤があるに決まっている・・・昭和20年前後はスルフォン系薬剤の治癩効果が注目され始めたときであり、杢太郎が生きていたら、治癩剤は数年は早く完成したであろうと言われている。(上野 (26))
また谷奥喜平の思い出として、「学会の懇親会で”杢太郎で有名な太田先生”と呼び声がかかって、”僕は癩を研究している人は立派だとおもう。みな研究者でありヒューマニストだ。最高の勇気を持った人たちばかりです”と挨拶されたのが私の記憶に残っている」とある。(上野 (27))
(長々と上野先生の文を引用しましたが、太田の癩に対する考え、取り組み方、当時の状況が具に理解できると思います。しかしながら現実には日本は戦後も諸外国と異なる道を辿り、ハンセン病治療に大きく後れをとって禍根をのこしてしまいました。)
🔷その業績の評価について
上に書いた主要な業績だけでも、文句なしに超一流の評価がされているものの、一方で皮膚科に限らずあまりにも多方面に手を広げて才能が有り余ったせいか、「杢太郎は序曲は歌ったが、その歌劇を最後まで書き上げなかった」と批評する論調も少数みられる。直接の弟子の北村包彦(かねひこ)の杢太郎論にも「太田教授は、その発想、或いはその所説が想像的に過ぎると屡々云われたが、想像力が研究を誘導したこともあったと思われる。これ等の業績の発表に寄与したものとして、教授の広く、深い語学力、優れた文章力を挙げたい。・・・」とやんわりとその研究が想像的過ぎるといわれたことを述べている。
 上野が座長を務めたある座談会で”序曲問題”に主題を向けた際に平川は「自分が一番活き活きと感じている問題にさーと入っていく。そして多少飽きが来て、その問題が少し古くなって、筆がにぶくなるという感じになっていると、その仕事はどうもそれ以上あまり続けないというタイプじゃございませんか。非常にねばり強い面も一面ではあるのですけれども、画面でいえば、広いキャンバスを力にまかせて油絵具で埋めていくという人ではなくて、やっぱり印象派のタッチのいいところをさっさとかく。紀行文など特にそういう感じではないかと思いますが。」
また杉山は「詩でも、白秋が”通っていったあとにもったいないほどのいろんなものを残していった”と『食後の唄』の序文でいっている程多くを未完成で残していかれた。詩作の上に一生かける人間にとっては、本当にもったいないと思うのと同じで、小説でもそうでしょうし、おそらく専門の医学の中でも、そういうものを次々と振り捨てられるというか。・・・」
さらに宇野浩二は「彼は骨の髄までの好事家であり、芸術の殆どあらゆる方面に一通りの才能を持ち、相当の学識を持ちながらどの一つも貫けなかった」。このようなネガティブな批判に対して、吉田精一は「杢太郎は芸術的気質を多分に持ち、それこそ”骨の髄までの芸術家”であったために、自己の持つものを折にふれて発散せざるを得ぬ衝迫を感じ、その結果が多岐にわたったのである。・・・」と述べている。そして「この豊かな詩才と、芸術的天分のもち主が、生涯芸術以外のことを本業にしなければならなかったのは、あるいは不幸というべきだろうか。」とまで言っている。
ネガティブな論評の最たるものはムラージュ制作の天才的職人の長谷川兼太郎である。「あの人も医者なら医者、文学なら文学やってりゃあ文化勲章ぐらいもらえたのに。要するに気が多いんで、これじゃ駄目だと思ったな。医学でも糸状菌やってるかと思うとレプラやる。それもどんずまりまでやるんじゃなくて又変わる。それじゃ具合悪いわな。傳研でやったが(中略)学会で発表したんだが失敗したね。・・・」。これに対して、上野は「飾らない文章で微笑ましく言わんとするところはよく分かる。一般の平均的な、換言すれば世俗的な受け取り方にはこのようなものが多いのも理解できる。しかしこれは杢太郎を真に理解していない幾多の論説の骨格を示している。」と述べている。
川村太郎は太田正雄の皮膚科研究について「宿題報告(皮膚腫瘍に関する;1940)の内容は未完成のものであるが、凡人の思いつかない大きな問題を指摘することで終わっている。したがって先生の指摘された点をほじくり返しているといろいろのものが出てくる。・・・メラノサイトのneural crest説(1948)以前に“黒色上皮種”でケラチノサイトとメラノサイトの関係を提示し、これらの研究から太田母斑の流れが生まれてきた」。
上野は序曲問題を総括して次のように述べている。「杢太郞のセンサー(感受性)があまりに鋭く、ために次々とテーマが移動していったことが、「一寸齧りですぐ気を移す」と解されて、それが「序曲だけ」という表現になったものと思う。・・・彼のあふれる才能は、そのとき既にそのセンサーは、次の問題を感知してそちらに触手が伸びていったということである。・・・序曲を、「その歌劇の全貌を概観(Ubersicht)したもの」という本来の概念で言うならば、「杢太郞は序曲を歌った」ということは、彼がその問題に関して、「その本質の全貌を捉えて理解して仕事をした」ということになり、この意味で「序曲を歌った」という言葉を使ったならば、それは杢太郞の仕事を正確に評したことになる。」(上野 (22)(23))。

