カテゴリー別アーカイブ: つれづれなるままに

飛鳥

年末に奈良に行ってきました。今回の目的地は飛鳥です。2人乗りミニ電気自動車のミチモに乗って史跡を巡ってきました。
高松塚古墳キトラ古墳などの壁画をみたり、石舞台や飛鳥寺、聖徳太子誕生の地といわれる橘寺などを回りました。明日香村は「日本の心の故郷」といわれ、日本で唯一全域が古都保存対象地域だということを後で知りました。どうりで回っていても高層ビルやネオンなどの近代建造物は見当たりませんでした。古墳の近くを歩いていると雑木林の中にこんもりとした小山があったり、畑や田んぼがあって、当日が今にも雪でも降り出しそうな肌寒い日で、観光客がほとんどいなかったこともあり、まるで古代の景色もかくや、と思われるような感じがする処もありました。万葉人も同じ景色を見ていたのでしょうか。
蘇我馬子の墓といわれる石舞台は何十トンもの石が載せられていて、その権勢を誇っていたのが偲ばれるようでした。
その後に訪れた飛鳥寺は蘇我氏の氏寺で本邦最古建立といわれる飛鳥大仏(釈迦如来坐像)がありました。寺は何度も焼失しましたが、大仏は建立当時からその同じ場所で1400年もの間座しておられるとのこと。鼻筋はすーと高く通っており、インド、西域の仏像を彷彿とさせるようでした。
天皇の外戚として、権勢を誇った蘇我氏も乙巳の変で、入鹿が中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らによって暗殺され滅亡しました。飛鳥寺の近くの田園の一角には入鹿の首塚が寂しげに立っていました。その後大化の改新で新しい時代に移っていきましたが、天智天皇の没後、壬申の乱でその子、大友皇子は追い詰められ自死して果てました。そして天智天皇の異母兄弟(所説あり)の大海人皇子(のちの天武天皇)の世へと移っていきました。「中大兄皇子と藤原鎌足はここの蹴鞠の場で出会い、645年に大化の改新をなしとげた。この時、二人はこの飛鳥寺に陣をかまえた。672年の壬申の乱の折には広場を軍隊が埋め尽くした。」と寺の説明板にありました。びょうびょうと寒い風が吹く首塚の近くから寺を見遣るとまるで兵士たちのざわめきが現実のもののような気さえしました。ここで芭蕉をもじるのもどうかとは思いますが、「冬枯れや 兵どもが夢の跡」という感慨がありました。 幾多の皇子たちが歴史の表舞台から消え去りながらも国のかたちは整っていったのでしょう。
帰り道奈良へ向かう車窓からみる大和路は四囲をなだらかな山波に囲まれながら広く平らな地でした。まさに やまとは国のまほろば と感じました。

追記
昔、高校の国語の先生に教えてもらった大津皇子の悲話はずっと心に残っていて、いつか二上山に行ってみたいと思いつつ今回も果たせませんでした。またいつか訪れてみたいと思っています。(家人にはそこにいって何があるのといわれ、確かに今はピクニックコースで何もないかもとは思いつつ)。
過去に 「花の百名山 田中 澄江」(2012.8.13)として当ブログに書いていますので、詳しくは書きませんが、興味ある方は読んでみて下さい。
皇子の姉の大来皇女がその死を悲しんで詠んだうたをあげます。

うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む

最近ちょっとあたふた

ここ1,2か月何となくあたふたと落ち着かない日々を過ごしました。たまたま講演やら書き物が重なったせいでした。
普段からそういった活動に慣れている現役バリバリの先生方にとっては、日々当たり前の普通の活動なのでしょうが、慣れない者にとっては気の重い日々でした。
皮膚の日の講演会でサブとはいえ、「手荒れ、足荒れとそのケア」の話をし、医療情報雑誌に乾癬のインタビュー記事の依頼を受け、それをまとめ校正し、なぜか専門でもないダーモスコピーの依頼原稿をホイホイ受けてしまってから、それを纏めるのに四苦八苦してしまいました。盆、暮れ、正月が一緒にきたような忙しさ、といってはオーバーですが、気分的にはそんな感じで普段一つのことしか頭が回らない自分にとってはオーバーワークだと思いました。安請け合いはしないことだとやっと分かりました。一応皮膚の日講演も終わり、一段落といったところです。でも慣れてなくてあれもこれもしゃべろうとして予定時間をオーバーしてしまい最後はしどろもどろですっ飛ばしてしまいました。不完全燃焼感が残ってしまいました。
冗談を交えながら、ぴたっと時間通りに終わり、立て板に水を流すような講演をする先生をみると頭脳構造の違いを見せつけられるようで落ち込んでしまいます。
でも、人前で話したり、雑誌に書いたりするといかに普段の知識があやふやかを再認識することができ、自分の知識の確認になることがわかります。それだけでもよしとするか。
でもまあ、こういったことはもうないでしょう。
多少いい加減な知識でも後ろの方でボーと聞いていたほうがずっと楽です。しかも日皮会誌で専門医試験の問題をぱらぱらみていたら、その難しいこと、流石に聞いたこともない事柄はないのですが、さて正確に解答しなさい、説明しなさいといわれれば正確に覚えていないことのぼろが丸見えの思いでした。

