カテゴリー別アーカイブ: 山の憶い出

冬の谷川岳

最近家人にせっつかれて、古いアルバムの整理をはじめました。断捨離ではないけれど、ごたごたと溜まった本や山の道具やアルバムなどは、自分でも何とか整理しなくては、とは思っていました。それで古いアルバムの整理、処分を始めていたら古い山の写真に若い頃の思い出が蘇ってきました。
冬の谷川岳、思い返せば青春のごく一時期のことでしたが、憑かれたように通っていたことがありました。とりわけ冬の一の倉沢は魔の山谷川岳の代名詞のようなところですが、なぜか心惹かれるところでした。
多くは天候の模様眺めで、一の倉沢出合いから引き返したものでした。雪洞を掘って寝ていたら、次第に天井が下がってきて逃げ帰ったこともありました。雪崩の巣である一の倉沢に突っ込んでいくのは一寸勇気が要りました。どういう判断で入ったのか、今は良く思い出せません。先輩の後についていっただけかもしれませんし、厳密な天気読みはしていなかったように思います。ただ雪の落ち着いている時、夜明け前に一の倉尾根からテールリッジに取り付いて、雪崩の危険地帯からのがれるようにしていたようです(ほんの数回のことですが)。
色褪せた写真をみていたら、途切れ途切れながら当時の事が蘇ってきました。腰までのラッセル、吹雪の中でのビバーク、かじかんだ手、凍った手袋を岩に叩きつけながらの登攀、針金のように凍って硬くなったザイルに難渋した事などが思い出されます。
昔の日記から
「壁に取り付けばもうこっちのものだと思っていたが甘かった。雪と氷にまとわれた中央稜は意外に厳しくピッチはあがらない。その上にかじかんだ手、凍った手袋、アイゼンに重荷、着ぶくれときている。夏とは段違いのきつさだ。Ⅱ級、Ⅲ級といった表示のピッチグレードが最低Ⅳ級に感じられる。ビレーしている間にも寒さのためか眠気が襲ってくる。・・・」
「下降と決まった時の二人のほっとした顔。本谷の雪崩は怖いがニノ沢の奴だけ気をつければよいーーといってどうしようもないのだがーー五体満足に帰れると思ったのはこの時だったろう。・・・」
また別の日記では。
「南稜から一ノ倉尾根までの雪壁は約40m 6Pで終了。五ルンゼの直登も結構難しい。その先でビバーク。翌日はうって変わって吹雪。立って歩けず、四つん這いでやっとピークへ。4人でかたい握手。S先頭で稜線をいくがルートは判らず。偶然肩の小屋前にでる。この後もリングワンデリングしながら、西黒尾根を目指すも判らず。天神尾根を降る・・・」
最近懐かしさもあって谷川岳のことを調べていたら、「大氷壁に挑む 谷川岳・一ノ倉沢」というDVDがあり、買ってみました。
氷壁のスペシャリスト廣川健太郎氏がその仲間と2010年冬の一ノ倉沢滝沢第三スラブを登った際のドキュメンタリーでした。あの当時では第三スラブ、通称「三スラ」は伝説のクライマー森田勝が冬季初登攀を成し遂げた超難関ルートとして有名でした、というより、あんな雪崩の巣を登るなんて尋常な人のやることではないと思われていました。
その後、いろいろな人が登るようになり、ルートの情報も増えたのでしょうが、やはり危険と隣り合わせな険悪なルートであることに変わりはないでしょう。ビデオで間近にルートを見せてもらい、雪崩やシャワースノウをかいくぐりながらの氷壁の登攀は圧巻で、とても常人の近づける場所ではないと思いました。これをみたら自分らのやっていたことはほんのママゴト程度のことのように思われました。しかしながら一ノ倉沢に入っていく時の緊張感、臨場感は相通じるものを感じました。
一ノ倉沢には多くの岳人が眠っています。中には今野和義や吉尾 弘といった日本を代表するようなトップクライマーもいます。「近くて良い山」ながら一方で悪絶でいったん牙をむくと手が付けられないほどの魔の山に変身します。そこがまた海外を目指すような岳人を魅了するのでしょう。

学生から社会人になってからは、さすがに岩から遠ざかりました。それでも時に谷川岳の冬の稜線歩きもやっていました。それもいつの間にか遠のいていきました。
もう、冬は一ノ倉沢の出合いまでも行くことはありますまい。古い写真を一部残して、あとは記憶の片隅に留めながらフェードアウトしていくでしょう。

