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星と嵐ー六つの北壁登行ー レビュファ

ガストン・レビュファ 著  近藤 等 訳 白水社 1955年
ガストン・レビュファ(と近藤 等のコンビ)といえば、ある世代以上の山岳愛好者にとっては、憧れの登山家であり、あるいは実際に親交があったり指導を受けたりした岳人もあるかと思います。
やや長くなりますが、近藤等のまえがきに彼の紹介がまとまって書いてありますのでそのまま引用します。
「彼は1921年5月7日、フランスの港マルセーユに生まれたのだが、幼少の頃プロヴァンス地方の山々を歩き、地中海の紺碧の海に聳え立つカランクの断崖を登っているうちに山の魅力にとりつかれるようになったのだった。十七歳の時、いよいよ本格的な山登りをはじめ、ラ・メイジュを登り、パール・デ・ゼクランを縦走した。二十歳の時には青年山岳研修所に入り、一番の成績で卒業、翌年ガイド免状を下附され、引きつづき、ラ・グラーヴの登山学校のコーチ、陸軍高山学校の教官となり、いよいよ山と離れられず、シャモニのガイド組合に加入し、山にその生涯を捧げることになったのである。
1947年に、国立登山スキー学校の創立者エドゥアール・フレンドと組んでグランド・ジョラス北壁のウォーカー・バットレス第二登に成功して以来、彼の頭上にはいくつもの初登攀の栄誉が輝き、1950年にはアンナプルナ遠征隊の主力メンバーの一人となって最高キャンプまで活躍したことは周知の通りである。その後も、彼はアイガーの北壁をこなし、グランド・ジョラスのウォーカー・バットレスをふたたび登るなど、実践面での活躍をつづけて今日に至っている。」
レビュファはこの本の執筆依頼を受けた時、単なる登攀記では満足しませんでした。
「『星と嵐』は、アルプスの最も大きな北壁を舞台に、山と大自然と、その諸要素と人間との結びつきを、ガイドの職業を通じて語った本なのです。そして、この場合、北壁そのものは私の作品の框にすぎません。それですから、私の本はテクニック的なものではなく、できるだけ人間味を出そうとしました。北壁ではビヴァークせねばなりません。そこで≪星≫という言葉が出てくるわけであり、また登攀が長いことからしばしば悪天候に襲われます。ここから≪嵐≫という言葉が出てきて『星と嵐』としたわけです。」
前置きが長くなりましたが、本書の六つの北壁登攀の概要を書いてみようと思います。

🔷グランド・ジョラスの北壁
1938年8月 リカルド・カシンらの3人のイタリア人パーティーがウォーカー稜を初登攀
1943年 ウォーカー稜をエドゥアール・フレンズと試登、嵐のため下降。
1945年 試登のテラスを越えて、75mの凹状岩壁も越えて、灰色のツルムの下でビヴァーク。翌日、オーバーハングしたチムニーでフレンズが25m墜落。垂直のフェースに転進したが、極度に難しかった。それでも翌朝薄い霧の中垂壁の登攀を再開し、正午最後の雪庇を越えて頂きに抜け出た。
🔷ピッツ・パディレの北壁 
1937年7月 リカルド・カシンらにより初登攀
1949年 ベルナール・ピエールと登攀。垂壁、オーバーハングではないがキメが細かく、うろこ状、凹状の壁に難儀した。ビヴァーク後、巨大なオーバーハングを越えてクーロアールを進んでいったが嵐につかまり、再度のビヴァーク。雨嵐、雷が続いた。翌日は嵐が過ぎ去り正午に頂上に出た。この登攀ではガイドとしての職責を果たし友への信頼が立証された、と述懐している。
🔷ドリュの北壁
1935年7月 ピエール・アラン レイモン・レイナンジェにより初登攀
1946年8月 ベルギー山岳会副会長のルネ・マリエに頼まれてガイド祭の前日の朝、モンタンベールの電車駅を出発し、午後から登攀を始めた。明日の朝のガイド祭に間に合うようにスピードを上げて800mの岩壁を登った。夜嵐が爆発してビヴァークになり、雪も降ってきたが、彼の9年もの思いを実現させ、援助できたことに満足していた。
🔷マッターホルンの北壁
1931年7月 フランツとトニー・シュミット兄弟により初登攀
1949年6月 レイモン・シモンと人と会わない、落石の少ないシーズン初めを選んだ。
この岩壁は難しさというより、危険だ。岩は脆く、氷は硝子のようだ。毎日のように岩雪崩が起こる。またテラスなどの確保点に乏しい。急峻だが垂直ではない。それでもクーロアールは岩雪崩の巣のようだった。それでそこを避けて登った。引き出しのような岩をだましだまし、1日かけて頂上まで登った。最後の陽光のなか夜の9時だった。
🔷チマ・グランデ・ディ・ラヴァレドの北壁
1935年8月 エミリオ・コミチ、ディマィ兄弟により初登攀
1949年9月 この北壁は高々550mであるが、最初の220mはもっぱらオーバーハングしている。ドロミチの名ガイドジノ・ソルダ、若いガイド、マゼッタと学生ローラン・ステルと登った。この壁はハーケンがベタ打ちになっていて、初登攀と比べると困難度が随分と低くなっている。季節の移り変わりの陽光があり秋も近かった。アルプスの登攀とはまた違った一日を楽しんだ。
🔷アイガーの北壁
1938年7月 ヘックマイヤー、フォルク、ハーラー、カスパレックにより初登攀
1952年 この北壁はクライネ・シャイデックを取り囲む愛すべき牧場から、まるで座興を醒まさせるかのように陰鬱に屹立している。太陽も射さずいつも日陰になっていて、わずかに頂稜を陽光がかすめている。1600mの壁はまるで病人の胸のようにげっそりとこけていて、常々霧のヴェールを纏っている。
(アイガー北壁の数々の悲劇、初登攀の記録が書かれていますが、当ブログで過去に書いたので省略します。)
フランス人の経験豊かな隊、ジャン・ブリュノ、ポール・アブラン、ピエール・ルルー、ギド・マニョヌの5人グループはアイガーの壁に取りついた。ところがヒンターシュトイサー・トラヴァースを過ぎて、上方から人の声が聞こえてきた。経験の浅いドイツ人2人組、その上にはオーストリア人のヘルマン・ブールとヨッホラーが先行していた。ブールの名前はかねてから知っていたので挨拶をしたが、返事はなく返してきたのはヨッホラーの方だった。彼らの進みが遅いのでドイツ人に先に行かせてほしいと願ったが拒否された。死のビヴァーク(ゼードルマイアーとメーリンガーが死んだテラス)を過ぎ、第3雪田を越えて≪欄干≫に達した。上の方でブールはルートを逸れたのか悪戦苦闘していた。北壁の中で3隊9人がビヴァーク態勢に入った。頂上直下300m地点にいたが嵐が近づいてきた。翌日ドイツ人の足元から崩れた岩がレビュファの頭を直撃した。ハーケンに指を突っ込んで咄嗟に横跳びしたおかげで大岩の直撃は避けられたが、断片にやられ頭から出血した。右肘も痛い。風雪のなか長いトラバース(神々のトラヴァース)を続け最後の雪田≪蜘蛛≫に達した。ドイツ、オーストリア隊と別れてクーロアールの左上方に進むが雪崩が次々に襲い掛かりレビュファを岩肌から引きはがそうとする。ドイツ隊からザイルを垂らしてもらい、コチコチに凍ったザイルを頼りにクーロアールを渡り切り彼らに礼をいう。2晩目のビヴァークではオーストリア隊は1ピッチ上で、ドイツ、フランス隊の7人は狭い岩棚に塊り足は空中か凍ったザイルのあぶみにかけた。装備の貧弱なドイツ隊を間に挟んでわずかな食糧を分け合った。翌朝は嵐は過ぎ去ったが凍るような寒気が襲い、服はバリバリに凍った。9人は一つの隊となりブールが垂壁をじりじりと突破していった。オーストリア、ドイツ隊からしばらく遅れて18時頃フランス隊は頂上に到達した。感激を分かち合い、しばし高嶺の別世界を眺め渡していたが、日没までに2時間しかないために急ぎ一般ルートをアイガーグレッチャー駅に向かって駆け下りた。