上野、小野先生の評伝を正確に網羅することなど、とてもできませんが、次回は皮膚科医としての太田正雄の生涯におけるいくつかのトピックス、エピソードを書いてみたいと思います。

落ち穂拾いのこと

再開するブログの名前を考えあぐねて、皮膚科落ち穂拾いとしました。
ことさらその理由など書くこともないかもしれませんが、そのいきさつを一寸書きます。
皮膚科の先生で「皮膚科の臨床」という雑誌を購読している方ならば、きっとああ、それは上野賢一先生が長らく連載されていた随想 【「杢太郎」落ち穂拾い】 から拝借したものだな、と気づかれるかと思います。
まさにその通りで、素晴らしい随想なのでいいなー、と常々思っていました。それを拝借してブログの表題にするのが、適切なのか、不適切なのかはわかりませんが。

杢太郎とは、木下杢太郎のことで、これは文芸的な活躍の場で用いたペンネームで本名は太田正雄といいます。
若い頃は北原白秋などと詩作を行い、劇作、翻訳もこなし、キリシタン美術に造詣が深く、英語、仏語、独語をよくし、その絵は玄人はだしでした。
しかし本職は戦前の東京大学皮膚科教授で、その名前は知らなくても、太田母斑と聞けば知っている人もあるかと思います。日本人の名前のついた皮膚疾患名はそれほど多くはありませんが、その中でNaevus of Otaは国際的に有名な疾患の中でその最たるものかと思われます。

それは兎も角、一般の方で《落ち穂拾い》といえばまずミレーの油彩絵画を思い浮かべることでしょう。単に貧しい農村の人々の日常を絵にしたものと思っていました。ところが実はウィキペディアをみると、深い意味があるとのことでした。欧州では麦畑の株を長い鎌で刈り倒して、フォークで集めて脱穀するのだそうですが、その際、集めきれなかった落穂が多数地面に残されます。当時は旧約聖書のルビ記に定められた律法に従って、貧農や寡婦などの貧しい人々の命の糧として、畑の持ち主は落穂を残さずに回収することは戒められていたとのことです。
その落穂は大切なもの、という考えととるに足らないものとの考えがあるそうです。また英語のgleaningにあたり、「情報や知識をすこしずつ集める」という意味もあるそうです。上野先生はこのような意味で使われたのかもしれませんし、膨大な杢太郎の足跡の一部しか辿れない、という謙遜の意味で使われたのかもしれません。
《落ち穂拾い》にそのような深い含みがあることなど知りもしませんでした。

このような経緯をよく考えてみると一介のロートル皮膚科医の備忘録のようなブログに無断で《落ち穂拾い》と表題の一部を拝借するのはますます不適切なような気もしてきました。
ただ、今は亡き天国の上野先生も小さなブログゆえ見逃して下さるだろう、と勝手に推し量りました。
小生の思いは、皮膚科の時々の、遠近の話題を取り上げて、自分の備忘録としたいとの思いです。《落ち穂拾い》としてそこに皮膚科の大先達へのあこがれの匂いが含まれたらいいな、との思いもあります。

皮膚科落ち穂拾い〜つれづれなるままに〜

いろいろと新たなブログの題名を考えてみましたが、どうもしっくりくるような、洒落た題名は思い浮かんできませんでした。それで、やはり以前候補にあげた「皮膚科落ち穂拾い〜ときに山へ旅へ〜」を元にして「皮膚科落ち穂拾い〜つれづれなるままに〜」として再出発することにしました。
長い間「そが皮膚科へようこそ」をご覧いただきありがとうございました。

シャモニの休日(3)