これを機会に古いアルバムとDVDで一寸蘇った若き日の谷川岳のことを書いてみました。

一ノ倉沢出合い、正面に衝立岩、向かって右にコップ状岩壁、左に滝沢を望む

中央稜基部

南稜

南稜最終ピッチ

南稜上部

尾瀬へ

先週、宇都宮で乾癬学会がありました。金、土曜日の開催でしたので、久しぶりに尾瀬に立ち寄ってみる気になりました。
土曜日の午後学会場をそそくさと後にして、日光宇都宮道路へと車を走らせました。
走っているうちに懐かしさが自然と沸き起こってきました。若い頃日光に、足尾方面へ、尾瀬へと通った道です。西の方に台風はあるものの、まだ穏やかな陽ざしでした。ゆっくりと走っていきました。いろは坂を登り中禅寺湖畔へとでました。外国人でランニング、サイクリングを楽しんでいる人々もちらほらみられました。欧米人にとっては日光は故郷に近いような気候、風光なのでしょう。
戦場ヶ原を過ぎて、金精トンネルを抜ければもう尾瀬は間近です。菅沼、丸沼の脇を通って今日の宿泊地の尾瀬戸倉へと向かいました。
翌日は鳩待峠から尾瀬ヶ原の散策をしました。何回か来た道だけど、熊に注意の看板と、各所に置いてある熊よけの鐘にはちょっとビックリしました。熊の目撃情報もいっぱい書いてありました。以前はそんなに多くなかったのになー。
ここ数年、特に今年の熊の出没は異常です。気象変化が大きな要因なんでしょうが、山間部の過疎化、里山の荒廃も関係しているとの話もききます。
山は好きだけど、あまり熊には会いたくはありません。以前は平日でも、夜間でも割と平気で山歩きをしていましたが、最近はなるべく、人気のないうらさびた山道は避けるようになってきました。
長年山歩きをしていて、熊に会ったことはないか、というと一度だけ見たことがあります。友人と鳥甲山の開拓に道なき道を、沢を歩いていたとき、かなり上の方まで登り、元来た道を眺めていたら、熊が横切っていきました。その時は友人と顔を見合わせてぞっとしたものでした。また北海道の山に登ったときなどは、いつも緊張したものでした。特に知床の山に行った折など、よりによって宿に吉村昭の熊嵐という本がおいてあり、ヒグマで開拓村が全滅した話など知り、びくびくしながら登ったものでした。またカムエクの福岡大学ワンゲル部の悲劇の記事もショックでした。日高の山中で笹薮がガサゴソと音をたてると身構えて緊張したものでした。無駄とはわかっていながら短刀を腰に帯びて登りました。勿論もし出会ったらイチコロでしょう。ヒグマの巨大な剥製と鋭い歯と爪をみたらとても太刀打ちできたものではありません。
尾瀬は雪の至仏岳、秋の燧ケ岳など何回か来たことはありますが、豊かな自然に心なごみます。他の山では見られないような湿原、湖沼です。帰宅して(家人が)写真を整理していたら以前の尾瀬の写真がでてきました。水芭蕉も咲いていました。
山は変わらないけど人はくたびれていくのは世の常ながら、若き日々の山を回想することが多くなってきました。
ともあれ、両者をアップしてみました。
歩きながら、乾癬学会のことを反芻していました。
近年の乾癬治療の進歩は目覚ましいものがあります。1年前の常識が翌年にはもう古いものとなっているといった具合です。今年も生物学的製剤の新規薬剤が2剤紹介されていました。まだまだ後に控えている新薬があるということでした。
もう老兵にはついていくのがいっぱいいっぱいでした。
でも、気をとり直して新規情報についてレポートしてみたいと思います。

%e5%b0%be%e7%80%ac%e8%87%b3%e4%bb%8f%e5%b1%b1 iPhoneでも結構鮮明な画像が撮れるのですね

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%e3%81%bf%e3%81%9a%e8%8a%ad%e8%95%8910数年前の初夏の頃