老兵はだんだんと時代についていけなくなっているのかなー。

今年もノーベル賞

10月、またノーベル賞の月間がやってきました。最近は日本人が受賞するのも恒例になってあまり驚きもしませんが、やはり凄いことです。今年は特に本庶先生ということで、名だたる免疫学の大家とか、科学者が論評したり、記事を書いたりされています。とりわけ皮膚科に関連が強いとあって、皮膚科の免疫や癌の専門の先生方による興奮と感嘆の念の込められたコメントが伝わってきます。
皮膚科とはいえ、素人がブログにするのもおこがましい感じがしますが、メラノーマへの若干の思いがあり、一寸書いてみます。
小生がメラノーマ(悪性黒色腫)の実臨床にかかわっていたのは、もう30-40年も前の昔になります。その頃は大した治療法もなく、手術で取り切れなくて一旦転移したらもう、茫然と見守るだけしかなかったような時代でした。数々の思い出は苦いものばかりです。
駆け出しの内科医だった頃、胸部のレントゲンを撮ったら小さな丸い影が胸中まるで豆をばら撒いたように映った像があり、慌てふためいて皮膚科の主治医の処に駆け込んだことがあります。ベテランの皮膚科の先生はしごく冷静で、そんなにあわてふためくものではないとたしなめられました。よく覚えていませんが、患者さんも主治医もメラノーマの状況は十分にわかっていてばたばたしても何もいいことがないのは承知のことだったのでしょう。QOLを考えて冷静に対応されていたのだとと思います。
また皮膚科に移ってからも数々の患者さんと出会いました。大学の職員ながらメラノーマで最後は脳転移しながら結構永らく従容として仕事されていた方。また下肢のメラノーマでは鼠蹊部のリンパ節廓清をすると逆流性にin transit 転移 といって下肢中に再発する患者さんが多くありました。当時はDAV Feron療法といって抗がん剤のダカルバジンの点滴を繰り返していましたが、患者さんは吐気でトレイをかかえながらゲーゲーとしていました。またインターフェロンやピシバニールの局所注射をやったりしていましたが、大して効いた感触はありませんでした。苦しみが続いて、「先生、もういいです。楽にして下さい。」などといわれ愕然としてなすすべもなく虚しさや無力感を感じたこともありました。
一時期メラノーマ細胞を培養して樹立株を作ろうとしたり、ヌードマウスに移植したりして実験のまね事をしたりしていましたが成果はあがりませんでした。
開業してからはとんとメラノーマとは縁がなくなりましたが、時々講演を聴いてもそれ程治療の進展もないようでした。ブログに駄文をかくようになってもしばらくは以前の抗がん剤治療が続いていました。DTIC(ダカルバジン)とフェロンの時代が続いていたと思います。しばらくして分子標的薬の話を耳にするようになりました。
まとまった記事としては2016年9月26日の「メラノーマの薬物療法」として書いています。これは同年の日皮会生涯教育シンポジウムで宇原 久先生の講演「メラノーマに対する免疫チェックポイント阻害薬」の内容をまとめたものです。読み返してみて内容をほとんど忘れていました。そのあとの大塚篤司先生の解説の内容もほぼ忘れていました。
他人の受け売りはほとんど身につかないのですね。
ともあれ、2011年米国FDAで免疫チェックポイント阻害薬 ipilimumab(ヤーボイ、抗CTLA-4抗体)と分子標的薬vemurafenibがメラノーマの新規治療薬として承認され、メラノーマ治療の新時代を迎えました。(J. Allison教授は1995年CTLA-4を発見、抗体の開発に取り組み、これが腫瘍の排除につながることを証明しノーベル賞に繋がりました。)
2014年には今回のノーベル賞のもとになった抗PD-1抗体nibolumab(オプジーボ)が世界に先駆けて日本でメラノーマ新規治療薬として承認され、メラノーマ治療のブレイクスルーになったことは有名です。(それまでは欧米から周回遅れといわれていた日本のメラノーマ治療がやっと先頭集団に近づいたといわれます。)ほどなくして肺癌などにも認可されましたが、その高額なこと、一部の患者にしか効かないこと、副作用などクリアーすべき課題も多いようです。
PD-1が本庶研究室で発見されたのが1992年とのことなので、オプジーボの開発、臨床化には長い時間がかかっていて、製薬メーカー探しの苦労話なども聞きます。さらにもっとそれ以前からの地道なぶれない基礎免疫学の研究があったといいます。
この薬剤によって、かつてなすすべもなかった悪性黒色腫の一部でも寛解する患者がでてきたことは凄いことです。
ただただ最近の医学の発展の速さは驚くものがあります。若い医師は普通にヤーボイ、オプジーボを使いこなしている(らしい)ですが、時代おくれのロートル医には耳学問の世界の薬です。今年のEADVでもヤーボイとオプジーボの併用によってさらにメラノーマの延命率が向上するデータが示されていました(副作用も格段に上がる)。しかし小生がこれらの薬に実際にお目にかかるのは医師としてでではなく、多分患者としてでしょう。
日本人の科学力のレベルの高さに喝采です。でも、ノーベル賞クラスの先生方はこぞって日本の科学力の低下を危惧されています。アジアでも中国やその他の国の後塵を拝するような予想をされています。経済力の低下はすなわち国力の低下、科学立国の位置の低下につながるのでしょうか。でも戦後の復興期の湯川秀樹の頃は金も設備も何もなかったといいます。経済力だけではないのかも。若い科学者達、金はなくても日本人の潜在力を信じて頑張ってとエールを送りたいと思います。

パリ遠近  サンルイ病院ムラージュ博物館

今年のEADV(ヨーロッパ皮膚科学会)はパリで開催されました。学会を一寸覗いて、あとは観光しました。
ぶらぶら歩きの一端を。
学会場はシャンゼリゼ通り、凱旋門からも近くの、2つ目のメトロ駅Porte Maillotのすぐ前にありました。Palais des Congres de Parisという大きな国際会議場でした。
賑やかな会議場を一歩外に出て、大通りを渡るとそこはもうブローニュの森の入口です。歩みを進めると、フランスの小学生の課外学習かと思われる一団やランニングをしている人達がいました。さらに歩みを進めて森の中に分け入るとそこは細いトレールだけでもう人ひとりいません。静かで森の息吹を感じながら歩け、大都会のすぐ近くにこんなところがあるのかと、山歩きの好きな小生には感激でした。しかし、たまに人や自転車が現れると一寸緊張します。あまり奥深いトレールは独り歩きには一寸不向きかもしれません。特に夜間は結構怖いところでもあるそうで。
もっと進むと広い道にでました。のびやかな道は湖沿いに南下してロンシャン競馬場やローラン・ギャロスのテニス場に続いています。森の中にはいくつもの綺麗な庭園があるそうですがスルーしました。途中の河沿いの道は広々と開けて、木立もあり、ジョッギングや散策の人もみられ素敵なところでした。競馬場まで2時間近く歩くと、さすがに疲れてきて帰りはメトロの処まで歩くのも面倒になりタクシーに乗りました。
今度の学会ではMartine Bagot教授によるサン・ルイ病院皮膚科見学のガイドツアーが組まれていて、病院の説明と共にムラージュ博物館でカクテルサービスもついているというものでした。興味があったので申し込んだのですが、定員に達し残念ながら選外でした、とのメールが入りました。はるばる日本からきて見学できないのも癪なので、何とか見学したいとメールしたら、数日後に予約がとれました。それで指定の日に行ってきました。
サン・ルイ病院のことは先代の岡本千葉大教授を始め、いろいろな先生方から聞き及んではいましたが、先年岡山大学皮膚科岩月啓氏教授らが纏められた「原著に学ぶフランス皮膚科学の古典」という書をみてからは是非機会があれば訪れたいと思っていた場所でした。先代の岡山大学名誉教授荒田次郎先生もサン・ルイ病院に留学されており、同大学との関係は深いものがあるそうです。
当日、午前10時に所定の場所に来るように、とのことでした。ムラージュ博物館はサン・ルイ病院の角の一隅にありひっそりとしていました。入口もよく解らず、近くの人に尋ね裏口から建物に入りましたが、女性職員が表の入口まで案内してくれました。ベルを押すと中年男性の係官が親切に案内して下さいましたが、英語は不案内のようでした。それでも2階に上がり、ムラージュ室を案内してくれて自由に見てよいが写真はダメとのことでした。人ひとりいない部屋で数時間じっくり見学でき、解説もウエルカムカクテルもありませんでしたがかえって自分だけの至福の時を過ごせました。
ムラージュとは皮膚疾患の蝋細工で、カラー彩色された疾患群は生々しくまるで眼前に生きた人がいるかのような臨場感があります。そしてフランスの至宝ともいうべき名医たちが名づけた疾患を含めて数々の皮膚疾患のムラージュがアルファベット順に壁一面に展示してありました。展示は講堂の1階、2階にわたっており、2階部分は回廊のようになっていました。トータル162の硝子ケースに入ったムラージュの数々の中には、今日あまりお目にかからない胎児梅毒や3期梅毒、軟性下疳、ハンセン病、皮膚結核などの疾患が豊富にありました。岩月教授はそれら古典の中から15疾患、12著者を選定し、その原典をサン・ルイ病院の図書館で閲覧・コピーして翻訳出版されました。翻訳に当たっては岡山大学からCivatte教授の許に留学され、さらにソルボンヌ大学にも在籍された大熊 登先生が担当されたそうです。
皮膚科医ならば誰もが学ぶ冠名疾患の数々。
Devergie, Gibert, Bazin, Fournier, Darier, Brocq, Vidal, Besnier, Hallopeau, Sezary, Degos などの名前が挙げられ、ムラージュと共にその疾患の記載があります。100年以上も前、電子顕微鏡もなく、免疫学、細菌学、組織学なども発展していない時期にそれでも疾患の病因に迫ろうとする熱気、皮膚症候の記載の精密さには驚かされます。
日本の皮膚科学は土肥慶蔵を創始者としてドイツ学派の影響の基に発展してきたのは事実で、フランス皮膚科学は云わば傍流の感もありますがこうしてみるとその黎明期には大きな力をもっていたことが分かります。
事実、このムラージュに関してはサン・ルイがその創始であり、ドイツ、オーストリア学派もサン・ルイのムラージュを参考にして、また技術を学んで作っていったそうです。
数時間歩きっぱなし、数多くのムラージュに圧倒されて、さすがにぐったりと疲れがでました。もっといたかったけれど係官にも迷惑だろうし、午後はメキシコからの見学者もあったようなので、お礼をいっておいとましました。
旧病院の中庭はまるで公園か庭園のようで、皆さんも芝生に寝転がってランチなどしていました。小生もしばしベンチで疲れをとりました。旧病院から道路を挟んで、これと対照的な新病院がありました。皮膚科の外来、入院もあり、Prof. M. Bagotの案内板の表示もありましたが、アポイントなしでしかもどこの誰とも分からない者がいきなり訪問するのも失礼なことと思い入口ホールを見ただけで失礼しました。最新の病院とともに古い歴史建造物も同居させた懐の深さを感じさせる病院でした。