今日は、エギーユ・ディ・ミディ針峰に登る日です。前日より早く、7時半にガイドとホテルのロビーで待ち合わせてロープウェイ駅に向かいました。朝早くなので、流石にまだ誰もいません。天気の状況を見て、ガイドの顔が曇りました。頂上駅では気温-15度、雪で、画面に映し出された現地映像は霧か雪で真っ白です。これでは冬と同じだなーとガイドもぼやく。
3つのオプションの提案をされました。1つ目はガイアンで岩登りをすること、2つ目はよく分かりませんでしたが、他所に行って、ケーブルに掴まりながら、観光のような事をすること、3つ目は兎に角頂上駅まで上がって、天気の回復を待ちながら様子を見ること、です。明日は晴れの予想だというのに、今日はまた大外れもいいところです。折角シャモニまで来ながら、針峰に触りもせずに帰るのもがっかりなので、兎に角頂上駅まで上がる提案を選択しました。
ロープウェイは定時には出発出来ず、次第に中国人観光客の長蛇の列が出来始めました。ジジは2番手のロープウェイに乗ると言って、列の後方に並び直しました。
9時過ぎになってようやくロープウェイは運転を開始しました。登って行くと途中駅、プラン・ド・レギーユ駅の下からもう地面は雪景色で真っ白です。霧の中に入って行くと周りは真っ白で何も見えません。景色どころではない内に頂上駅に着きました。観光客と別れてトンネルの中で装備を付けました。僕らの他に数グループのガイドと客とおぼしきグループがいました。ヘルメットにダブルアックスなどのグループもいたので、岩でも登るのかねー、と聞いたらジジは即座に no, impossibleとの返事でした。
雪の中兎も角ガイドについて行きました。トンネルを出て、いきなり雪稜の降りです。コンティニュアスで確保してくれるものの、覚束ない足取りで降って行きました。眼鏡に雪が付き、息でレンズが曇るので、雪面がよく見えません。眼鏡を外して歩き出したら、ジジがサングラスは無いのか、といいます。曇った眼鏡にサングラスを取り付けても益々見えにくくなります。無いというと、オー ノーといいますが、まさかゴーグルに目出帽など想定外です。裸眼のまま進みました。後で帰って来たとき、思いの他のナイフエッジでよく見えていたら、却ってビビったかもしれないと思いました。
暫く降って、ミディ南壁の下部に降り立ちました。なだらかになった氷河を進みますが、周りは白一色、何も見えません。
晴れたら見晴らしの良いポイント・ラシュナルに案内するといっていましたが、この天気では無理です。取り敢えず、コスミック小屋まで行こうということになりました。コスミック山稜などもっての外の状況になってしまいました。
小屋には先発したフランス人(?)のグループもいました。コーヒー、オムレツをいただいたら人心地がついてきました。
食べながらジジの話を聞きました。この地でのハイライトのクライムは? グラン・カピュサンのフリーと、あのワルテル・ボナッティが苦労して人工登攀した壁をフリーとは。今までで一番のクライムは? グリーンランドで3ビバークの末初登攀したこと、他に3本の初登攀など興味深い話でした。フランス人かと思っていたらクールマイユール近くに住むイタリア人でした。でも車でほんの20分程だとか。その他いろいろな話も聞かせてくれました。
ただ今日の登山はこの天気では歩くだけがせいぜいです。落ち着いたら戻ることにしました。
戻るうちに次第に天気が回復してきました。
ジジがあれが、グラン・カピュサンだ、ツールロンドだなどと教えてくれました。ポアン・エルブロンネルへのテレキャビンも見えてきました。霧の間に間にミディの南壁も、頂上も見えてきました。岩は触れなかったけれど、かなり満足した一日でした。
シャモニの町に降り、ジジにお礼のチップを渡し別れを告げました。これからどうするのかと聞いたら、今週はまたガイドをして、10月になったらシシリーかマルタに行くといっていました。(後で神田さんの話ではフランスに別荘があり、マルタは英語の勉強だとか)。冬にはスキーガイドをするというのでオートルートもやるのか、と聞いたら、ウン日本人の客も多いよ、とのことでした。今年のような天気は滅多にないとのことでした。またお出でよ、と言っていましたが、金と暇があればねというと、それは誰でもそうだと。本当に機会があれば、また来たいと思いました。 そしてジジにガイドしてもらいたいと思いました。
翌日はもう帰国の日です。神田さんがホテルまで来てくれて駅まで送ってくれました。
待ち時間の間、色々と話を聞かせてくれました。1970年頃からシャモニに住み、いろんな日本人の面倒を見てきたとか。
加藤保男、植村直己、森田勝、長谷川恒男、山田昇などなど・・・
僕が面倒を見た人は皆んな死んじゃったなーと一瞬遠くを見るような眼差しでした。
日本人はとかく無理をするからなー、突っ込んじゃうんだよ、と。自分も71年頃冬のグランド・ジョラスの新ルートを開拓した人の言葉は重いものがありました。今もガイドをしているのですか、と聞いたらもう数年前に辞めましたよ、とのことでした。山はいろんな楽しみ方があるんですよ、年齢に合わせて楽しめばいい。それにしても今年の天気は例年になく変だったなー、普通9月はもっと天気も良くて、岩は乾いているんだけどなー、残念だったねー、またいらっしゃい、と。神田さんはもう日本には帰らないんですか、と聞いたら、もうこっちにシャレーもあるし、生活の基盤があるしねー、それに日本に帰ってももう僕の居場所はないよ、と和かに答えてました。まさに人間至る処青山あり、です。
帰る日になって、漸くお山は晴天です。あれだけガスったミディの頂上も今日はくっきりみえます。モンブランも青空に白く輝いています。1日違いで悔しいなー、と思いましたが、新雪が岩にがっちりで今日も大変だよ、との神田さんの言でした。モンブランをバックに写真を撮ってくれました。
本当に機会があればまた再訪したいと思いつつシャモニを後にし、電車でスイスの景色を見ながらジュネーブへと向かいました。