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槍ヶ岳

先日、夏休みをとって、槍ヶ岳に登りました。若い頃登ったきりで数十年ぶりでした。
槍ヶ岳ロッジに泊まってゆっくり登って行ったのにもかかわらず、最後の登りはバテバテでした。ここ数年、足腰、体力の衰えを如実に感じます。腰痛、膝痛などを口実に日頃の運動も滞りがちで、昔取った杵柄が役に立つわけもありません。後続に追い越されながらゆっくり登っていきました。
槍の穂先を眺めながら、20代の若い頃友人と登った北鎌尾根のことを思い出していました。晩秋の尾根はまだ夏道もでていましたが、尾根の上部は雪になっていました。当時の山日記を見ると(あの頃は真面目に日記をつけていました)
「予想に反して、雪は少なく、夏道もでていてルートさえ間違えなければ技術的には問題ない。むしろ20Kg以上の重荷を背負って登攀するのが大変」「雪と氷が顕著になり出したのは北鎌沢のコルを過ぎてから」「しかし自然条件が悪化したら、安全に通過出来るだろうか」などと書いています。若気の至り、というか、冬の岩壁も目指していた頃でした。
槍の冬季小屋はとても寒くて、沸騰したお湯をこぼすと立ち所に凍ってしまったことなど思いおこします。
あの頃「北鎌尾根」は憧れのルートでした。写真でみた格好良さ以上に、加藤文太郎や松濤明などが遭難した伝説の地でもあったからかもしれません。
もう、あれから40年以上も経ってしまいました。人間もくたびれるはずです。下りはゆっくりと降っていきました。そのせいか、登山道の傍らにある岩室に気づきました。槍ヶ岳開祖の播隆上人が何十日も籠って念仏を唱えた処とありました。
この道を播隆上人が開き、ウェストンや上条嘉門次が登って行ったのかと思うと感慨深いものがありました。
翌日は沢伝いの森の小径をそぞろ歩きに降っていきました。ゆっくり歩くと、朝日の木漏れ日や、小鳥たちの囀り、沢の音や風の音も目や耳に心地良く感じられます。朝露に光る山野草も目を和ませてくれます。体力の衰えた分、新たな山の愉しみもあるのか、山に在るだけで幸せな気持ちになれます。
そう自分を納得させながらも、やはり老いていきいずれは高山から立ち退いていくであろうという思いは寂しいものがありました。

年年歳歳花相似 歳歳年年人不同

槍ヶ岳

播隆窟

播隆窟2

木漏れ日

木漏れ日2

八ヶ岳へは

先日の連休に八ヶ岳を目指しました。一年前と全く同じ気持ちです。折角の連休、寒がりで準備不足なのに山道具を車に積み込んでいました。歳のことも考えずに全く成長(反省)の色がみられないと妻もあきれ気味です。
日曜日の朝は快晴、道路も混んでおらず、快調な滑り出しでした。京葉道路から首都高、中央道と全く渋滞にも巻き込まれずに小淵沢まできました。昨年は4WDでしたが、今回は普通車で来たので昨年凍結していた八ヶ岳鉢巻道路は避けて、諏訪南インターから直上していけるところまでいこうと皮算用しました。
ところが今年は様子が変です。美濃戸に近づいてもいっこうに雪が現れません。とうとうチェーンなしで美濃戸口まで辿り着きました。なんと千葉から3時間一寸で着いてしまいました。
見上げると阿弥陀岳から続く南八つの稜線は黒々としていて、うっすらと雪をつけているだけです。今年は楽勝で頂上までいけるかと、幸先良くルンルン気分でした。
美濃戸から北沢への道も昨年は雪道だったのに、全く雪はありません。轍をたどって沢を越え、ややいくと左に下草のある車道がありました。何となく赤岳山荘へのショートカットのような気がして、大した疑問もなくそちらの道を辿りました。唐松などの枯れ木の道で木漏れ日も差込み気持ち良い道でした。まるで小春日和の晩秋の山を逍遥しているかのような快適な時間でした。ところがしばらくいくと車道は途切れていました。やはりなんとなく変でしたから普通ならば元来た道を戻るのが当たり前でしょうが、気持ちでは前に進んでいると思っています。目をこらすと上の方へ点々と赤布が続いて見えました。ああ、これはやはり山越えの冬道なのだ、と思い込みました。細い踏み跡を赤布を頼りに進みました。前方に山小屋らしいものが見えてきたときはやっと正規の道に合流できたかと思ったものでした。
しかし、何か様子が変です。熊よけの金網ネットが張り巡らされてあり、そこの金網を外して(勿論元にもどしておきましたが)、家屋に近づいてみるとそこは別荘地でした。
今にして思えば、このとき元来た道を引き返せば、まだ傷は浅く、その日のうちに赤岳鉱泉まで入ることもできたのでした。
でもその時は折角まともな道にでたのに、また道なき道を引き返して山越えするよりは道路を辿って元に戻れば、と安易に考えて別荘地を出口に向かって進みました。それが間違いの元でした。途中からスマホも使え、地図をみると、近くに美濃戸への道が平行して走っているように思われ進んだのですが、別荘地の裏手の細道を辿ると、いくつもの道が途中で途切れてしまっていました。それもそのはずで美濃戸への道との間には北沢からの沢が流れており、それを渡渉しなければ対岸に渡れないのでした。どこかに道があるのでは、と探しながら歩いているうちにどんどん下流のほうに下っていってしまいました。さすがにこの季節、狭いといっても冷たい沢を渡る気にはなれません。しまいにはゴルフ場を越えて右蓼科、左茅野との標識がある道にまで下っていってしまいました。大回りもいいところです。もう登山どころではありません。車道をひたすら美濃戸へと歩き続けました。晴れていた天気も次第に曇り空となり、おまけに冷たい風まででてきました。
ほとほと歩き疲れて美濃戸へと戻った時はもう午後の陽光もだいぶ傾いて翳ったころでした。
若い頃なら翌日日帰りで頂上往復も考えたかもしれませんが、もうその元気もありません。
疲れた身を引きずりながら車で帰路につきました。
とんだ一日でした。
それでも数日たって疲れもとれてくると硫黄岳からの本沢温泉や赤岳、横岳などの雪稜が恋しく思われてくるのでした。山バカは死ぬまで治らない(かもです。)