  夜の凱旋門

 一寸横に逸れるとこういった細道もあった。一人で分け入るのは一寸恐そう。

 湖沿いの開けた散策コース

 散策している人、ベンチでくつろいでいる人も。

 はるばるとロンシャン競馬場まで歩いてきた。流石に疲れた。

 競馬場の入口。

 岡山大学岩月教授らが纏められた。サン・ルイ病院医学図書館蔵書からフランス人皮膚科医の名を冠した代表的な疾患の原典翻訳とムラージュの紹介本。今回見学のきっかけとなった本。

 サン・ルイ病院の古い建物の入り口の一つ。

 iPadを片手に博物館をめざした。

 ムラージュ博物館の入口。意外とこじんまりとしていて見落としそう。でも写真を見くらべたら、1889年、第1回国際皮膚科学会の記念写真はこの場所にずらっと出席者が並んで写っていた。

 サン・ルイ病院の名前の由来であるフランス国王ルイ9世

(在位 1226-1270)。入口すぐのコーナーにある。

 別のコーナーには真菌で有名なサブロー博士。かつて太田正雄もパリで師事した真菌の大家である。

 旧病院の中庭。三々五々ランチタイムの休憩。

 道路を挟んで対照的に近代的な新病院。

 新病院の入口ホール。

ブログトラブルのお詫び

ここ数日来ブログがダウンしてしまいご迷惑をおかけしました。Wordpressの更新ボタンをクリックしたのがきっかけでした。以前も同様のことがありました。                                                                         

こうなってしまうと自分ではどうにもなりません。ブログの立ち上げからお世話になっているI氏にお願いして復旧してもらいました。幸いな事に元通りに回復しましたので一安心、またボチボチ記事をアップして参りますのでよろしくお願いします。

 

太田正雄のエピソード ( 2 )

🔷東北帝大時代
仙台での10余年間の生活は、彼にとって医師としても文化人としても落ち着いた充実した年月だったように思われる。「仙台にゐた時は閑が多く、しばしば庭の草木を写生した。」しかし一方で還暦祝賀会での回想では「次に仙台へ行ったが、ここでは競争が激しく相当勉強した。仙台を去る時、学生になぜ東京に行くのかとやられた。勉強の便があるからと言ったが、残念ながら何もしなかった。・・・」と述べている。謙遜であろうが、無論そんなことはなく、多大な業績を残したことはすでに述べた。 東北には阿部次郎、小宮豊隆、児島喜久雄などの文化人がおり、またドイツの建築家のブルーノ・タウトとの交流もあった。
 満州時代から遠ざかっていたハンセン病の診療、研究も再開している。皮膚科学教本は出版していないが、学生への講義を学生らがまとめたものを、大幅に朱書きして校閲を繰り返し講義録としたガリ版刷り、Dermatologie 333頁が残っているという。太田は「余りにも原稿に誤りが有るので、自分で書いた方がはるかに楽だった。」と述べたという。
また昭和12年(1937年)東大転任の年には、動物寄生性皮膚疾患を出版している。東大泌尿器科の高橋明教授は木下杢太郎追悼号に真菌、ハンセン病などの業績を紹介したなかに「又著書<動物寄生性皮膚疾患>は之亦博士が非常に努力して書かれたもので、小は原生動物のスピロヘエタから大は節足動物の昆蟲類に至る多種多様の動物にして、苟も直接間接に人間に於て皮膚症状を惹起する寄生動物に関しては、細大漏らさず系統的に記述した又と得難き良書である。斯る大著述は全く太田博士にして始めて為し得たものと信ずる。」と最大の賛辞を送った。杢太郎日記には朝から夜半までこの本の虫の文献渉猟に費やしている様子や金原出版からの出版の催促にも「千本の手が有はしまいし。さういふわけには行かぬ。」とその歴史、語源をギリシャ、ラテン語まで遡るなど徹底している。368頁のうち文献記載だけで77頁を割いている。熊本大学にもその一冊があるという。それを読んだ小野友道先生は「これだけの歴史を書くのにどれだけの文献を渉猟したのか、引用文献のリストを見るだけで筆者は怖気づくのである。」「ともかく現在でも動物寄生性皮膚疾患の論文を書く際には、まず読んでおかなければならない名著であることを若い皮膚科医の諸君にお伝えしたい。」と述べている。また東大で花開いた太田母斑の研究もその萌芽はすでに仙台時代にあった。
🔷東京帝大時代
充実した仙台での生活を打ち切って、昭和12年東京帝大の教授に就任した。学生達の面倒見もよく、森鷗外の会なども開催し、彼らから強く転任を慰留された。学問、研究の発展のための決意だったが、東京での生活の始まりは意外とも思われるほど苦渋、後悔の言に満ちている。赴任4ヶ月後の日記には次のように、東京に来た事を後悔する言葉に満ちている。
・経済的に苦しい。単身赴任で、仙台に家族を残して来たが、報酬は2軒の家を支えるには足りない。嫌な紹介患者を診なければならないが、その礼は僅かである。しかも退職発起人などの出費は次々に来る。
・教室が彼にとっては過渡期で、自分の外で回っている。自分は唯皮膚の外来と入院と講義とに関わっているだけだ。
・医局はこの1か月以来動揺して、新しい部署に出ていく。お互いに関連のない博士論文の仕事をするだけで、特に自身の癩の研究は中止状態だ。
・東京の教室は思ったほど、富裕ではない。年12万円の収入も大部分は本部に取られ、残りは教室運営と医局員の研究費に費やされ、本を買うことも、画工を雇うことも、ライカ写真機を買うこともできず、仕事は自費でやらねばならない。
・少しの余裕を文芸のことに向けることは東京では却って難しい。
・殊に困ることは仙台のように一教室が自分の主宰ではないことである。(皮膚科泌尿器科教室であり、教授は2人いた。大正時代までは土肥慶蔵が1人主任教授で両学を全て仕切っていた。戦後分裂する前の過渡期であった。)
・個人生活が楽しくない。
・泌尿器科から全く離れたこと、仙台時代と違って他科の人々とは全く別世界の人となったこと。
それでも、次第に東京生活にも落ち着きを取り戻していく。しかし時代は戦争への足音が迫ってきていた。言論活動にも、教室の仕事にもその影響はでてきている。物資は不足し、教室員は戦場へと駆り出されていった。その中でも4題の宿題報告をなし、着実に業績を重ねていった。