頂上はー15度 雪

悪天候の中進む

コスミック小屋までで、山稜はあきらめる

次第に視界がきくようになる

ツールロンドとグランキャピュサン

ミディ南壁、昔登った時も上部は雪だった

晴れてきた

翌日は晴天

駅からのモンブラン遠望

スイスの山岳電車でジュネーブへ

モンブラン山群 地図

ヨーロッパの岩場 より 小森康行

シャモニの休日(2)

翌日は、メールドグラスの氷河歩きの訓練です。モンタンベール行きの電車駅から、急勾配の線路を上って、終点のモンタンベールからメールドグラス氷河に下降します。岩壁に取り付けられた、長い鉄の梯子をいくつも乗り換えながら降って行きました。
メールドグラス氷河は最初は岩や小石混じりですが、登るに連れて氷と雪になってきました。かなり多くの登山者が氷雪の訓練を兼ねて出向いていました。氷河の途中で急な斜面をなしているところが幾つもあり、初心者(?)の訓練に使われていました。上の方からしっかり確保しながらの、アイゼンワークやダブルアックスの訓練をしていました。
フランスの軍隊の登山訓練チームもいました。この地域に特化した部隊訓練のようでしたが、流石に若者だけあって、パワーがありました。
我々はそこを通り抜けて、メールドグラスを奥の方へ進んで行きました。
行く手の左側にはドリュの尖った岩壁が圧倒的です。ずっと奥の方にはレショ氷河の先にグランド・ジョラスの壁が圧倒しています。ガイドのジジに聞いたら、15年以上も前にドリュの岩壁もグランド・ジョラスのウォーカー稜も登ったそうです。伝説のクライマー、ワルテル・ボナッティが登った岩壁を間近に見られたのは感無量でした。
暫く進んで、まだ行くかとガイドがいうので、疲れたからもう帰ると言って引き返しました。行きは良い天気だったのに雨模様になってきました。そのせいもあってか、最後の梯子登りでは完全に足が止まってしまいました。
明日が本番というのに、これでは一寸きついかな、と自分でも思いましたし、ガイドも初日のグッドから大分評価を下げてしまったかなと思いました。
でも色々見物できてよかったかな。夜は連日の無理がたたり、運動不足を露呈してハムストリングがつりそうでした。

エギーユデュドリュ

 

ガイドのジジ

ベルト針峰?

グランドジョラス

メールドグラス氷河

左遠方にダン・デュ・ジュアンを望む

シャモニの休日(1)

ジュネーブからのバスは発車が、40-50分遅れてヤキモキしましたが、7時過ぎに無事シャモニに到着しました。昔は峠越えなどあったような気がしましたが、それ程の急な登りもなく、シャモニの町中に入って行きました。1時間一寸で着くなんてこんなに近かったっけ、記憶は茫洋としています。シャモニの谷間に入るとレズーシュ、ボソンなど懐かしい名前も出てきました。バスはChamonix Sud 南側のミディのロープウェイの駅の近くに着きました。ホテルモンブランは川向こうなので、数百メートルは歩きますが、街並みを見ながら歩きました。
翌朝はホテルのロビーでガイドさんと打ち合わせです。事前に日本人経営のシャモニのツアー会社に頼んであり、そこを通しての紹介なので安心でした。神田さんという人がガイドを連れて現れました。事前情報のメールのやり取りでは、昔岩登りをしたといっても、長いブランクがあるから、ハイキング程度にしたらどうですか、との事でした。納得しつつも折角長い道のりをやって来たのだからガイドに連れて行って貰えば、易しいミックスルートなど登れるかもとの下心があり、どうですか、などと無理をいい何とか受けてもらいました。但し、岩や氷河の足慣らし(客の値踏み?)をしますし、悪天候で行けなくても実力が無くて行けなくてもガイド拘束料は発生しますよ、と念を押されました。
ガイドはジジさんといって50過ぎの人の良さそうな感じの人でした。
早速ガイヤンの岩場に連れて行ってくれました。もう40年も前のことでしょうか。そういえばガイド祭りなどがあって華やかだったなーなど朧げな記憶が蘇ってきました。数十年振りに着けるハーネスはお腹の下できつきつです。
でも流石ガイド、手取り足取り丁寧に指導してくれました。(勿論きっちりした指導をしないで客に事故でも起こされたら大変でしょうから、当たり前の事かもしれませんが。)
ジジさんは登山靴で、小生にはクライミングシューズを貸してくれました。まずは易しいルートから。取り付いて見たら、昔の感触を思い出し快調です。
次第に難度を上げていって、最後は数ピッチ登り、懸垂下降で降りました。グッドとおだてられてまずは初日は終わりました。
午後はシエスタかと言われましたが、折角なのでブレバンのロープウェイで上まで上がり、途中まで歩いて降りてきました。昔ブレバンの近くのski Stationという安いホステルに泊まったなーと思いながら探してみたら、ロープウェイ駅のすぐ近くにいまだあって、懐かしさが蘇ってきました。
その後は町を散策して、シャモニ墓地まで行きました。古くからのガイドも眠る墓地です。
お目当てはエドワード・ウインパー、年老いた彼はシャモニーの町に戻ってきてそこのホテルで息をひきとったといいます。モンタンベール駅の近くで、観光客が一杯なのに、墓地には誰も居ません。でも入り口近くにあり、綺麗な花壇もありました。
初日はまずまずの滑り出しでしたが、さて翌日は?