剱岳

連休を利用して、剱岳に行ってきました。仙人池から下の廊下を目指しました。
いつものように計画性がなく、直前に決めて行ったこともあって、想定外のことだらけの山行となりました。
信濃大町から扇沢までは良かったものの、扇沢で長蛇の列で切符を手に入れるのに1時間も待たされました。ようやく室堂に到着して、さあ今日の泊まりの剱沢小屋まで、と思って歩き始めるとしばらく行って看板があり、剱近辺の山小屋は予約の方のみしか宿泊できません、とありました。いかに最近の山事情に疎いか、露呈した感がありました。がっくりきて引き返し、室堂の山小屋に宿泊を請おうとして財布を捜すと、ない!!呆然としました。運転免許証、カード、現金全てがなくなり、茫然自失です。これでは山どころの騒ぎではない、家に帰ることもできなくなってしまう。一縷の望みをかけて室堂ターミナルに尋ねるとややあって山岳警備隊詰所にそれらしき物が届いている、とのことです。詰所で財布に再会。実に親切な人に拾われたものです。地獄に仏とはこのことです。一時は、カードを悪用されたら、とか運転免許証の再交付とか悪い事ばかり頭をよぎっていました。
返却してもらった上に当日の宿泊のお世話もしてもらいました。
翌日は、室堂から別山乗越、剱沢雪渓を越えて、仙人池ヒュッテまでの長い行程となりました。疲れ果てて到着しましたが、八ッ峰、チンネなどの絶景は目を和ませてくれました。20代の若い頃に登った三ノ窓雪渓からチンネの記憶もかすかに甦ってきました。
翌朝は仙人池に映った裏剱が夜明けとともに、刻々と赤い色に染まっていく様に皆感嘆の声をあげながらシャッターをきっていました。もう紅葉は始まっていましたが、もうしばらくしたらまさに錦秋の裏剱となるのでしょう。この情景に会えただけでもここに来た甲斐がありました。満足して今日はゆっくり阿曽原までとのんびりと降っていくと、なんと仙人温泉小屋から先は通行止めとのことです。ここ数日の晴天でスノーブリッジが極端に薄くなり崩壊の危険があり、架かった梯子もいつ崩れるかもしれないとのことで当日朝8時以降通行止めになったとのことです。つい30分前までの登山者は降りていきました。結局富山県警山岳救助隊からストップがかかり、引き返すことになりました。阿曽原温泉から旧日電歩道を通って欅平までの道は断念せざるを得なくなりました。いつもの年ならばこんなに雪は残っていなくてスノーブリッジの部分に橋がかかるのだそうです。
皆がっくりきて元来た道を引き返していきました。元気な人たちは仙人池を超えて真砂沢方面に下っていきましたが、小生は体力もないし、モチベーションも下がり、仙人池ヒュッテでもう一泊です。昼間からビールをご馳走になりながら山の猛者たちの話に聞き入りました。中には山を続けたくて会社をやめ、自営業を始め、チョ・オユーやマナスル、アマダブラムなどに行きいまだに現役でばりばり登っている還暦のおじさんもいました。剱本峰から北方稜線を辿り、池の平まで軽く来たそうです。コースタイムの7掛けで、休憩なしで10時間以上歩けるそうです。北方稜線はいまやツアーの人気コースで八ッ峰縦走も人がいっぱいいたとのことです。馬場島から早月尾根を剱本峰まで1日で往復するトレランは今や大流行とのことでした。驚くことばかりでした。
翌日は退却行の気分でした。そのまま来た道を戻ろうかとも思いましたが、それも芸がないし、ハシゴ谷乗越を越えて黒部ダムまで引き返しました。若い頃2度ほど通った道でしたが、こんなに疲れて歩きにくい道だったかなーと腰、膝の痛みをかばいながら戻りました。
想定外のことばかりあり、体力の衰えを実感させられた山行でしたが、帰宅してほっとすると剱の素晴らしさがしみじみと湧き上がってきました。