 太田正雄の活動として、ハンセン病は特に力をいれた分野であった。満州、フランス留学時代一旦その研究から遠ざかったが、また仙台で復活する。特筆すべきは1930年マニラでの第1回国際癩会議に出席したことであろう。この会議では国際連盟の委員である長與又郎が招待されたが、病気のために太田が替わって国を代表して出席した。この国際会議とそれに続くフィリッピンのクリオンのハンセン病施設見学で、太田の考えが癩の絶対隔離ではなく、「隔離と外来治療」という確信に至った。しかし、日本での国の政策は明らかに「絶対隔離」へと向かっていった。東京帝大教授となってからは、さらにハンセン病の研究に情熱を注ぎ、伝染病研究所に通い、癩菌の培養に取り組み、また外来治療もなされた。日本で本格的にハンセン病に取り組んだ人は光田健輔であった。後に癩予防法廃止運動に取り組んだ元厚生官僚の大谷藤郎は「日本のらい事業の良くも悪くもその殆どが光田健輔氏の主張と行動に負うており、まことに巨人というにふさわしい生涯であった。だが今日になってみると、数十年にわたる患者悲劇の結果に対して、今その功罪が問われている」と述べた。これに対し太田は国策としての絶対隔離に表立って異は唱えられる立場ではなかったものの一貫して批判的であった。癩は細菌感染症であるから、合理的な治療法は化学的療法です、と言い切っている。そのために癩菌の動物接種培養に努力しているとしている。戦時下においても空襲の間隙をぬうようにして伝研通いを続けて、癩菌の培養に取り組み続けた。残念ながらそれは失敗に終わった。それも道理で、2001年に癩菌の全遺伝子が解読され、偽遺伝子が多く機能している遺伝子が少ないことなどから、菌は生体のマクロファージなどやヌードマウスの足蹠など特殊な環境でのみしか増殖できないことが解明されたそうである(小野友道 (26) )。ただ太田の考えの方向性は正しく、戦後間もなくしてプロミンによる治療効果が明らかになった。その報告を待たずに太田は昭和20年10月15日にあの世へと旅立っていった。

太田が東京帝大へと赴任したのは、皮肉にも日華事変が生じたまさにその年であった。徐々に経済が困窮し、物資は不足し、言論の統制は厳しくなり、学徒は戦場へと駆り出されていった。その中でもあれだけの業績を上げ、ガリ版刷りながら皮膚科の教科書を残している。彼はその時代をどのように生き、戦争をどのように感じていたのだろうか。日々の日記から見て取ることができる。大戦直後の医局でのねぎらい会では「私は今まで陸軍海軍の奴らめ勝手なまねばっかりしてやがると陰口をきいてきたが、(12月)8日からは言わなくなった。こんな未曾有の世に生まれてきたことを有難いと思っている。(中略)今回の開戦でわれわれはいよいよ東亜共栄圏の指導者になるようになった。・・・」などと一見戦いを容認するような発言もしている。まあ、まがりなりに政府の役人の立場の彼が否定的な言動はできなかったであろう。陸軍軍医学校に講義に出かけ、陸軍のペニシリン研究会に参加するなど軍部に協力する立場であった。しかし、次第に日記の中には戦争、軍への批判的な記事が多くなる。大本営発表、空襲警報の記載はあるが、(どこそこが爆撃されたなどの記載は禁忌だったらしい)教授生活、伝研での研究はほぼ通常通り続けたらしい。しかし、ミッドウェー、ガダルカナルの敗退、18年6月5日山本元帥葬送遥拝などを経て、さらに軍に対する批判記事が多くなっていく。一般人が見たら非国民扱いか、特高に検挙されるやもとも思われる内容もある。「帝都をかくも惨憺たる目に會はせるなど、軍部の見込みは疎く大戦の準備はヘマであったことは誰しも考へる所である」「軍部は力に於て支配せり。その力が弱くなれば、又弱いと知られるれば既に他の窺う所となり、陽にではなくても陰に批評を受けるやうになる」「力以外にはその叡智、道義、科学、技術に於て他部に優つてしといふことがゐる所がなかったことが暴露する」「命は鴻毛より輕しといふことが揚言せられる。そして人の子を犬の子、いなごの如く殺した。命をあまり輕く見ることが、防ぐのみならず攻める武器の發達をも阻害した」などと綴った。そして空襲のさなかでも学生への講義を続けた。防空壕の中で学生に向かって「君たちは勉強しているか。」「こういう時局だからこそ、勉強しなくちゃいけない。朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。いま、まさに否応なしにその状況に置かれているんだ。」「君たちは知識と知恵を区別しなくてはならない。知識は、人間が知的活動を続ければ続けるほど無限に増えてゆく。でもいくら知識を積み重ねても、それでは知識の化け物になるだけだ。それではいかん。人間のためになるようにするにはどうすればいいか。知恵が必要だ。では知恵を学ぶにはどうすればいいか。古典に親しむことだ。古典には人類の知恵が詰まっている。」そう言うと杢太郎は立ち上がり、風のようにさあつと去っていった、とある。この時期に医学生として太田の講義を聴いた加藤周一は後に「1945年8月15日、降服の放送を聞くと、多くの人々は泣いたが、死病の床にあった太田正雄は、手を拍つてよろこんだといわれる。彼は戦争が何を意味するのかを知っていた。私には、知るべきことで、彼の知らなかったことは一つもないように思われる」と述べている。
 敗戦後の廃墟のなかで、10月15日太田は61年の波乱に満ちた生涯を閉じた。胃癌であった。多くの弟子達に見守られながらの最期であった、と「とのゐ袋」に記載があるという。しかし敗戦後の窮状では霊前には手向ける献花さえもなかったという。
泉下の太田正雄は今日日本国内だけではなく、国際的にも皮膚科医として、はたまた文化人として高く評価されているのを知っているのであろうか。その足跡は現在も色褪せていない。