彼の本の記述に従って、六つの北壁登攀について概略を書きました。当然本文には美しい自然とまた時として峻烈な側面をみせる自然の中での山の記述、そのなかでの仲間との友情などが詩情豊かに述べられています。それを書き表す筆力は小生にはなく、原著を読んで堪能して下さい、としか言いようがありません。また彼は他にも幾多のガイドブックや山の本、山のビデオをだしており、アルプスに行ったことのない人でも臨場感豊かに山を感じられますし、行ったことのある人にとっては懐かしさと、さらにアルプスの奥深さ、素晴らしさを再認識させてくれます。
中には彼によって山の魅力のとりこになった人もいるかもしれません。かつては「星と嵐」という山岳同人さえあったかと思います(長谷川恒男など)。
一方で、山での友情を大切にする彼はアイガーでのヘルマン・ブールとの出会いの記述ではやや彼を否定的に捉えているようです。ヘルマン・ブールも伝説の山の巨人で「八千米の上と下」などの本は若かりし日に読んで心に刻まれた本です。その中にもレビュファとの邂逅、アイガーの記述があります。「遅れてやって来た五人の正体は、やがて二組のザイル・パーティーだということが判ったし、間もなく僕は彼等の中に、シャモニで識りあった懐かしい知人達の顔を見出した。まず第一にレビュファだ――声が届くところまで来たので互いに挨拶を交わす。それから後に続く連中の中にマニョーヌがいた。彼にはもう二年前にドリュの北壁で逢ったことがあるが、彼はたったこの間、モンブランの残された最大の未踏壁であるドリュの西壁の初登攀を行って素晴らしい手柄を立てたばかりだった。僕は彼に心からの祝辞を伝える。だが、このとき僕ははっとなにか感じた――いや、僕は思ったのだ。つまり、いまここでこうして国際的に高名なクライマー達と一緒になってみると、僕には自分が余りにも小さな存在で、なんだか全く余計な人間のような感じがしてきたのである。」このような記述をみると、ブールはレビュファをはじめフランス人を無視はせず、むしろ尊敬していたようにも思えます。しかし、ややブールが高名なフランス人達に気後れして一見彼らを無視したように映ったのかもしれません。ただレビュファも壁の上部でブールらから垂らされたザイルに感謝の言葉を述べています。そして一時は9人が一つのザイルパーティーとなった一体感を喜んでいます。
岩壁の中での極限状態での数パーティーの協調、葛藤、さらに多国間となると様々な行き違い軋轢が生じることと思われますが、その中でこその友情を外連味なく表現したものと思われ、単なる美辞麗句よりも実感がひしひしと伝わるケースのように思われました。ただ、人間極限となるときれいごとだけではなく、生か死かの中でぎりぎりの人間模様が現出することが判ります。両者の本は何回読んでも下手な小説を凌駕するドキドキ感があります。

新型コロナウイルスのためにステイ・ホームとなり、レビュファの山の本などまだまだ読みたい本が一杯なのですが、残念ながらまだ県立図書館は閉鎖中です。手持ちのものを引っ張り出しながら読んでいるところです。