室堂 みくりが池

室堂                     みくりが池

室堂夕焼け 剣本峰

室堂夕焼け                  剱本峰

剣沢雪渓 

剱沢雪渓                   真砂沢テント場

八峰 裏剣

八ッ峰                    仙人池からの裏剱

チンネ

三ノ窓雪渓上部

三の窓雪渓  チンネ登攀2

チンネ登攀 チンネ上部

昔(数十年前)のチンネ登攀

穂高へ

夏季休暇をとって、久しぶりに山に行ってきました。ずっと晴れていたのに、山の2日間は雨、その前後は晴れと山の天気の気まぐれに恨めしい気がしました。
それでも、やっぱり山は、特に穂高はいい山です。天気が悪く、山に不慣れな家族も同伴のために、奥穂高の頂上は断念してしまいました。
上高地から梓川沿いにゆっくり歩きながら、明神、前穂、北尾根などを眺めながら進んでいきました。森の小径に入ると、空気も澄んで、心地よい気持ちでした。
その日はゆっくりと歩き、横尾で泊まりました。何回も通った道ながら、泊まったのは初めてでした。食事の前にお風呂にどうぞ、といわれたのにはびっくりでした。山小屋といっても半分は観光地の延長のようなものでしょうか。食事も宿屋のようでした。
翌日は雨の中を涸沢まで上り、ザイテングラードを奥穂高小屋まで登りました。雨の中ながら、小さな花が可憐に咲いていました。
ゆっくり登りながら、昔登った屏風岩、前穂高、滝谷などを同行者に説明しているとその頃の情景もよみがえってきます。あの頃は、夏の岩に、氷雪のジャンダルムや滝谷に、雪の明神、北鎌尾根にと青春のエネルギーを注ぎ込んでいました。当時の思い出は甘酸っぱく自分にとっては宝物です。
つい、昔はよかった、と過ぎ去った過去の自慢話口調になるのは老人の常套句かと我ながら苦笑いです。
山小屋の張り紙に書いてありました。ここのところ、山の遭難が増えています。気をつけましょう。特に多いのは60代の人、経験10年以上の自称ベテラン、単独行の人とありました。将に自分のことを指摘されているかのようでした。
こんな所、簡単に行ける、もっと動けるはずと思っていても、思いとはうらはらに体は動かない、といった悲しい現実があります。
歳とともに、登り方が違ってくるのも当然です。昔はあまり目にも留めなかった高山植物などを眺めながらの登山となりました。