 太田正雄はかつて森鷗外のことを「森鷗外は謂はばテエベス百門の大都である。東門を入つても西門を究め難く、百家おのおの一兩門を視て他の九十八九を遺し去るのである。」と記したが、岡本隆はこの文は「実はそのまま木下杢太郎の案内書にも書かなくてはならない」「故上田三四二も生前、<鷗外はおろか、木下杢太郎だってわれわれの(研究、論評の)手に余る存在だ>と嘆いた」という。
彼を生涯の師表と仰ぐ野田宇太郎は太田正雄の亡くなる数年前から編集者の立場ながら太田に密着している。そしてその没後は資料を渉猟して「木下杢太郞全集」の完成に力を注いだ。今日木下杢太郞の足跡が忘れ去られる事なく、世の中に繋がってきているのは、野田の寄与によるところが大とのことである。

上野賢一先生、小野友道先生の随想の中から医学に関した部分の評伝を抜き書きしましたが、文化人としての木下杢太郎の部分は敢えて省いてきました。次回はその部分について抜き出してみます。

太田正雄のエピソード(1)

主に皮膚科医としての太田正雄のエピソードを経年的にみてみました。
🔷幼少時
明治18年(1885)静岡県伊東市で生まれる。後年姉たけ子は大阪毎日新聞に「今日では兎も角博士になりましたが、小学校の頃はもう学校が嫌ひで嫌ひでどうにも学校に行って駄々を捏ねるもんですから私などよくあれをおんぶして連れていったものでした。それでも「学校に行っても目を瞑ってゐるよ」と申し、そりゃどんなことをしていやうと勝手だと申しますとほんとに目をつぶってたきりで永いこと皆を弱らせたものでしたの」と述懐している。それでも成績は優秀で高等小学校では首席で級長も務めた。
幼少時は兄姉などの影響で多くの本に親しんだ。
🔷高等学校以前
太田家は彼を医者にする目論見であったが、本人は文学や美術が好きで画家になりたかったが、自分より絵のうまい親友の山崎春雄が画家にならず、医学を志したこと、姉きんの画家への強い反対もあり第一高等学校第三類、すなわち医学コースに進んだ。
🔷高等学校
一高時代はドイツ語の岩元偵先生のゲーテの「イタリア紀行」の講義に感銘し、在学中に「明星」「パンの会」などで活躍し、ニーチェ、トルストイ、ゲーテ、ツルゲーネフなどを読み文学部志望との間に揺れる時代であった。
「・・・われは今医業の潮流にあるものなり、されどわれに何となくいやなる気持ちす。而して之に対して、対象を文学にとらむとせり、これはわれに、人のとるべき道なりといへるが如き気持ちす。・・・」
さらに「・・・われの嘗つて-昨年三月頃に於て-迷へりしはわれの医業たらむか画工たらむかの疑なりき、その時決せざりし医の業は、われの嫌ふ所、われの恐るる所、わが主張に反する所なり、画工たるはわれの好む所、其職業はわれの崇ぶ所なり、・・・}とも述べている。
また別の所では自分は国家力の競争、人種間の闘争に価値は見いだせず、軍人、役人には決してならないだろうこと、また医師は数人の病を医するのみで、数人の全癒は我一生の目的かと自問し、自分の進むべき道は文学とまで述懐する、その一方で画業への未練も綴っている。才能に溢れた若き日の太田正雄のある種青臭い青春の悩みのようであるが、これは若き日だけの悩みではなく彼の人生を通した基調となっていくものである。
後年、彼が40歳の時、「一高時代の回顧」という随筆にその思いが凝集されている。
「・・・その三年の生活をいまなほ感謝してゐる。わたくしの自然及び人生に對する眼を當時の恩師及び先輩が直接間接に開いてくれたからである。中に就てわたくしは岩元教授から受けた多大の薫陶を銘意する。多勢の學生の不平にも拘らず、一箇年間にゲエテが伊太利亜旅行三分の二弱を読に了しめた事は實に先生であった。わたくしも分相應にゲエテの気像を感知することが出来た。現にわたくしが人生に處して、心常に平なるを得るは先生から植ゑつけられた多少の読書癖に由るのである。」
🔷東大医学部皮膚科入局の頃
大学生の数年間を、パンの会において、Strum und Drang時代を過ごした杢太郎であったが、卒業後の進路については迷っていた。私淑する森鴎外に相談したところ生理学を勧められた。しかししっくり来ず精神病学はどうかと再び相談するも余り共感を示されなかった。そのうち「土肥君などは教授のうちの最も教授らしい教授だ」といわれ、それも影響して土肥慶蔵主催の皮膚科黴毒科教室に入局することになったようだ。後年東北大学時代に当時のことを振り返り「土肥先生は笑いながら、その男は卒業のときあとから算へる方が早かった。何が出来るかときくと畫がかけるというので醫局に入れた。その後は予期に反したと云ったといふ。・・・」一方で「U氏(衛生学教室で細菌学実習で杢太郎を指導)が杢太郎を知っているかと尋ねたところ、”例年入局は漫然と卒業席次に依って決め、特殊な才能を問題にすることはない。太田君は文芸に限らず多彩な才能を持ち、稀にみる天才的人材である”と答えた」とある。
当初は文芸にふけり、試験日も忘れて再試験を鴎外先生に懇願するも果たせず留年するなどあまり好ましくない学生とみられていた節もあるが、すぐにその実力に評価を替えたというところであろうか。
入局後は、午前は外来に、午後はサブロー真菌培養器と顕微鏡を机上において、真菌を鏡検して写生するという日課であった。その顕微鏡像は限りなく美しく見え、この時間が最も楽しかった、と述べている。
🔷満州から欧州留学へ
南満医学堂教授への赴任は土肥教授の提案であったが、東京での誘惑と雑音の多い生活から離れて静かな自省の世界への願望もあったようである。「所詮わたくしは本来在るべき所に帰着したのである。」と。5年の満州生活を辞し、朝鮮、中国を旅し、10月帰国、翌年5月には欧州留学へ旅立った。アメリカ、キューバ、ロンドンを経てパリに落ち着いた。彼は獨協出であり、欧州の概念の8割方がドイツであったので当初はフランス語に苦労したらしい。暁星やアテネ・フランセの仏語やサブロー博士の著書などでは太刀打ちできなかったらしい。それでもサブロー博士の指導を受け、徐々に慣れていった。サブロー博士にやや反発しながらも真菌の分類に新境地を開き、のちにフランス国からレジオン・ド・ヌール賞を受賞したことはすでに前編で述べた。
🔷県立愛知医科大学時代
正雄は帰国後は、伝研で癩、真菌、皮膚科の研究をやりたかったようだが、土肥慶蔵の鶴の一声や愛知の山崎学長の懇請によって、愛知医科大学に就任した。上司の土肥慶蔵との書簡のやり取りをみると、慇懃な手紙ながら正雄があまり土肥に相談、連絡を密に取らなかったことへの不興の様子が見て取れる。妻をはじめ、親戚などは定職を斡旋してくれた土肥に感謝し、御任せなさい、という態度であったが、正雄自身は自分の将来への思惑とはややずれを感じながらの赴任であったようだ。そして名古屋での2年は「申し分なき厄年相味わひ候」ということになる。借家は大学から遠く、床もがたがたであった。赴任後2年目には虫垂炎となり、長期入院あげくに開腹手術、その間、兄圓三(永代橋を設計するなど優秀な建築家であった)は復興院での疑獄事件に巻き込まれ、無実ながら心労のため自死してしまった。しかし厄年の暗闇にも蕉門の俳諧に目覚め、同好の士と連句会を催したりしている。半年にも亘る療養生活にも別れを告げて10月からは東北帝大の教授として旅立って行くのであった。
その送別会での発句には「よき酒のされども秋の別れ哉」とある。太田を師と仰ぐ医師の谷本光典は後に先の句を評して「うまい発句である。杢太郎にとって厄年の闇黒に、一抹の明りがさしたのは俳諧の窓だけであった、じんと心にしみる句である」と評した。