ホテルモンブラン

バルコニーからはモンブランが見える

町の中心で観光協会に隣接していて好立地

モンブランを指すパルマとソシュール

サン・ミシェル教会とブレバン

ガイヤンの岩場

シャモニ・モンブランの谷

シャモニ墓地

ウインパーのお墓

ジュネーブからシャモニへ

ブログを終了するといって、舌の根も乾かないうちに記事を書いているなんて我ながら節操が無いと思います。
でも今回で本当にしばらくお休みです。

EADV(ヨーロッパ皮膚科学会)で、ジュネーブに立ち寄って、その後シャモニに来ています。
金曜日のプレナリーセッションは京都大学の椛島先生の講演でした。メイン会場でヨーロッパの皮膚科医を前に堂々の講演でした。マラソン、トレランを趣味にする先生の講演では初めにその方面のスライドが出ることが多いのですが、今回も2週間前にUTMB(ウルトラトレイル・デュ・モンブラン)で100マイルを完走したスライドから始まりました。これが、今回のトークのハイライトです、とのジョークには会場からやんやの拍手喝采が湧きました。iSALTを初め、3Dイメージングを駆使した皮膚免疫の講演は聴衆に感銘を与えたと思います。でも一般の臨床医はついて来れたかなー。しかし講演の後も質問者が引きも切らなかったのはそれ程インパクトがあったからでしょう。
EADVの出席も回を重ねて会場を動き回るのには大分慣れて来ました。世界の一流の学者が講演をしてくれて、インスパイアされることは大なのですが、私の場合は「豚に真珠」の例えそのものです。何かすごいなー、と思いながら知識と語学力の不足で、実はよく理解できていません。小生の参加は趣味の領域かもしれません。
しかし、椛島先生も帝京の渡辺先生も常々言われるように志ある若い日本の皮膚科医はもっと世界に出ていってプレゼンスした方がいいと思います。ガラパゴスのままで満足しているとアジアでも中国、シンガポールなど世界に置いていかれるかもしれません。いっぱい若い優秀な人達がいるのに、と思います。(It’s none of your business ! と言われそうですが。)
金曜日の夜は、友人とフォーシーズンズの最上階にある、Izumiというレストランでディナーと美味しいワインをいただきました。いつも一人でB級グルメかカップラーメンを食べる小生にとっては贅沢なひと時でした。
土曜日の午後は会場を離れて、ジュネーブの旧市街を散策しました。ヨーロッパの大きな街は大抵古い伝統を誇っていて、ジュネーブもその例にもれない街でした。時間がないので、ルソーの館はスルーして美術・歴史博物館に行きました。これもまた贅沢なひと時でした(学会もちゃんと行けよ、と言われそうですが)。
その後はバスでシャモニに移動しました。
長くなるのでシャモニの記事は次回に。

追記

今回、学会に出て印象に残ったこと、日本の医師の医学界への貢献ついて。

小児皮膚科学のセッションも内容が濃くて興味を惹かれるので、時々覗くのですが、今回は内容は兎も角、聴いていて日本人も結構貢献しているのだなーと思いました。(特に母斑症を初めとしたgenetics、小児の緊急性のある疾患などは、いつも圧巻です。)
講演の中で、普通に川崎病、永山班など出て来ます。感染症では大村先生のイベルメクチンも出て来ます。regulatory T cell などはもう当たり前のように出て来ます。薬疹とウイルスのセッションでは、DiHSという略語を初めて聞きました。ヨーロッパではどうも薬疹のセッションではDRESSと言う語が中心でついぞDIHSという語は聞いたことがありません。いつか浦安の医会で新潟の阿部先生にどうして外国ではDIHSを使わないのかと質問したことがあります。我ながら無茶な質問をしたと思いましたが、一寸困ったような顔ながら丁寧に回答して下さいました。発音の響きがDRESSの方が良いこと、国によっては日本のようにウイルスの抗体価が簡単に測れず、広く行き渡らないことなどといったことだったと思います。
(小生はフランス人のプライドのようなものもあるのか、と下衆の勘繰りをしてしまいましたが)。でも今回はDIHSではなく、DiHSでしたが日本人グループのウイルスの再活性化、免疫再構築についてちゃんと紹介していました。

ことほど左様に日本人は世界に貢献してきましたが、この先もこれまでのような日本人の活躍が続くのか、先の先生方の心配の話もあり 誇らしさの一方で一寸気がかりでした。

ジュネーブ遠景

ジュネーブ学会場 Palexpo(26th EADV Congress)

ジュネーブコアントラン国際空港に近接していて便利

ジュネーブ中央駅(コルナヴァン駅)