河童橋2 四峰

北尾根 チングルマ

塩釜 トリカブト

キキョウ 黄色花2

八ヶ岳へ

連休に八ヶ岳に行ってきました。
連休があると、ついどこかの山に、へと思いが至るのは昔からですが、心とうらはらに体は年毎にきつくなり間際までぐずぐずしてやはりやめた、ということが多くなりました。
今回も疲れるし、寒いし、とは思いつつも山道具を車に放り込んで八ヶ岳へと向かいました。
何年ぶりの美濃戸口でしょうか。タイヤチェーンは持参してきたけれど、美濃戸まではかなり雪が深そうなので、ここの駐車場止まりとしました。
4駆の轍のついた雪道を歩き始めました。若い頃はいろんな季節に通った道ですが、もう昔の仲間とはしばらく一緒に歩いていません。皆もう山は卒業してしまったのかしら、あるいは新たな山に向かっているのだろうか、などと思いつつ・・・。
1時間程して美濃戸に着きました。一休みして柳川北沢への道へ入りました。道はラッセルしてあるのでそれほど潜りません。午後に出発したためか、下山者とはすれ違いますが、登る人はまばらでした。途中から小雪模様でしたが、風も少なく歩きよかったです。それでも最後は疲れてしまい、足がなかなか前に進みませんでした。
眼の前に人工氷漠のアイスキャンディーが現れたときはびっくりしてしまいました。昔はそんな人工物はなかったなー、またしても浦島太郎の気分です。
赤岳鉱泉は暖かく快適でした。前日は混んでいて、夕食は4回転だったとか。本日は2回転のみです。
八ヶ岳は雪は少ないですが結構寒く、以前は凍りついたテントに凍えながら泊まったものでした。もうそんなことはできません。やはり暖かい山小屋がいいです。夕食は肉料理なども出て、山小屋にしては結構豪華でした。
食堂はWi-Fiも使えて、食後にワイン、コーヒーなども注文できます。山の書棚で寛いでいるともう雪山に出かけていく気分も萎えてきかかりました。妻にメールすると「歳を考えなさい、年寄りの冷や水といわれないように気をつけて」と厳しい返事が返ってきました。赤岳頂上まで登ると帰りで疲れてトラバースでスリップするかもしれないし中央道の渋滞に捕まって深夜の帰宅になるなーなどと、ほろ酔い気分も相俟って気持ちは楽な方へ、楽な方へと次第に傾いていきました。
翌日はまずまずの天気でしたが、支度も朝食もゆっくりです。
赤岳をやめて、硫黄岳ももういいか、とあきらめて大同心の写真を撮って帰ろうかと思いました。
中山乗越から中山展望台に登り、シャッターチャンスをうかがいましたが、一向にガスがはれません。阿弥陀岳、赤岳は次第にガスが切れて頂上が窺えるようになってきました。文三郎道を赤岳に向かう人もちらほらみられました。
しかし、横岳から大同心の岩壁はなかなか顔を現してくれませんでした。かつて登った雪の中山尾根や小同心のことなどを懐かしく思いおこしていました。小一時間ほどねばってから諦めて行者小屋へと下っていきました。
皮肉なことに柳川南沢にまで下るとあれだけガスっていた大同心が見え始めました。一寸粘りが足りなかったようでした。
でも、雪に覆われた森林を歩くのもなかなかおつなものです。日の光が木の間隠れに差し込んで雪面がきらきら輝いていました。とても気持ちよくリフレッシュできた山行きでした。

八つ1

八つ2

八つ3

横岳 八つ5

八つ6

中山尾根1 かつて友人と登った中山尾根

中山尾根2

中央アルプス

今年最後の連休です。土曜日は代診の先生にお願いしているので、うれしい3連休となりました。これで山に行かない手はない、とだいぶ前から目論んでいました。でも、腰は痛いし、体力は低下しているし、とぐずぐず考えあぐねていました。間際になって、久しぶりの中央アルプス行きと決めました。高い山には登りたい、でも楽をしていきたい、という条件だと、どうしてもリフトかロープウェイの架かっているところに限定されてきます。千畳敷カールのロープウェイは日本で一番高いところまで運んでくれるのだそうです。
バスは駒ヶ根の里から、九十九折の坂道をどんどん登っていきます。唐松林をぬっていつのまにか急峻な伊那谷を眼下にみるようになると「しらび平」に到着です。
ロープウェイは「しらび平」というところから、あっというまに、千畳敷カールまで運んでくれました。季節は秋から一気に冬模様です。
お天気も上々とあって、山は多くの登山者を迎えていました。山はもう雪化粧をしていて、登山道にも雪が積もっていましたが、それほど深くはなく、また心配していたアイスバーンにもなっていませんでした。風もあまり吹かず厚着をしているとむしろ汗ばむ程でした。稜線に出るとさすがに風がありましたが、日差しは暖かく稜線漫歩の気分を味わえました。宝剣岳を左に見ながら駒ヶ岳に向かいました。
もうしばらくすると、本格的な冬山となり、全山が深い雪に閉ざされるのでしょう。
歩きながら、遠い昔のことを思い起こしていました。
まだ20代の頃、クラブの合宿が暮れから正月の宝剣岳でありました。テントで休んでいると、山小屋から急病人が出たので医者はいませんか、との切迫した呼びかけがあり、友人のYと二人で駆けつけてみると、中高年の男性がもう虫の息でした。二人して必死に人工呼吸などの蘇生を続けましたが、息を吹き返すことはありませんでした。宝剣岳での岩登り、木曽駒ケ岳への登山などの合宿でしたが、この遭難の一件が心に重く圧し掛かった冬山でした。
あれからもう何十年もたってしまいましたが、ついこの間のような気もします。山は変わらないけれど人の世の移ろいの速さに驚かされます。
妻は年を考えていい加減にしたらといいますが、確かに人に言われなくても歩いていて、自ら老いと衰えを感じています。歩きは遅く、時には岩につまずき身のこなしは硬くなってしまいました。