下記の随想よりの抜き書きですが、具体的な号数は省略します。

随想 「杢太郎」落ち穂拾い 上野 賢一 皮膚科の臨床 51(1)2009~55(4)2013

随想 太田正雄/木下杢太郎 世界的で、人道的で 小野 友道 皮膚科の臨床 55(5)2013~59(3)2017

今年もクリスマス

 早いもので、今年もあっという間に年末になってしまいました。
昨日はクリスマス、テレビでクリスマスソングの特集をやっていました。出てくる音楽のほとんどが分からず、時代遅れのロートルになってしまったことを実感させられました。しかし、若い人たちが楽しそうにクリスマスソングを歌い、楽しんでいるのはいいものです。
 自分的には、山下達郎のクリスマス・イブが一番しっくりきますが、これはもう定番で誰もが知っている、毎年流れていてこの季節だなと思わせる曲だからかもしれません。
 やはり、懐かしいのはビング・クロスビーのWhite Christmasでしょうか。あの甘い歌声とともに、クリスマスツリーをイメージできて、やはりクリスマスソングのkingと納得します。でも、これは第二次世界大戦の米軍兵士の間で流行した歌だそうです。若い兵士達は平和な故郷のクリスマスを思い起こし、帰郷を願ったのでしょう。
平和や清らかな願いのはずのクリスマスですが、昨今のエルサレムの政情などをみると、何か皮肉な感じがします。
つい、ジョン・レノンのイマジンを思いだしてしまいます。
Imagine there’s no coutries
It isn’t hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people living life in peace

You, you may say
I’m a dreamer,but I’m not the only one
I hope some day you’ll join us
And the world will be as one

今年も残りわずかとなりました。皆さまよい新年をお迎え下さい。
来年から少し、皮膚科の記事も再開するつもりです。

太田正雄のこと

 太田正雄/木下杢太郎の評伝は上野賢一先生(筑波大学名誉教授)による『「杢太郎」落ち穂拾い』が「皮膚科の臨床」誌への連載として2009年に始まり、上野先生のご逝去された後を継いで、2013年5月号からは小野友道先生(熊本保健科学大学長)が『太田正雄/木下杢太郎 世界的で、人道的で』というタイトルで2017年3月号まで連載されました。
 ここで、今更太田正雄について何かを書くことは、両先生に対して失礼なことかとは思いますが、まとめたことを書いてみたいと思います。その理由はこの皮膚科の巨星のことを、詳細に、格調高く紹介していただいた先達に敬意を表するためと、もしまだ太田正雄のことをよく知らない、特に若い皮膚科の先生に知って頂き、その評伝を読んでいただきたいという思いからです。
 まとめを読んで、お二人の評伝を読む気になれば望外の幸せですし、その気を起こさなければ、小生の纏める力、文章力の乏しさによるもので、恥じ入るばかりです。
 膨大なその足跡と資料を、簡潔にまとめる能力などありませんが、皮膚科医としての太田正雄と、文人としての木下杢太郎に分けて概略を書いてみたいと思います。まずは皮膚科医としての太田正雄について。

明治18年(1885年) 静岡県伊東市で太物雑貨商「米惣」の四男三女の末っ子として生まれる。
14歳 東京の独逸協会中学に入学。
明治36年(1903年) 第一高等学校第三類(医学コース)へ進学。
明治39年(1906年) 東京帝国大学医学部入学。
明治45年(1912年) 東京帝国大学皮膚科泌尿器科入局、入局前7か月間衛生学教室で細菌の研究
大正5年(1916年)  南満医学堂教授
大正10年(1921年) フランス留学
大正13年(1924年) 県立愛知医科大学(現名古屋大学医学部)皮膚科教授
大正15年(1926年) 東北帝大教授
昭和12年(1937年) 東京帝大教授、傳染病研究所所員を兼任
昭和20年10月15日(1945年)死去