電車で空港までほんの10分足らず

ブログの休眠

「そが皮膚科へようこそ!」との名前でブログを綴ってきました。
だいぶくたびれてきましたが、まだブログというべきか、講演会の抄録のような記事を書いています。おかげさまで多くの皆様に訪問していただき、感謝しております。
ただ、最近ややくたびれ感、いっぱい感があります。
当初、一般の方に皮膚科のアップツーデートな情報を届けたいという希望もありました。しかし皮膚科も含め医学の進歩は目覚ましく、そろそろ老化した頭脳ではとてもついていくのはきつくなってきました。講演の要旨を難しいままのテクニカルタームで噛み砕かずにそのまま書き写すことも多くなりました。そもそも自分で書いた過去の記事を全く覚えていないこともままあります。最近大それた思いは程々に、という思いがつのってきました。また、ブログの記事を見て来院されても、いきなり酒さや痒疹が治るわけでもありません。しかもいつまでも当院が続くわけでもありません。
もとより、このブログは集客を目的としたものではありません。

それやこれやで「そが皮膚科へようこそ!」としてのブログは終了とすることにしました。しばらく休眠として、再度そが皮膚科と切り離した別の名称で、あまり学術的一辺倒ではなく気ままな気持ちでこのサイトの続編にしようかと愚考しています。
(しかし同じ人間の書くことで、そんなにリフレッシュも変わり映えもしないだろうとは思いますが。ただ年老いた駄馬とはいえど、40年以上の皮膚科の経験はあります。最新とはいえなくても伝えたい皮膚の話はまだまだ一杯あります。恥ずかしながら多少なりとも皆さまのお役に立てる記事はまだ書ける自負は持っているつもりです。)

さて、どのようなブログになるか分かりませんが。例えば「あるロートル皮膚科医のつぶやき」とでも「皮膚科落穂ひろい、そして山と旅と」とでも・・・?
それでは、またお会いする日まで、ごきげんよう。

薬剤性過敏症症候群

薬剤性過敏症症候群(drug-induced hypersensitivity syndrome: DIHS)は比較的新しく、日本人皮膚科医によって命名された重症薬疹の概念です。
以前から同様な薬疹は臨床的に知られており、個別にDDS症候群やallopurinol hypersensitivity syndrome, anti-convulsant hypersensitivity syndrome などの名称で報告されてきました。これらの個別的な異なる名称の共通点に気づき1994年にフランスのRoujeauらはDRESS(drug rash with eosinophilia and systemic symptoms)という名称を唱えました。1998年橋本、塩原らは別個にこのような薬疹でHHV-6の再活性化を伴った症例を報告し、薬剤アレルギーとウイルスの再活性化を伴った新たな疾患概念を提唱しました。(しかしながら現在でも欧米諸国ではむしろDRESSの名称が多用され、DIHSは日本で主に用いられています。またDRESSの診断基準にはウイルス再活性化の項目はなく、これらは同一ではなくDRESSはDIHSをも含む包括的な名称と捉えられます。)