単独登攀者アレックス・オノルド

アレックス・オノルドを知ったのは三省堂書店をブラブラしていた時に偶然山書コーナーに積んであった本「Alone on the Wall」という本の表紙のオーバーハングに命綱も付けずに取りついていた一人の若者の写真に瞠目させられたからだった。
最近はあまり山の本も読まないのだが、吸い寄せられるように手に取って購入した。
本を読んでヨセミテやアンデスの岩壁、氷壁を登った記録にもびっくりしたが、挿入された絶壁やさらにオーバーハングした岩に素手で取りついている写真にも衝撃を受けた。こんな人って実際にいるんだ、あり得ない思いだった。
Ueli Steckの時もそうだったが、この人はあまりにもありえなさすぎると思っていた。
しばらくして、また山の本をめくっていたら、単独登山者を特集した本の中にアレックス・オノルドの映画「フリーソロ」の案内記事がでていた。新宿ピカデリーの上映はすでに終わっていたようで、先日柏の映画館まで見に行ってきた。
ヨセミテのエル・キャピタンの1000m近くに及ぶ絶壁を命綱なしでフリー・ソロで登った記録映画だった。衝撃のドキュメンタリーで全米でも空前絶後の観客を動員し、新記録を達成し、エミー賞、オスカー賞、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を獲得している。まさに圧巻のドキュメンタリー映画だった。
ヨセミテ国立公園はサンフランシスコから車で約4時間、ロサンゼルスからは約6時間の距離にある。エルキャピタンやハーフドームといった花崗岩の岩壁を擁して米国のロッククライミングの聖地ともよばれるところだが、森林や豊富な動植物もみられ、人気のアウトドアの観光地でもある。
かつて2度程訪れたが、家族を伴って行ったことでも思い出深いところでもある。流石にエルキャピタンは目を見張る岩壁だったが、登ろうとさえ思わなければ威圧感、恐怖感は起きない。
アレックス・オノルドは1985年生まれの青年で、本の中で幼少時からの生い立ち、単独登攀者としての岩への履歴が語られている。一寸風変わりで、子供の頃から岩に親しんでいたようだが、友人の話では”ださくてまわりにうまくなじめないやつ”との人物像だったという。どちらかというと内気だが一貫して成績優秀でカリフォルニア大学バークレー校に入学している。工学をやろうと漠然と考えていたが、大学になじめずに離婚した父の死をきっかけに退学してしまった。そして母親のミニバンを借りてカリフォルニア中の岩場をクライミングしてまわる放浪生活を始めた。クライミングの中でもフリーソロが一番性に合っていたようで、ヨセミテなどで次々に困難なルートを達成し命知らずのフリーソロクライマーとして全米でもその名が知られるようになってスポンサー契約の恩恵にも浴するようになっていった。本の中では、ムーンライト・バットレス、ヨセミテ・トリプル、アラスカとセンデロ・ルミノソ、フィッツ・ロイと続き、「フィッツ・トラバース」に対しては2015年のピオレドール賞を受賞している。
そして本の最終章は「さらなる高みへ」で終わっている。この本が2015年の執筆で、映画の本番の撮影が2017年6月だからまさにさらなる高みへの挑戦の記録だったわけである。
本の中でも、クレイジーという評価や最高級の賛辞まであるものの、アレックスよ、無茶はするなよ、どうか死なないでくれという、クライマー、友人たちの声も垣間見られる。
この映画についての彼の講演動画がYouTubeにあり、簡潔に自身のクライムについての説明があった。
「10歳の頃にジムでのクライミングを始めたが、10年近くはもっぱら屋内だったこと。2008年までにヨセミテで行われたフリーソロのほとんどをやり尽くし、未踏の壁への挑戦を考えた。最初に挑んだのがヨセミテ渓谷の東端に聳える600mの壁ハーフドームだった。2日前に友人と登り、その後単独フリーで登ったが一番の難所を避けて迂回するルートを辿ったが、途中行き詰って、パニックに陥りそうになった。この成功は初の偉業と称えられたが、たまたまうまく切り抜けられただけで満足できなかった。幸運だのみではなく、真の究極のフリーソロとしてエル・キャピタンを登ろうと決意し、それに向けて7年間にわたり何度も何度も準備を繰り返した。ロープありで50回以上は登った。300mのロープを頂上から垂らして一日中練習してムーブが自動的にできるまでに練習した。ロープありと無しでは基本的な動作はそれ程違わないが、精神的な平静を保ち最高の力を出すにはある種の境地が要求される。それを視覚化してイメージトレーニングした。
特に地上から600mのところにある「ボルダープロブレム」というところが最難所だった。かすかに指が下向きに引っかかるコバを支えに、左脚を空手の蹴りのように岩角の内側に伸ばすところで、1年間毎晩のストレッチをしながら練習した。(実際の映像ではロープを付けながらも失敗して落下するところもあった。本番では撮影クルーの友人はこの場所では直視できずにカメラから眼を背けてしまっている。)
2017年6月3日は壁を見上げて自信を感じた。前回まよい手こずって敗退した地上から150mのところも過ぎて、疑念なく練習した通りの完璧なムーブで登っていった。ボルダープロブレムも練習通りの動きができた。最後は崖を飛び交う鳥の声を楽しんでいた。全てが祝福のように感じられた。3時間56分の素晴らしいクライミングの末に頂上に辿り着いた。それは望んだ通りのクライミングで究めたという感覚があった。」
彼は本の中でいう。「ぼくに才能があるとしたら間違いが許されない状況でも自分を保っていられる能力だと思う。深呼吸し、心を落ち着かせて、何とか切り抜ける方法がなぜか身についているのだ。(中略)ソロのシンプルさが好きだ。ソロで登っているときがいちばんうまく登れる。ソロで一番危険なのは迷いが生じるときだ。」
映画クルーはプロのクライマー、カメラマンでドローンや超望遠などを駆使しながらアレックスの邪魔にならないように配慮しながら撮っている。それでも先に難所での葛藤に触れたようにある意味で彼の最期をカメラにおさめるかもしれないドキュメンタリーに挑んでいる。恋人との葛藤、アレックスの地球環境保全への取り組み「オノルド基金」などにも触れている。単なる登攀のドキュメンタリーではなく、アレックス・オノルドという青年の生きざま、人生観も映し出している。
山に興味のない人、彼の生きざまに肯定的にならない人でも深く人生というものを考えさせるドキュメンタリーと思われ、幾多の賞を獲ったことが首肯できる絶品だった。

ザイルの二人 満則・秋子の青春登攀記

ワルテル・ボナッティは「わが山々へ」の続編ともいえる著書「大いなる山の日々」でマッターホルン北壁冬期単独初登攀・直登ルート開拓という瞠目的な偉業を最後に”アルピニズムよ、さらば”という言葉を残し、垂直の岩と雪の世界に別れを告げました。彼の現役時代ホームグラウンドとでもいえるように通い詰めたのが、モンブランの南東面でした。そしてあの悲劇的なフレネイ中央岩稜での遭難の舞台もこの山域でした。
彼の活躍から十数年遅れながら、この山域に魅せられた日本人アルピニストがいました。鴫 満則(しぎ みつのり)です。
ヨーロッパの三大北壁といえば長谷川恒男や山学同志会の小西政継らが有名で、彼のネイムバリューはそれ程でもないように思われますが、モンブランに魅せられて、コングールに逝った不世出のアルピニストだったように思われます。
本書は夫と共にモンブランブレンンバフェース、冬期マッターホルン北壁などを登攀した妻秋子が夫の没後にまとめた二人の登攀記録、手記です。
ボナッティも書いているようにブレンバフェースは「この壁は、あぶみを使ったり滑車装置を使ったりする曲芸を要求はしない。・・・この岩壁は誇り高い興味のある岩壁で、そこには岩壁と氷が調和を保っていた。この岩壁は十九世紀のアルピニズムを想い出させた。・・・」とあるように現代からすると古典的なルートかもしれません。
この本をボナッティの本を見比べながら読んでみても、その登攀記録の内容に圧倒されました。
本としては夫妻の登攀の手記が混じったり、妻秋子の語りの部分が混じったりせざるをえない体裁上やや読みずらい部分もありましたが、夫婦の山での出会い、山への情熱、夫の無事の帰りを待つ妻の心情、シャモニでの生活などが活き活きと書かれた本でした。

本書の中から特筆すべき部分を抜粋してみました。
1976年・冬 モンブラン、ブレンバ・フェース・マジョール冬期単独初登攀(満則)
1976年・冬 モンブラン、ブレンバ・フェース・ポワール冬期単独初登攀(満則)
1978年・冬 マッタ―ホルン北壁冬期登攀(満則・秋子 女性初登攀)
1979年・冬 モンブラン、ブレンバフェース、グラン・クーロワール冬期初登攀(満則・秋子)
1980年・冬 モンブラン、フレネイ中央岩稜冬期単独初登攀(満則)
1981年・冬 モンブラン、プトレイ大岩稜北壁ボナッティ=ザッペリ・ルート冬期第3登(満則・秋子)
1981年 中国新疆省・コングール北陵にて消息を絶つ(満則)