山から下りてきて疲れたので前日泊まった温泉宿にまた連泊しました。ゆっくりお湯に浸かって紅葉など見ている方と、これが日本の山の醍醐味だなーと感じます。

山も人生も登るだけではなく、下ってくることの方が難しく、大切だといいます。確かにそうだけど、しばらくは山も仕事も現役でもうひと頑張りしようかなと思っています千畳敷カールロープウェイ

ルンゼ宝剣岳

頂上頂上神社

富士山山里

 

 

 

 

 

岩に目覚めたころ

金峰山、丹沢で次第に山にのめり込んでいき、穂高の巖根を目にすると岩登りにも惹かれるようになってきました。というか、難路といわれるところを登るにはどうしても岩登りの技術が必要になってきた、というところかもしれません。
友人や山仲間に教わり、山の本を調べてある程度のことはできるようになったとは思いますが、本格的にとはいきません。アルパインガイドの講習会などで三つ峠などにも行きました。
本格的な岩登りをするにはやはり山岳会に入るのが近道です。山岳雑誌の会員募集をみて東京クライマースクラブ(TCC)という街の山の会に入会しました。名前はメジャーですが、こじんまりとした岩登りを主体とした山岳会でした。定期的に神田で集会がありました。
最初は奥多摩の氷川屏風岩という岩登りのゲレンデに連れて行ってもらいました。
ザイルの結び方、確保の仕方、懸垂下降の仕方などを教わりました。アブミなるものにも初めて乗せられましたが、恐くてへっぴり腰で必死で腕でぶら下がっていたので、腕が棍棒のようにパンパンに張ってしまいました。
その後、越沢(こいざわ)バットレス、日和田山、三ッ峠などにトレーニングに出かけるようになりました。
人工登攀も少しは板について、へっぴり腰ではなくなっていきました。オーバーハングもこなせるようになってドッペルザイルの使い方もだんだん慣れてきました。
三ッ峠では空間リッジ、4段ハングなどという空間に飛び出して、まるで天井裏を伝わり渡っていくような難度の高いルートもこなせるようになりました。あの頃は一寸天狗になって自分がどこでも登れるような気になった時もありました。
でも、谷川岳の本番などで失敗してすぐにその鼻はへし折られてしまいましたが。
結構長いこと岩登りをしていたと思っていましたが、記録を振り返ってみると精力的に登っていたのは青春時代のごく一時期でした。
セピア色に変色した当時の写真を眺めていると、若かった頃の甘酸っぱい思い出が蘇ってきます。未熟だったけれど、将来の山への希望に燃えていたように思います。

img048初めてのアブミ体験、へっぴり腰で腕でザイルにしがみついていました。

img046越沢バットレスで、少し慣れてきました。

img047三ッ峠でのクライム、4段ハングといわれる屋根のように張り出したオーバーハングは圧倒的です。

谷川岳一ノ倉沢

先日山岳雑誌岳人の頁を何の気なしにめくっていると「一ノ倉沢衝立岩グリズリー+コンドル」という登山クロニクルの記事が目に止まりました。
 谷川岳一ノ倉沢衝立岩正面壁といえば登攀不可能として長らく岩登りを目指す岳人の憧れのまととなった岩壁でした。人工登攀のテクニックを駆使して初めて登られたのが1959年8月のことでした。その中の代表的ともいえる雲稜第1ルートとダイレクトカンテルートのフリークライミングの報告でした。
あのオーバーハングの連続するルートをオールフリーで登るなどは小生の想像を絶する行為なので、驚き以外の何のコメントもありませんが、写真や登攀ルート図などを見ているうちにかつて青春の一時期岩登りに血道をあげていた頃の甘酸っぱい思いが甦ってきました。
70年代の頃は街の山岳会が盛んで、鉄の時代、スーパーアルピニズムの時代といわれて人工登攀が華やかな頃でした。
小生も20代の一時期谷川岳に入れ込んだ頃がありました。その中でも一ノ倉沢の思い出は特別のものです。