木下杢太郎の追想文は数多くある中で、医学的業績も含めて全人的な全貌は彼の直接の後任者である北村包彦(1889~1989)1946~1959 東大教授による追悼、回想文に「杢太郎の姿を具象的に、鮮明に、魔法のごとく浮かびだして」いる。(上野(39))
それを基にして上野、小野先生の評伝から業績、足跡をたどると。
🔷真菌症
東大皮膚科入局後は、顕微鏡に向かって真菌の観察、描写に余念がなかったそうである。またサブロウの真菌学の教本を学び、仏語にも親しんでいったようである。フランス留学時は碩学のサブロウに師事した。当時のサブロウは大先生で東洋からきた無名の青年医師を軽く見ていたふしがある。汗疱状白癬の発見をサブロウに送付した際、その存在を全く評価していない手厳しい内容の返信を受け取っている。また留学時にはサブロウなどてんで小生を信じぬから(実験を)中止した、などと愚痴を述べている。しかしその後植物学的形態より真菌新分類方式(Ota et Langeronの分類)を提唱し、後にフランス国よりレジオン・ド・ヌール賞を受賞している。(これについてはサブロウから多少の不満をウケた事があると述懐している。)ただ、サブロウの死に際しては太田はその業績を讃え、教養深く古典、音楽、彫刻にも秀でていたと追悼の文を雑誌に献じた。
 山口英世は近年の分子生物学的手法を用いた真菌の分類がおよそ百年前の太田の分類と驚くほど一致していることを指摘し、太田の精緻な形態に対する能力の素晴らしさに驚嘆している。むしろ菌の毛髪に対する態度を基礎にしたサブロウの系統分類よりも科学的なのかもしれない。また山口は数十年の空白を経て、太田の分離発見した真菌株(M. ferrugineum)がヨーロッパで保存されているのが見つかり太田先生の論文通りの見事な鉄さび色をしたコロニーが生えてきたときの興奮を述べている。太田の弟子で戦後の医真菌学を継いだ福代良一は(太田の真菌での業績で)「特筆しなければならないことは第一に、東アジア地区の頭の白癬(シラクモ)の主要な原因菌であるM. ferrugineumが新種として発見・命名されたことである」と述べている。(小野 (41))
真菌の研究は(珍しく)長きにわたり真菌に関する論文は39編(日16、独5、仏16、英2)と多彩である。
「先生が帰朝されたときには適当な席がなく、いっそ皮膚科学を捨てて伝研か北里研で真菌学の勉強をしようかと考えた。・・・昭和12年5月再び遠山の後任として東大に転じた。この間真菌学の第一人者として菌種コレクション、新菌種の決定、その顕微鏡的所見、培養の肉眼的所見の研究、日本ミコロギー協会の設立など、我が国の医真菌学の基礎を確立したものの、戦後に医真菌学が大いに興ったのを見ないで、又国情の大きく変わった姿を見ないで歿くなったことは惜しまれる。」(北村)
🔷母斑症
太田母斑、これはもう太田正雄を世界的な大皮膚科医として、世界中の教本に取り上げる所以となった真骨頂ともいえる研究業績である。東大に着任後すぐにその存在に注目したようで(その萌芽はすでに仙台時代からある)すでに前年にその端緒となる報告をしているが、「我國に甚だ多き母斑の一典型たる「眼・上顎部褐青色母斑」並にそれと眼球色素沈着症との關係に就いて」を昭和14年(1939年)に発表している。
「ここに記す一種の母斑は、従来は大體色素性母斑と診断せられ、専門家の特別の注意をば惹かなかったやうであるが、それは色素性母斑とは其性質を異にし、寧ろ青色母斑の一特殊型と見做すべきものである。・・・此母斑は皮膚に於ては眼神経と上顎神経との支配域のみに發現し多くの場合(我々の観察例二十六中十七、即ち六十五%)には眼球メラノオジスと倶に存するのである」と、その観察は鋭く、すでに今日の太田母斑の概念をほぼ記載している。両側性症例の存在もあげている。女性に多いことにも触れている。(小野(44))
また谷野の論文を指導した際に「君、クロアスマとの關係もしらべなくては、いけないね」と話したという。これは今日の真皮メラノサイトーシス、肝斑など鑑別を要する顔面の色素斑の諸型もすでに太田の頭の中に浮かんでいた可能性もあるのではないか。・・・さらに最初の論文で病理組織像がカラーの顕微鏡図として残されており、そこには真皮のメラノサイトばかりではなく、それを被覆している表皮部分のメラノサイトの数も周辺より多く描かれていて・・・太田正雄の観察力の緻密さ、あるいはパターン認識の力量は他を寄せ付けない凄さがある。(小野 同上)
🔷ハンセン病研究
ハンセン病については北村は太田正雄の生誕100年にあたり「日本癩学会の諸学者と提携しての癩の病型分類、その病理組織学的根拠の追及、延いて結核様癩の確立、癩の新接種法としての人癩類代家鶏接種の試み・・・」と書いている。
また上野は「定年後は研究対象として真菌学を選ぶことはしなかったと思う。極端な言い方をすれば、植物としての真菌には興味を持っていたが、それ以上突っ込む気はなかったのではなかろうか。・・・真菌よりも癩(ハンセン病)が彼の仕事の対象として強かった。定年後に研究生活を続けたとしたら、癩に向かって行ったことは確実であろう。・・・仙台時代に感染状態についてフィールド研究を行い、東南アジアでの国際癩学会を期に、該地(シャム、フィリピン、支那など)の癩対策、特に社会的対応をつぶさに視察し、また疫学的調査を『南方諸国に於ける癩』(1943)として纏めた。そして結論的には癩は不治の病ではなく、的確な治療剤があれば必ず完治は可能であり、当時の王道であった光田式の隔離方針には大きな疑義をもっていた。こんな方式は日本だけではないか。海外では厳重隔離どころか在宅診療をしている。癩は遺伝でもなく、体質に基本があるのではなく、細菌感染症であるから、必ず有効な薬剤があるに決まっている・・・昭和20年前後はスルフォン系薬剤の治癩効果が注目され始めたときであり、杢太郎が生きていたら、治癩剤は数年は早く完成したであろうと言われている。(上野 (26))
また谷奥喜平の思い出として、「学会の懇親会で”杢太郎で有名な太田先生”と呼び声がかかって、”僕は癩を研究している人は立派だとおもう。みな研究者でありヒューマニストだ。最高の勇気を持った人たちばかりです”と挨拶されたのが私の記憶に残っている」とある。(上野 (27))
(長々と上野先生の文を引用しましたが、太田の癩に対する考え、取り組み方、当時の状況が具に理解できると思います。しかしながら現実には日本は戦後も諸外国と異なる道を辿り、ハンセン病治療に大きく後れをとって禍根をのこしてしまいました。)
🔷その業績の評価について
上に書いた主要な業績だけでも、文句なしに超一流の評価がされているものの、一方で皮膚科に限らずあまりにも多方面に手を広げて才能が有り余ったせいか、「杢太郎は序曲は歌ったが、その歌劇を最後まで書き上げなかった」と批評する論調も少数みられる。直接の弟子の北村包彦(かねひこ)の杢太郎論にも「太田教授は、その発想、或いはその所説が想像的に過ぎると屡々云われたが、想像力が研究を誘導したこともあったと思われる。これ等の業績の発表に寄与したものとして、教授の広く、深い語学力、優れた文章力を挙げたい。・・・」とやんわりとその研究が想像的過ぎるといわれたことを述べている。
 上野が座長を務めたある座談会で”序曲問題”に主題を向けた際に平川は「自分が一番活き活きと感じている問題にさーと入っていく。そして多少飽きが来て、その問題が少し古くなって、筆がにぶくなるという感じになっていると、その仕事はどうもそれ以上あまり続けないというタイプじゃございませんか。非常にねばり強い面も一面ではあるのですけれども、画面でいえば、広いキャンバスを力にまかせて油絵具で埋めていくという人ではなくて、やっぱり印象派のタッチのいいところをさっさとかく。紀行文など特にそういう感じではないかと思いますが。」
また杉山は「詩でも、白秋が”通っていったあとにもったいないほどのいろんなものを残していった”と『食後の唄』の序文でいっている程多くを未完成で残していかれた。詩作の上に一生かける人間にとっては、本当にもったいないと思うのと同じで、小説でもそうでしょうし、おそらく専門の医学の中でも、そういうものを次々と振り捨てられるというか。・・・」
さらに宇野浩二は「彼は骨の髄までの好事家であり、芸術の殆どあらゆる方面に一通りの才能を持ち、相当の学識を持ちながらどの一つも貫けなかった」。このようなネガティブな批判に対して、吉田精一は「杢太郎は芸術的気質を多分に持ち、それこそ”骨の髄までの芸術家”であったために、自己の持つものを折にふれて発散せざるを得ぬ衝迫を感じ、その結果が多岐にわたったのである。・・・」と述べている。そして「この豊かな詩才と、芸術的天分のもち主が、生涯芸術以外のことを本業にしなければならなかったのは、あるいは不幸というべきだろうか。」とまで言っている。
ネガティブな論評の最たるものはムラージュ制作の天才的職人の長谷川兼太郎である。「あの人も医者なら医者、文学なら文学やってりゃあ文化勲章ぐらいもらえたのに。要するに気が多いんで、これじゃ駄目だと思ったな。医学でも糸状菌やってるかと思うとレプラやる。それもどんずまりまでやるんじゃなくて又変わる。それじゃ具合悪いわな。傳研でやったが(中略)学会で発表したんだが失敗したね。・・・」。これに対して、上野は「飾らない文章で微笑ましく言わんとするところはよく分かる。一般の平均的な、換言すれば世俗的な受け取り方にはこのようなものが多いのも理解できる。しかしこれは杢太郎を真に理解していない幾多の論説の骨格を示している。」と述べている。
川村太郎は太田正雄の皮膚科研究について「宿題報告(皮膚腫瘍に関する;1940)の内容は未完成のものであるが、凡人の思いつかない大きな問題を指摘することで終わっている。したがって先生の指摘された点をほじくり返しているといろいろのものが出てくる。・・・メラノサイトのneural crest説(1948)以前に“黒色上皮種”でケラチノサイトとメラノサイトの関係を提示し、これらの研究から太田母斑の流れが生まれてきた」。
上野は序曲問題を総括して次のように述べている。「杢太郞のセンサー(感受性)があまりに鋭く、ために次々とテーマが移動していったことが、「一寸齧りですぐ気を移す」と解されて、それが「序曲だけ」という表現になったものと思う。・・・彼のあふれる才能は、そのとき既にそのセンサーは、次の問題を感知してそちらに触手が伸びていったということである。・・・序曲を、「その歌劇の全貌を概観(Ubersicht)したもの」という本来の概念で言うならば、「杢太郞は序曲を歌った」ということは、彼がその問題に関して、「その本質の全貌を捉えて理解して仕事をした」ということになり、この意味で「序曲を歌った」という言葉を使ったならば、それは杢太郞の仕事を正確に評したことになる。」(上野 (22)(23))。