🔷マジョール単独登攀・・・森田 勝との話し合いで、冬のプトレイ大岩稜からフレネイ中央岩稜への連続登攀の約束でシャモニに着いたものの、彼から唐突にルートをドリュの北東クーロワールに変更を告げられその怒りからザイルを組むことを断る。そのうっぷんもあり、以前から考えていたブレンバへの単独登攀へ向かう。
冬のブレンバに単独登攀者が入るのは初めての試み。雪の状態が悪くころあいを見計らいつつ、シャモニと往復、3度目にして雪崩をかいくぐりアタック。セラックの崩壊をかいくぐりながらただひたすらに登高。センチネル・ルージュを越えてグラン・クーロワールをトラバースしマジョール・ルートに取りつく。岩稜を越えて、氷壁を越え、最後に頭上に覆いかぶさっているセラックに挑んだ。そこは大きな船の舳先を見上げるようなオーバーハングになっていた。その下の難しい岩と氷のトラバースを行い、ピッケル、バイルを駆使して乗り越え、氷を砕いてトンネルを掘り、モンブランの頂稜に抜け出した。もしも足元の氷が体重の重みに耐えきれなければ万事休すところだった、と。
🔷マッタ―ホルン北壁冬期登攀・・・夫婦で登ったが、女性では世界初。同時に挑んだポーランド女性隊はヘリコプターの支援を受け、女性の初登攀を狙ってきていた。後から山学同志会の3人も追いついてきていた。2回の辛いビバークの末、北壁を登り切った。同時に壁に挑んでいたポーランド隊は凍傷などで力尽き頂上直下100mからヘリコプターで救助されたとのことだ。
🔷グラン・クーロワール冬期初登攀・・・センチネル・ルージュとマジョール・ルートに挟まれたこのクーロワールは一直線にモンブランの頂上へと続く素晴らしいルートながら最上部のセラックといい、雪崩の通り道でもありあまりにも危険度が高く、かつて誰も挑んだことのないルートであった。ブレンバフェースを夏冬と知り尽くした満則の最終目標ともいえるべきルートであった。妻にさりげなく同行を求めると、当然ながら雪崩の心配をしたものの、信頼する夫に同行することを快諾した。1月の凍てついた寒気のなかをヘッドランプをつけてグラン・クーロワールへと急いだ。雪はしまっており、雪崩は全くない。夜は明けてきたがセラックは日陰になっており、日は直接当たっていない。クーロワールの喉ともいえるジョウゴの底のような灰色の氷の部分は硬くツァッケが滑りそうである。無事最難部を乗り越える。上部で空にレンズ雲がでてきた。天候悪化の兆しだ。必死にピッチをあげる。最上部の岩場はセラックが一面に岩を覆い、氷のオーバーハングを形成しており、つるつるに磨かれていた。直登は不可能だ。右斜上し唯一の出口と思われる方にトラバースした。雪が降り出し、夕方岩場の基部でビバーク体勢に入った。翌朝青氷帯からセラックの裾を回り込むようにして斜上すると緩斜面に抜け出ることができ登攀は完了した。吹雪のモンブラン頂上からバロー小屋で泊まり、慣れ親しんだグーテ小屋へのボス山稜を深雪をついて下降した。長年の夢を完成させたものの、後でこの登攀を一か八かの危険な賭け「ロシアン・ルーレット」と呼ばれたことに対して満則は怒りを覚えた。これはロシアン・ルーレットではない。一見、危険以外の何ものでもない所でも時期と時間を慎重に選びさえすれば登れる可能性があるということが実証されたのだ、と述べている。
🔷フレネイ中央岩稜冬期単独初登攀・・・1979年冬、単独でフレネイ中央岩稜核心部の最上部のシャンドルまで今一歩の所で吹雪につかまり、苦しい敗退を余儀なくされた。(長く苦しい敗退、下降を繰り返し、シャモニに帰還したのは出発9日後の事だった。)都合4回のアタックを繰り返したが、吹雪にはね返された。次第に冬期単独登攀者も増えてきた。フレネイへの思い入れも募り、翌年2月にまた挑んだ。取付きから空身でザイルをフィックスし、下降してザックを背負って再び登ることを繰り返しながら登攀した。二人で登る時よりもランニングビレーを多めに取り、絶対落ちないことを念頭に登り出した。スラブからチムニー、クラックとなり、雪と氷に覆われた苦しい内面登攀が続いた。しばらくして、突如右手のクーロワールにゴーという激しい音とともに雪崩が起こった。その中に赤や青のザックが混じってきた。その後からなんと手足を拡げた人間が落ちてきてあっという間にシュルントに飲み込まれていった。しばらくして救助のヘリが上空に飛んできてプトレイ山稜上部の仲間の登山者を吊り上げて行った。そしてプトレイのコルを何回も旋回し遭難者を捜索していた。彼自身では何もする事が出来ず、気をとりなおして登攀を続行した。外開きのチムニーは難しく手袋を外して素手で登った。感覚を失いかけ墜ちる寸前に雪のバンドに出た。首筋に手を入れると失った感覚の痛さが蘇ってきた。ビバーク中もヘリはやって来てサーチライトで捜索を続けていた。翌日ヘリは近づいて来てホバーリングした。救助が必要か問いかけているようだった。シャンドルの方を指差して登る意思を伝えるとパイロットは頷き雲の彼方に去って行った。雪の中をやっとのことでシャンドルのテラスに到達した。一本の古いクサビがあった。かつての悲劇の舞台のボナッティらの痕跡かと想いを偲んだ。翌日は風は強いものの天気は回復してきた。核心部シャンドルの登攀だ。ハングになったチムニーを必死の思いで人工とフリーで越す。かろうじて岩に引っ掛けたナッツを頼りに越すことが出来た。一日かけてたったの3ピッチ。狭いスタンスに効かないハーケンを打ってビレーしビバークした。長く苦しい夜が明けて、さらに岩雪氷のルートが続いたが、核心部を抜けたことで勝利を確信できた。強風の中をモンブラン頂上へと進んでいった。
🔷プトレイ大岩稜北壁ボナッティ=ザッペリ・ルート冬期第三登
プトレイ大岩稜からフレネイの「氷のリボン」への連続登攀を目指して夫婦で挑んだ。これはかつて誰も試みた事がないルートだった。秋子にとっては2度目の冬のブレンバだった。ギリオーネ小屋からトラバースしムーアのコルに至る。グラン・クーロワールを越えて1000mもあろうかと思われる長いトラバースを経て、ポワールの基部を回り込み、北壁の基部に到達。雪壁と氷壁を直上し、難しい凹角を人工とフリーのミックスで越す。そして狭い岩棚でビバークした。翌日は頭上の覆い被さるセラック下の氷壁を弱点を探しながらトラバースしプトレイ山稜に抜け出した。ここで、プトレイのコルへ下降し、フレネイの「氷のリボン」へと継続登攀をするか、このまま直上するか迷った。しかしあまりにも雪の状態が悪すぎた。いまにも雪崩れそうな下降路だった。連続登攀の夢は破れむなしさがこみ上げたが、北壁の冬期第三登を果たせた。プトレイの上部は硬い氷壁になっており、強風も吹き荒れ、さらに頂上直下で1ビバークを強いられた。