🔷DIHSの原因薬剤
抗痙攣剤などの、ある特定の薬剤が原因となり、比較的長期間(数週から1,2か月)内服した後に生じるのが特徴です。カルバマゼピン、フェニトイン、フェノバルビタール、ゾニサミド、最近ではラモトリギンなどの抗痙攣剤やアロプリノール、メキシレチン、サラゾスルファピリジン、ジアフェニルスルフォン、などがあげられています。その他では少数ながらミノサイクリン、バルブロ酸ナトリウム、ST合剤、シアナミドなどが報告されています。
また化学物質(金属加工部品などの脱脂洗浄に使用される有機溶剤)のトリクロロエチレンによるDIHSもあります。
🔷DIHSの臨床症状
原因薬剤投与2-6週後に遅発性に発疹が生じ急速に全身に拡大し、しばしば紅皮症に移行します。発疹の型はさまざまであり、播種状紅斑丘疹型、多形紅斑型、紫斑型をとります。特徴的なのは病初期に顔面の著明な浮腫を伴ったびまん性の紅斑をきたし、眼瞼周囲は正常で、口囲、鼻囲に丘疹、膿疱、痂皮を生じてきます。前腕には緊張性の水疱を伴うこともあります。またリンパ節腫脹、肝脾腫を伴い、肝機能異常、腎機能異常、血液学的異常(白血球増多、好酸球増多、異型リンパ球)を認めます。原因薬剤を中止してもさらに症状は進展することが多いです。
本症の特徴は発症2~3週後にHHV-6をはじめとするヘルペス属のウイルス血症をきたし、2峰性に症状の再増悪を見る点です。
🔷ヘルペスウイルス再活性化
ヒトヘルペスウイルスはヒトに長期間に亘って潜伏感染を起こし、一生体内に留まります。そして宿主の免疫状態や種々の刺激によって増殖を再開します。これをウイルスの再活性化といいます。DIHSの際にこのヘルペスウイルスの再活性化が起こることを日本人の皮膚科医が見出したことはすでに述べました。
ヒトヘルペスウイルスには8種類あります。有名なのは、HHV-1,HHV-2(単純ヘルペスウイルス1型、2型)、HHV-3(水痘・帯状疱疹ウイルス)でしょう。DIHSで再活性化するのは、HHV-4(Epstein-Barr virus:EBウイルス)、HHV-5(ヒトサイトメガロウイルス:CMV)、HHV-6(HHV-6A, HHV-6B)、なかんずくHHV-6Bです。その他のヘルペスウイルス群の再活性化もみられています。HHV-6は突発性発疹の原因ウイルスで本邦では2歳までにはほとんどの人が感染しています。HHV-6はまた移植片対宿主病(GVHD)や慢性疲労症候群とも関連することが分かっています。
1998年橋本、塩原らが報告した当初は、ウイルスの再活性化は病態機序に密接に関連しているのか、偶然なのかが議論になりました。しかし、その後の検討の結果、発症後2~3週後に再活性化が起こること、それは治療にステロイドを使う、使わないにかかわらずに見られること、再活性化を起こした群の方がより重篤な症状(肝腎障害など)を起こし、予後も悪かったことなどが明らかになってきました。さらに引き続き、サイトメガロウイルスの再活性化を起こした群では心筋炎、肺炎、消化管出血などを起こし予後を悪化させる要因となっていることも明らかになってきました。これに対してはガンシクロビルなどの抗ウイルス剤の投与が有効です。
🔷DIHSの発症機序(ウイルス再活性化の機序)
DIHSにおけるヘルペスウイルスの再活性化が明らかにされてからすでに20年経っています。その臨床経過、検査データの異常、推移は詳らかにされていますが、薬疹の発生からウイルス活性化に至る機序、病態への関与の全貌はなお明らかではありません。
当然、薬剤の侵入を契機として、生体内で免疫反応が起き、潜伏感染しているヘルペスウイルスが再び増殖して病像を複雑化させ、遷延化させている訳ですが、詳細な生体内反応、免疫反応の理論解明は未だしです。
ただ、塩原らは実験データや、DIHSの特徴的な臨床経過から次のように考えています。
 SJS/TENではTreg(regulatory T細胞)の機能不全が起こっており、エフェクターT細胞の過剰な活性化が表皮壊死に繋がっていますが、DIHSでは急性期はTregが逆に著明に増加しています。その中でも免疫反応の抑制力の高いinduced Treg(iTreg)が著明に増加しているといいます。Tregの増加はウイルス特異的なT細胞の活性化やB細胞やNK細胞の機能発現を抑制する結果、潜伏するウイルスのさらなる再活性化をもたらします。この間はDLSTも陰性となります。一方慢性期、回復期になるとTregの頻度,機能は健常人を下回るまでに低下し、これと反比例するようにTh17細胞が増加したそうです。この回復期のTreg/Th17のバランスのくずれは、この時期にみられる自己免疫疾患の発症を説明可能です。HHV-6は単球に潜伏感染し、活性化T細胞に感染することがその増殖に必要です。単球の中の分画のpMOs(proinflammatory or patorolling monocyte)はSJS/TENで表皮を傷害することで注目されてきましたが、DIHSにおいて急性期にはpMOsが特異的に消失することが明らかになりました。逆に回復期にはpMosも急速に回復していました。塩原らはpMos,cMosの変化がTregのダイナミックな変化をもたらし、DIHSの免疫異常をうまく説明できるとしています。
🔷DIHSの治療
薬疹の治療の大原則として、被疑薬の中止が重要です。ただ、DIHSの場合、長期(2~6週あるいはそれ以上)に亘る投与の後に発症するという特徴があります。従って発症2カ月前まで遡って薬剤を検討する必要があります。ただ前に述べたようにDIHSを発症する薬剤は比較的に限られています。それらの投与があれば速やかに中止すべきです。またDIHSでは発症後に使用した抗生剤、消炎鎮痛剤に感作され易いので、これらに惑わされない注意も必要です。
薬物治療の主体はやはりステロイド剤の全身投与になりますが、なかなかトリッキーな部分もあります。症状にあわせて十分量のステロイド剤を使用しますが、急激な減量を行うと、免疫再構築症候群の際にみられるように、ヘルペスウイルスの再活性化を助長するからです。また一般にステロイドはTregの数や機能を増大させる一方、pMos分画に対しては抑制的に働きます。それを鑑みるとSJS/TEN程にはステロイド剤が有効とも言い切れません。ただ、ステロイド剤を使わないで治療した群ではDIHS治癒後に高率に自己免疫疾患を発症するとされます。
 経過中に発症するサイトメガロウイルス感染症は予後を左右する大きな合併症とされます。従ってその動向を常に注視し、感染が明確ならばガンシクロビルの投与も考慮すべきです。
🔷DIHS後遺症としての自己免疫疾患
DIHSの回復期には抗サイログロブリン抗体や抗甲状腺ペルオキシダーゼ抗体が陽性になったり、Ⅰ型糖尿病を発症してくるケースもみられます。またその後、全身性エリテマトーデスや全身性強皮症を発症するケースもみられます。
このようにDIHSの後遺症として時に自己免疫疾患を生じることが次第に分かってきました。これは病初期に十分な機能をもったTreg(regulatory T細胞)が病気の回復期になると著明な機能低下を起こすことと符合しているとされます。そしてこの現象はGVHD後に生じてくる自己免疫疾患との類似性があります。