一ノ倉沢は谷川岳を代表する険悪な沢というか、その奥にすり鉢を縦に断ち切ったようなかたちに屹立する岩壁群を抱えています。その出会いに立つと正面に衝立岩が他を睥睨するように聳えています。
 ある時、衝立正面壁を登るべくクラブのパートナーとテールリッジを登って基部まで行きました。その日は台風が近づいていましたが、まだ曇り空で風もありませんでした。しばしの思案の後、壁に取りつきました。冷静に考えれば初めての衝立でそんな日に登るのは無謀でした。登るに連れて雨が降り出し、風も出てきてザイルがほとんど真横に流されていたことを記憶しています。撤退するにもいくつかハングを越えてしまって上に抜けた方が易しい状況でした。
アクシデントは最後の洞穴ハングで起きました。多分相当疲れて消耗していたのだと思います。オーバーハングは出口を抜け出るのが一番骨が折れます。鐙に乗って上を見ると赤いシュリンゲ(細縄)がぶら下がっているのが見えました。これにつかまって体を引き上げればもうハングを乗っ越せる、と引っ張ったとたんにブチッときれて真っ逆さまに墜落してしまいました。冷静に考えれば残置シュリンゲに体重をかけるなどあってはならない初歩的なミスです。疲れ果てて甘い誘惑にかられたのでしょう。ジッヘルしていたセカンドは壁にしたたかぶつけられたようでしたが、小生はハングの頂点からの落下だったので空中を飛び、滑り台のような下の斜面にぶつかっただけで怪我はありませんでした。しかし、ショックは大きくトップは替わってもらいました。どうやって上まであがったかよく覚えていません。ただ、ほうほうの体で雨の中北陵を懸垂下降しました。懸垂下降器の間から泥水がしぶきのように噴出していたのを覚えています。
 また、ある時はダイレクトカンテの垂壁を直上している時に、鐙をかけたハーケンがちぎれて墜落してしまいました。この時ルートを見失いがちになって曲がったハーケンにカラビナをかけてしまいました。やはり余裕がなかったのでしょう。鐙に体重をかけた時にハーケンが途中から千切れて中のジュラルミン色の銀色が拡がって鉄が裂けていくのがいまだに目に焼き付いています。ほんの2、3秒の出来事でしたがその絶望的な時間は忘れようもありません。この時も自分は空中を飛んで、怪我一つありませんでしたが、パートナーは握っていたザイルが滑り、やけどをして指の肉をごっそり持っていかれてしまいました。
 衝立岩はよくよく因縁のあるところらしく、後日リベンジに臨んだダイレクトカンテで衝立岩正面の上部から大音響とともに落石がありました。人の体程もあろうかという岩が崩落し、なんとその後から登攀者も一緒に落ちてきました。ザイルが一杯に伸びきって一瞬、止まったかに見えたその直後にそのザイルに引っ張られるかのようにもう一人の確保者も空中に投げ出されてしまいました。2人は弧を描くかのようにして墜落していってしまいました。一瞬の出来事でした。実はその日は偶然クラブの若手が衝立岩を狙っていて、正面壁に挑んでいました。つい今しがた基部で別れたばかりで彼らが墜ちたのかもしれないと気が動転しました。ダイレクトカンテ終了点から急ぎ下降し、衝立スラブをひたすら駆け上りました。遭難者はクラブの仲間ではありませんでしたが、先程まで元気にしていた人の無残な姿に愕然とし、ひたすら合掌するしかありませんでした。
 一の沢も意外と悪相でした。草付きというか泥壁で掴んでも掴んでもずるずるすべり、そのまま沢床まで滑り台のように墜ちたことがありました。その後も滝口で透明な苔に気付かず滑り落ち、大の字になりましたが、偶然靴のコバが襞のような岩棚に引っ掛かり墜落せずに済みました。
 コップの広場(といっても斜面ですが)では浮石に乗ってスリップするし、左岩壁ルートではどろ壁でスリップするも、なぜが岩に挟まって墜落を免れました。
 こうやって思い起こすと、怪我もせずに無事で済んだのがむしろ不思議な位です。上記の一つでも一寸間違えば土合の慰霊塔の仲間入りをしていたかもしれません。こうもあちこちで墜ちたのは実力的に劣っていたのかもしれません。
 でも20代のひと頃は谷川岳に魅せられていてその魔力に引き寄せられていたのでしょう。冬の一ノ倉沢にまで出かけていました。滝沢からの雪崩をかいくぐりながら何度かテールリッジを行き来したものでした。

岩から遠ざかってから数十年もたち、岩登りの様相もすっかり変わってきてしまいました。当時新しかったものは逆に古くなり、今時どた靴に鐙など持ち出して来たら周りから笑われるか顰蹙をかうかもしれません。先日、街のクライミングジムに行き、フリークライミングのまねごとをしたらスリップして肩を脱臼しそうになりました。まさに年寄りの冷や水でした。
 若い頃に岩登りをした経験が何かの役に立っていることはまずありません。しかし、一度しかない人生に深い彩を与えてくれたのだろうと思います。
 もうザイルのトップを務める技量も体力もありません。しかし、すこし頑張ってガイドに引っ張り上げてもらえたらな、などと夢物語のように思ったものでした。