タラレバになってしまいますが、もし彼がコングールで遭難しなければ、単独であるいは夫婦でもっと素晴らしい登攀を続けていったように思われてなりません。

ワルテル・ボナッティ 著「わが山々へ」より

小森康行  著「ヨーロッパの岩場」より

ワルテル・ボナッティ わが山々へ

20世紀アルピニズムのレジェンドといわれる人の若き日の山行の記録です。
何で、今その読書感想文を、と思うと自分でも全くその理由を書けません。ただ、読む気になってその時間があったからというのも安直すぎるけど、もう10年近く前に亡くなってからずっと心に引っかかっていたというのもうそっぽいのです。
とにかくいつか書こうかなと思っていたその感想文(?)を。
ある雑誌の切り抜きをこの本の裏に挟んでいて、それをみると2011.9.13 81歳で(すい臓がんのために)死亡と書いてあります。
ただ、この稀代の天才アルピニストが活躍した期間は短く、1949年(19歳)のグランド・ジョラス北壁登攀から1966年(36歳)のマッターホルン北壁冬季単独登攀までの高々20年足らずです。この本はその中の1961年のモンブランフレネイ中央岩稜の遭難顛末までの記録が書かれています。
その活躍した時代から分かるように、ある世代から上のアルピニストにとってはレジェンドというか、むしろ神様のような存在かもしれませんし、若い世代の岳人にとっては単に過去の人、或いはそれ誰、といった感じかもしれません。

記録は17章からなっており、それぞれが時代の最先端をいくような画期的な登攀であったり、遭難寸前の限界的な登攀であったりで、その中のいくつかは偉大な物語あるいは、登山史を形作るものといっても過言ではないような山行ばかりです。
物語はいきなりグランド・ジョラス北壁の登攀記録から始まります。生涯の友人でザイル仲間であったアンドレア・オッジョーニとパーティを組んでいます。19歳での北壁第3登を成し遂げました。
グラン・カピュサン東壁はシャモニ、ミディ針峰からバレ・ブランシュの奥にひときわ高く聳えている赤い大岩塔です。21歳の若き日に4日間の苦闘の末に初登攀を成し遂げました。ただ、前年嵐のために途中で敗退したことで事前にルート工作をしたとか、ハーケンを残置し過剰に使用したなどとの批判を浴びます。しかしオーバーハングの続くこの岩壁で半分以上のハーケンを抜き取りながら、ボルト1本使わず登り切ったことは当時では想像を超える画期的な登攀でした。彼も悪天候のために失敗した僕らの登攀はすでに勝利に手がとどきそうに感じられていた時に、退却を強制された不運な試みとみなされるべきと述べています。
24歳の最年少で彼はK2イタリア遠征隊の一員に選ばれます。イギリス、フランスなどのヒマラヤ遠征の成功に遅れじとのイタリア登山界の機運が漲っての計画でした。登頂に当たり、最終キャンプに残ったのはアレッキ・コンパニヨーニ、リノ・ラチェデッリの2人でした。第9キャンプの彼らに酸素ボンベの荷揚げをしたボナッティとポーターのマディは上の2人が約束の場所より上にテントを張り、また日没後も居場所を知らせずに、「そこに酸素ボンベを置いて下山しろ」といったきり応答がなくなったため、着の身着のまま8000mの高所でビバークを余儀なくされました。そして後に彼の行為は自らが頂上に立とうとした抜け駆け行為であり、また勝手に酸素を吸ったと非難されました。(ボナッティは自らの名誉を回復するために裁判を起こし身の潔白を訴えましたが、ラチェデッリが誤りを認め、ボナッティの言い分を認めて、イタリア山岳会が公式見解を訂正したのは実に50年後の2004年のことでした。)
K2で心に痛手を負ったボナッティは1955年、ドリュ南西岩稜の壮絶な6日間にわたる単独登攀を成し遂げます。この本では明確には書いていませんが後に「K2登攀のあとの一種の買戻し行為だ。抗議だったんだよ。」と述べています。Z型確保という独特の自動確保をとりながら、ワンピッチごとに登降を繰り返しながら登っていきました。食料をアルコール燃料の漏れでダメにしたり、ハンマーで指を叩き血だらけになったりしながらビバークを重ねました。5日目になってどうしても越えられないオーバーハングにぶつかってしまいます。ここではザイルの端にこぶを作って投げ縄で岩の突起に引っ掛け虚空に振り子トラバースを敢行します。その後も幾多の振り子トラバースを繰り返しオーバーハングを突破して6日目に一般ルートからサポートに登ってきたチェザーレ教授らと再会しました。
その後、モンブランの南東面で初登攀を含め、多くの登攀を行いました。1957年プトレイ大岩稜初登攀、ブルイヤールの赤い岩稜初登攀、ブレンバ側稜、ポアールルート、マジョールルート、そして悲劇のフレネイ中央岩稜がこの本の最後の章になっています。その間にカシンが隊長を務めたガッシャーブルムⅣ峰初登攀、南米パタゴニア・アンデスでの登攀の記録も書かれています。ガッシャーブルムⅣ峰は8000mに手が届く難峰で、ワルテルとC.マウリは高度な人工登攀、Ⅴ級のクライミングを行い初登攀を果たしました。これは画期的なことで、ヒマラヤ8000m峰のバリエーション時代の先駆けとされます。
フレネイ中央岩稜では無二の親友であったアンドレア・オッジョーニを失いました。数年来温めていたプランでした。3人でトリノ小屋から出発した彼らはフルシュの避難小屋でマゾーらのフランス隊4人が同じ壁を狙っているのに出会いました。彼らの提案を受けて合同で出発することになりました。フルシュのコル、プトレイのコルを越えて、岩稜に取りつきましたが、出発から24時間で岩稜の2/5を登り、ビバーク翌日も順調でお昼頃には最後の尖塔の下部に達しました。ところが一転嵐が襲ってきました。雷鳴、風雪のために7人は小さな岩棚に釘付けになりました。わずか半日の晴れ間があればモンブランの頂上に到達できる位置でした。しかし、吹雪は60時間たってもやむ気配すらみえません。とうとう彼らは退却を決心しました。長く苦しい下降をしてプトレイのコルの近くで4回目のビバークを耐え忍びました。その頃から皆瀕死の状態に陥ってきました。一番元気なワルテルが先頭に立ち、ルート工作をしながら危険なグルーベルの岩場を越えてガンバ小屋を目指しました。ここから次々に斃れていきました。ヴィエイユ、ギョームさらにイノミナータのコルを越せずにオッジョーニも斃れてしまいました。コールマンは半狂乱の状態となり斃れ小屋迄たどり着いたワルテルとガリエーニが救助を求め、マゾーは救出されましたが、他の隊員は亡くなりました。
「ぼくは深い麻痺状態に陥る。目を覚ました時には、3時間が過ぎていた。仲間たちの遺体は、ヴィエイユをのぞいて、次々と収容された。「オッジョーニは死んだ・・・・」この言葉を聞いて、おさえがたい悲痛な気持ちに胸をしめつけられる。救援隊が発見したただひとりの生存者の親愛なマゾーは、ぼくに抱きつき、いっしょに泣く。」
という文でこの本は終わっています。
この遭難についても、新聞はまるでボナッティは自分だけが助かったかのように書きたてました。