参考文献

橋本公二 薬剤性過敏症症候群とヒトヘルペスウイルス6  モダンメディア 56巻12号2010[話題の感染症] 305-310 

薬疹の診断と治療 アップデート 重症薬疹を中心に 塩原哲夫 編 医薬ジャーナル社 2016
渡辺秀晃 14.薬剤性過敏症症候群の臨床 pp125-134
塩原哲夫 15. 薬剤性過敏症症候群の発症機序 pp135-143

医薬品副作用被害救済制度

医薬品は当然医療上必要で、健康保持、病気の治療に役立っています。それは紛れもない事実ですが、残念なことに万全の注意を払って使用したとしても一定の確率で副作用が生じることは避けられません。皮膚以外にも内臓臓器を始め各科に関連の副作用が見られます。(厚生労働省 重篤副作用疾患別対応マニュアル一覧 参照)
皮膚科においても、頻度はごく稀ながらSJS/TEN型薬疹を始めとして、重症の薬疹が時に発生します。勿論皮膚科医が処方した薬剤でも発症していますが、頻度的には他科で発症した薬剤性皮膚障害を診察することがはるかに多いです。
適正な目的のために用量・用法を守って使用したにも関わらず一定以上の健康被害を生じた場合には救済制度が適応され、給付金が支払われるようになりました。(PMDAによる医薬品副作用被害救済制度)
 ただ、救済給付の対象についてはいくつかの注意点、制限があります。
🔷対象となるのは1980年(昭和55年)5月1日以降に使用した医薬品
🔷使用方法が適正な用量・用法であること
🔷日常生活が著しく制限され、入院を余儀なくされる程度の障害または死亡例
🔷救済給付の対象外の場合もあります。
●法定予防接種によるもの
●医薬品の製造販売業者に明らかな過失がある場合
●通常の使用量を超えて使用し、副作用が発生した場合
●抗がん剤、免疫抑制剤など対象除外医薬品によるもの
●軽度な健康被害
●医薬品の不適正な使用による場合(適応外使用例については当時の医学薬学の総合的な見地から個別に判断されます。)
🔷給付の種類
医療費、医療手当、障害年金、障害児養育年金、遺族年金、遺族一時金、葬祭料などがあります。

給付方法は患者さん、または家族などが独立行政法人医薬品医療機器総合機構(略称:医薬品機構/PMDA)(下記)に請求して行うことになっています。まずは皮膚科主治医に相談するところから始まると思います。
〒100-0013 東京都千代田区霞が関3-3-2 新霞が関ビル10階 
☎ 0120-149-93
http://www.pmda.go.jp/kenkouhigai/fukusayou_dl/

🔷上記のように日本には健康被害に対する世界的にも優れた救済制度がありながら(世界的にみてこのような公的制度があるのはドイツと台湾のみだそうです。近年は北欧の一部、韓国でも死亡例に対し同様な制度が導入されているそうです。)、時にはトラブル、医療訴訟につながる例もあるそうです。
長年皮膚科専門家として医療訴訟の鑑定人を務めてこられた昭和大学名誉教授の飯島正文先生のコメントを以下に掲げます。

「訴訟事例からみて、SJS/TENにおける早期の臨床診断の難しさ、失明や死の転帰をとりうる臨床症状のあまりにも急激な悪化に対する誤解や無理解、インフォームドコンセントにおける医師ー患者間の薬品に対する理解不足・誤解からの医療不信が主な原因となっている」とのことです。

「適用外使用された医薬品による重症薬疹は(仮に患者に良かれと思って使用しても)医薬品機構の救済対象外であり、医師の責任には重いものがある。」

「SJS/TENという疾患は、いったん発症すれば急激に重症化する可能性のあることを患者・家族に十分説明して同意を得る適切なインフォームドコンセントがすべてであり、眼科医との連携も重要である。」

🔷治療については、様々な臨床研究がなされ、治療成績が向上しているものの、先に述べたようにある程度の致死率のある重篤な疾患であることは否定できません。いずれにしても、重症化の兆候があれば、できるだけ早期に専門医療機関に入院して集中的な治療を開始することが重要と思われます。

参考文献

皮膚科臨床アセット 2 薬疹診療ラインのフロントライン
総編集◎古江増隆 専門編集◎相原道子 東京 中山書店 2011
落合豊子 12 医薬品副作用被害救済制度の利用法 pp 51-53
飯島正文 13 薬疹の医療訴訟では何が問題点とされるか pp54-58

薬疹の診断と治療アップデート 重症薬疹を中心に 塩原哲夫 編 医薬ジャーナル社 2016
飯島正文 22. 重症薬疹に対する医薬品副作用 被害救済制度の概要と現況 pp197-207