上野、小野先生の評伝を正確に網羅することなど、とてもできませんが、次回は皮膚科医としての太田正雄の生涯におけるいくつかのトピックス、エピソードを書いてみたいと思います。

落ち穂拾いのこと

再開するブログの名前を考えあぐねて、皮膚科落ち穂拾いとしました。
ことさらその理由など書くこともないかもしれませんが、そのいきさつを一寸書きます。
皮膚科の先生で「皮膚科の臨床」という雑誌を購読している方ならば、きっとああ、それは上野賢一先生が長らく連載されていた随想 【「杢太郎」落ち穂拾い】 から拝借したものだな、と気づかれるかと思います。
まさにその通りで、素晴らしい随想なのでいいなー、と常々思っていました。それを拝借してブログの表題にするのが、適切なのか、不適切なのかはわかりませんが。

杢太郎とは、木下杢太郎のことで、これは文芸的な活躍の場で用いたペンネームで本名は太田正雄といいます。
若い頃は北原白秋などと詩作を行い、劇作、翻訳もこなし、キリシタン美術に造詣が深く、英語、仏語、独語をよくし、その絵は玄人はだしでした。
しかし本職は戦前の東京大学皮膚科教授で、その名前は知らなくても、太田母斑と聞けば知っている人もあるかと思います。日本人の名前のついた皮膚疾患名はそれほど多くはありませんが、その中でNaevus of Otaは国際的に有名な疾患の中でその最たるものかと思われます。

それは兎も角、一般の方で《落ち穂拾い》といえばまずミレーの油彩絵画を思い浮かべることでしょう。単に貧しい農村の人々の日常を絵にしたものと思っていました。ところが実はウィキペディアをみると、深い意味があるとのことでした。欧州では麦畑の株を長い鎌で刈り倒して、フォークで集めて脱穀するのだそうですが、その際、集めきれなかった落穂が多数地面に残されます。当時は旧約聖書のルビ記に定められた律法に従って、貧農や寡婦などの貧しい人々の命の糧として、畑の持ち主は落穂を残さずに回収することは戒められていたとのことです。
その落穂は大切なもの、という考えととるに足らないものとの考えがあるそうです。また英語のgleaningにあたり、「情報や知識をすこしずつ集める」という意味もあるそうです。上野先生はこのような意味で使われたのかもしれませんし、膨大な杢太郎の足跡の一部しか辿れない、という謙遜の意味で使われたのかもしれません。
《落ち穂拾い》にそのような深い含みがあることなど知りもしませんでした。

このような経緯をよく考えてみると一介のロートル皮膚科医の備忘録のようなブログに無断で《落ち穂拾い》と表題の一部を拝借するのはますます不適切なような気もしてきました。
ただ、今は亡き天国の上野先生も小さなブログゆえ見逃して下さるだろう、と勝手に推し量りました。
小生の思いは、皮膚科の時々の、遠近の話題を取り上げて、自分の備忘録としたいとの思いです。《落ち穂拾い》としてそこに皮膚科の大先達へのあこがれの匂いが含まれたらいいな、との思いもあります。