この後、モンブラン プトレイ大岩稜北壁初登攀、グランド・ジョラス北壁冬季初登攀、など瞠目的な登攀を行いましたが、先にのべたようにマッターホルン北壁冬季単独初登攀を最後に山岳登攀の世界からきっぱりと身をひいてしまいました。
アルピニズムよ、さらば!・・・僕は決心した。山を下りることになるだろう。だが、谷間にとどまるかどうかははっきりしない。というのも、あの山の上で、べつの広大な地平線を見とどけたからだ。

彼ほど自分の意図したことと違って、その山での行動に非難、中傷を浴びた人も少ないかもしれません。すべてはK2での風評が付きまとっていたからかもしれませんが、彼が他人よりも抜きんでて肉体的にも山での精神力でも強く、他の人が斃れても最後まで生き抜けたから勘繰りややっかみがあったのかもしれません。時代を突き抜けた超人の悲しさかもしれません。「人事は棺を蓋うて定まる」とはよく言われる言葉ですが、ボナッティの評価は20世紀アルピニズムのレジェンドとして高まることはあっても薄れることはないように思われます。

K2のことがなければ、もっと違った息の長いアルピニストとしての活躍があったのかもしれませんが、逆にその故にこそ超人的な限界を超えるような爆発的な輝きがあったのかもしれません。

ただ、この本にしても世間の中傷、批判から自身の身の潔白を示す意味で書かれた部分はあるのかと思いますが、そういった外部事情なしに純粋に彼の山への情熱、活躍の部分だけが読み取れればいいのにと思います。しかしながら、ついその他の雑音を気にしながらの読書となってしまうのは、何か残念な気がします。それは読み手の“下衆の勘繰り”のなせるわざかもしれませんが。

風雪のビバーク

風雪のビバーク  松涛 明

久しぶりの山の本の記事です。といっても実は以前同名で当ブログに記事を書いているのですが、ある時ブログがダウンしてしまってこの部分も復元できずに反故になってしまいました。皮膚科の内容は昔のこととてそれ程気にも止めませんが、むしろ山の本のことはずっと気にかかっていました。その中の一つがこの本でしょうか。それで図書館から借りてもう一度読んでみました。
著者の松涛 明(まつなみあきら)の紹介文として次のように書いてあります。
「1922年仙台に生まれ、府立第一中学校から東京農大に学ぶ。中学時代から登山に熱中し、1938年7月東京登歩渓流会に入会。つねに尖鋭なクライマーとして活躍した。1949年1月、槍ヶ岳、北鎌尾根において打ちつづく風雪のため遭難死す。行年28歳」

本書は、松涛明亡き後、北鎌尾根遭難の顛末を風雪のビバークとして、杉本光作らの登歩渓流会がまとめたものと、生前の彼の寄稿文、記録集よりなる遺稿集という体裁をとっています。それゆえに全体の松涛明の本としてのまとまりには欠けますが、短かった彼の山の人生の足跡、考えを知ることができます。なにより遭難し、最期の時まで克明に記された手記には読む人に感動と感涙の念を起こさせ、不朽の山岳名著として有名です。
彼らが遭難した北鎌尾根は山岳愛好家にとっては特別なところのように思われます。それは、当の松涛 明の壮絶な遭難の手記とともに、これまた山岳家のレジェンドともいえる加藤文太郎が遭難死したところでもあるからです。北鎌尾根は日本アルプスの中でもひと際目立ち、秀麗な槍ヶ岳から北に連なる岩尾根です。風雪のビバークは遭難報告、手記部分ですが、生前の松涛明の山行、文章には早熟な非凡な才能を感じます。もしも彼がそのまま生きていたら日本の登山界をリードするような山岳人に成長したのではないかと思わずにはおられません。
本書の山行記録の中で特筆すべきはわずか18歳での北穂高岳滝谷第1尾根の冬季初登攀、遭難前年の北岳バットレス中央稜初登攀の記録でしょうか。戦前の(昭和14年)それ程良い装備もなく、滝谷もそれ程開拓されていなかった時代に、日本でも一級の岩場の冬季滝谷を初登攀しています。しかも本格的な岩登りは前年に始めたばかりです。東京登歩渓流会に入会1年わずかですでに尖鋭的な登山をはじめています。滝谷の登攀は夜間にまで及び、皓々と月の照る北穂の頂上に抜け出したのが夜の22時15分だというから驚きです。後年「貧弱な私の経験を通じて、この登攀は最も苦しくもあり、かつ想い出深いものであった。もう一度やれと言われても恐らくやれないかと思う。」と述懐しています。
北岳バットレスは戦前から何回も通った岩場ですが、昭和23年はその集大成ともいえる1週間にもわたる大樺沢生活を送り北岳バットレス概説をしています。第1尾根から第5尾根までほぼ全ての尾根を登りつくし、23年合宿では直接北岳頂上に突き上げるクラッシックで北岳で最もハイライトともいえる中央稜の初登攀を成功させています。
これ以外にも昭和15年の「春の遠山入り」では、伊那ー易老岳ー聖岳ー赤石岳ー悪沢岳ー椹島ー伝付峠と3月の雪深い長大な南アルプスを1週間にわたって単独で横断した記録で目を見張るものです。
その他、短期間に丹沢、谷川、穂高、南アルプス、八ツなどを精力的に登っています。

単に登るだけではなく、登山に対する真摯な考えを持ち、会報に鋭い考察も寄稿したりしています。特に3年程の兵役を終えて、戦後になると登歩渓流会の中心人物になっていったようです。会の重鎮の杉本光作氏は「約3年間の軍隊生活は、彼を人間的に大きく成長させていたようだった。一言でいうならば、人格に一段と磨きがかかった感じだった。復員してからは物資不足と安定しない世情にもかかわらず、再び山への闘志をかきたてて戦前にも劣らない山行を続けていたのだった。戦後は会の古い人達も殆ど山から遠ざかっていたので、松涛君が事実上の会の指導者だった。山行の傍ら会報の編集、発行、発送まで一人でやっていた熱心さにも頭の下るほどだった。山に対して卓越した識見を持ち、会をぐんぐん引っ張って行ったのもこの頃である。」と述べています。さらに自ら学生でありながら極地法をとる日本山岳会や学校山岳部の在り方に疑問を持ち、登山は大衆のものだとの考えから山岳連盟の必要性を主張し、将来のヒマラヤ登山に対しても一家言をもっていたそうです。
寄稿文も単なる報告ではなく、一方で簡潔で正確を期しながら、一方で情景の描写は活き活きとして伝ってきます。タラ、レバながら遭難しなければ戦後の登山界のリーダーとなっていたのでは、と思わせます。

次に私の好きな一節を引用します。
戦後山どころではなく、山を忘れようと自分にいいきかせようとして暮らしていた頃の文です。
『ある日、私は隣村に通ずる橋を渡って、伯父の家へ急いでいた。今まで貸していた土地の問題について伯父の知恵を借りるために。もう夕暮れ近くなって、涼しい風が田の面を渡っていた。稲の青い穂が波打って、秋が近づいていた。田園の果に、筑波、加波の山波が夕陽を浴びて黄ばんでいた。その上に、山の高さの数倍の高さに、巨大な積乱雲が盛り上がっていた。紅みがかった円い頭は、なおも高く湧き返っているようだった。その姿は突然、私にかつての日の夏の穂高を思い起こさせた。それは烈しい、自分自身でどうにも抑えられぬほどの山への思慕であった。静かな夏の夕暮れ、人気の絶えた奥穂高の頂に腰を下ろしている時、ジャンダルムの上に高く高く聳えていた雲は、この雲ではなかったか。そして今もまた、この雲があの穂高の上でひっそりと黙って湧き上っているのではないだろうか。
「山へ行きたい」、「穂高へ行きたい」。もう用件も何もあったものではない。すぐ家へ帰って、ルックを詰めて・・・。よほどのこと、私はそうしようかと思った。』・・・時として自分にもこのような感情が湧き上がることがありました。

戦後の山への活動を再開させて、さらに高みへと邁進していた時に突然、終止符が打たれます。それがこの本の題名にもなった槍ヶ岳北鎌尾根での風雪のビバークです。実はこの計画には先があって、穂高を経て焼岳までの縦走を計画ししかもノンサポートで、荷揚げも行わず、約1ヶ月分の食料装備一切を2人で担いで行動しようという壮大なものだったそうです。
遭難には想定外のことが積み重なって起こることが多いですが、この山行も普段とは様相が異なっていました。まず、12月年末には異常なほどの気温の高さです。23日の手記。「雪の消えた事オドロクばかり、P2の側稜はまるで五月の山で、地肌さえでている。P1との間の沢へ入って中間の側稜を登ったが、非常に苦しかった。」
その後の雨風です。大雨でずぶ濡れになり、テントも濡れ、有元との合流は数日遅れ、濡れたテントはバリバリに凍り、残置し、ツエルト、雪洞泊に予定変更しています。ラジウスは焚きっぱなしで後日の器具の不調にも繋がったかもしれません。しかも26日には「熱っぽく、耳下腺腫れる。雨もひどいので休養とす。朝食抜きで11時頃までねる。午後有元にヤッホー送るも応答なし。」とあり、27日には「豪雨沈澱、テント破れんばかりにはためく。」 28日には有元と合流し一旦下山、その後一転して気温は降下、30日は湯俣からP4手前でビバーク、31日は「アラレ、ミゾレの中のツェルトビバーク、雪はげしくツェルトを覆い、首の根を抑えつけられた。これまでに最も苦しいビバーク。身体は濡れ殆ど眠れず、燃料消費烈し。」と。
明けて1月1日は大風雪、アイゼンも輪かんも効かず、烈しい風雪中に苦闘しやっと北鎌コルに雪洞を掘り逃げ込むもラジウスが不調となりました。 1月2日「ラジウス破壊、然罐とガソリンの直焚きで水を作る。7時頃息苦しくて気付いてみると入口閉塞、有元掘る。動揺激しく、風雪は昨日にもましてひどいし、濡物もそのままなので1日沈澱。上るか、下るかの岐路に立つ。」とあります。実はここが生死の分かれ目だったかもしれません。そのままならば撤退していたかもしれませんが、皮肉にも「夜星空となる。ラジウスも応急修理で何とか燃え出したので明日は登高とする。」と書いてあります。つかの間の偽りの天候回復だったようです。
1月3、4日も風雪、有元は足を凍傷にやられ、それでも悪戦苦闘の末悪場独標越えをしています。夜中には小さい雪洞の入口は風で飛ばされ、全身雪で濡れる、と遭難寸前の状態です。(後の記録でも雨、ミゾレ、吹雪と続く気象は異常で1月4-8日に亘る大吹雪は記録的なものだったそうです。)
1月5日 フーセツ SNOWWHOLEヲ出タトタン全身バリバリニコオル、手モアイゼンバンドモ凍ッテアイゼンツケラレズ、ステップカットデヤリマデ ユカントセシモ(有)千丈側ニスリップ上リナホス力ナキ タメ共ニ千丈ヘ下ル、カラミデモラッセルムネマデ、15時SHヲホル
1月6日 フーセツ 全身硬ッテ力ナシ 何トカ湯俣迄ト思ウモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス オカアサン アナタノヤサシサニタダカンシャ、一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス。何ノコーヨウも出来ズ死ヌツミヲオユルシ下サイ・・・
有元ト死ヲ決シタノガ 6時 今 14時 仲々死ネナイ 漸ク腰迄硬直ガキタ、全シンフルヘ、有元モHERZ、ソロソロクルシ、ヒグレトトモニ凡テオワラン ユタカ、ヤスシ、タカヲヨ スマヌ、ユルセ、ツヨクコーヨウタノム サイゴマデタタカフモイノチ 友ノ辺ニ スツルモイノチ 共ニユク(松ナミ)・・・
我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル、個人ハカリノ姿 グルグルマワル 松ナミ、・・・
数次にわたる捜索隊は7月末に千丈沢の四ノ沢出合い付近で2人の遺骸を発見しました。カメラ、手記は散逸しないようにライファン紙の袋に入れて、岩陰の流出の恐れのなさそうな場所に置いてあったそうです。
この山行の計画、天候予想、行動の判断など後にはいろいろと論評があるようですが、遭難最期にこのようにかくも冷静に手記を認めたことには驚きを禁じえません。何か死を達観して従容として死地に向かう侍のようです。これは戦争を経験した当時の人々の人生観もあるのかもしれません。同時代に活躍した岳人であり、文筆家の安川茂雄は書評に次のように書いています。「私たち(私も三島同様に大正14年だが・・・)の同時代には、たしかに死はごく身近な存在であったことはたしかである。・・・例えば、本書中にのこされた松涛の遺書、それは三島のそれとは明らかに異るのではあるが、そこにつらぬかれている死への距離、あるいは親しさといったものに無限の感動を覚えるのだ。・・・三島が葉隠れ論語中の「武士道とは死ぬこととおぼえたり」という言葉にいたく感銘していたそうだが、松涛のこの遺書中には「アルピニストとは死ぬこととおぼえたり」の印象を私など胸にうけるのだ。」
安川のこの文が松涛の考えそのものを代弁したものかどうかは分かりませんが、あの時代に青春を過ごし戦場で明日をも知れない毎日を送り、現に戦場で散っていった仲間を幾人もみたであろう人はどこか自分の死すらも達観して見られた、あるいは死に遅れた余分な命という気持ちがあったのでしょうか。
この本は最近もまた別の発行元より、再版されています。確かそこには手書きの遺書のコピーが載せられていました。それを思い起こす度に深い感動を抱かずにはおれません。遭難、また彼の全てを美化するつもりはありませんが、そのような時にはまた本書を紐解いて彼の足跡に触れてみたくなります。

日本アルプスの登山と探検

本書は日本近代登山の師とも呼びならわされるウォルター・ウェストンの若き日の日本アルプスの登山記である。
ウェストンは1861年にイギリスで生まれ、宣教師として1884年に来日した。1894年に帰国したが、これはその時期の紀行文である。その後、1902年新婚のエミリー・フランシスを伴い再来日、1905年まで聖アンデレ教会の司祭として横浜に居住した。さらに1911年から1915年まで三たび来日し、横浜に居住した。
本書は1896年英文で上梓されたが、それから7年後に横浜の岡野金次郎という青年がこの本を偶然手にし、心臓が止まるばかりに驚いた。散々苦労してこの夏登ってきたばかりの槍ヶ岳の写真までも写っていたからである。
このことが小島烏水に知らされ、後にウェストンとの交流から日本山岳会への設立へと繋がっていったそうである。
彼は英国山岳会にならった団体を日本にも作るように勧め、帰国後も様々なアドバイス、激励の手紙を書いたとのことで、日本近代登山の師と仰がれ、毎年ウェストン祭が行われるのも頷ける。
しかし、この本ははただ一人の山好きなイギリスの青年の異国での見聞録で、後世の評価のような大層な目的のための書でも、日本人に向けての書でもない。その分純粋な山への情熱が伝わってくるし、率直な当時の日本への感想も知ることができ興味深い。内容について個人的な思いも含めて書いてみたい。

まず感じるのは当時の日本と英国の山登りに対する認識の違いである。日本ではまだ個人の楽しみ、趣味としての登山という概念は一般にはなかったようである。従って、彼は行く先々で何のために山に登るかと訝しがられる。銀や銅などの鉱物が目的か、何か宝物でも探すのか、といった具合である。
また、当時の中部山岳地帯の景観、地元民の生活、風習などが事細かに活き活きと簡潔に記されている。決して美文調ではないが誇張のない実態が浮き彫りにされている。
「僕が、あえて詳細な旅行記を書いたのは、その土地のほとんどが、人に踏み慣らされた道をはずれて、事実上世に知られていない土地へ足を踏み入れたからである。そこには、典型的な日本の風景とは少しも結びつかぬ雄大で野生的な景観があった。また一方、手厚いもてなしを受け、頗る楽しい交際を結ぶことのできた農民たちの間に伝わる、昔ながらの風習や迷信も、それなりに注目すべきものである。」と書かれている。

彼の紀行文を読み進めると、風景や風習のディテールへ良く注目していることがわかるが、それにも増して広い山域を大掴みに捉えていることもわかる。山頂から四方に眼を向けて遠望を捉えていて、岩の質、種類についても記述があり、地学の素養が感じ取れる。
紀行は碓氷峠越えから軽井沢、浅間山登山に始まって、槍ヶ岳(試登)、木曽駒ヶ岳から天竜川下り、乗鞍岳、そして念願の槍ヶ岳登頂と続く。さらに赤石岳、針ノ木雪渓から峠越え、上条嘉門次との前穂高岳登攀、5月の富士登山、恵那山から天竜川下り、白馬岳、そして、地元民の迷信に妨げられつつやっと登った笠ヶ岳、常念岳、そして御岳と書き進んでいる。
彼の紀行を通して、当時の日本の交通機関や道路事情もよくわかる。当然のことながら、文明開化間もない時期なので、鉄道は一部出来たばかり、地方までは伸びていず、鉄道馬車、人力車が多くなる。また道は貧弱で御者、車夫も慣れていない人も多かったようでいろいろと苦労している。むしろ歩いたほうがよかった所もあったようだ。ただ、一方で文明開化が急速に進み、古いよいものが壊されて便利になるにつれ、外国人擦れして、料金は高くなり、対応も良くなくなる傾向があることも嘆いている。
外国人を初めてみる人々の戸惑いや珍奇な物をみるような好奇心に当惑しながらも、一見教養のない田舎の人々でも少し接してみるととても礼儀正しく、親切で真の教養は特有の階級の専有物ではないと感心している。しかしまた一方でごまかしをしたり、知ったかぶりをして役にたたない案内人などにも触れていて人様々と感じる。
時間のルーズな事、運送便の遅さにも触れていて、日本には「時は金なり」という観念がないと述べている。現在の日本の正確、厳密な時間感覚からは想像もつかない。文明の発達というものは時間感覚を変えるのだろうが、当時はゆったりとした時の流れのままに生きていけたのだろう。
また文のあちこちで触れているのが、宿屋や山小屋での蚤の被害だ。日本への旅行者へのアドバイスとして必ずノミ取り粉を持参することと書いている。あと宿屋で辟易しているのが、夜遅くまで続くどんちゃん騒ぎと襖一枚しか隔てのないプライバシーのなさだ。こちらは現代でも当てはまる処があるのかもしれない。
彼は日本料理と温泉は気にいったようで登山の端々に記している。
彼の山行記録は実に淡々としている。客観的な事実が述べられていて取りたてて誇張もなく、すっきりした感がある。
針ノ木雪渓では「堅く凍った雪渓は、三十八度近くまで勾配がきつくなり、猟師たちは、雪渓を通るのを嫌がった。」
また、ガラ峠の先では「やがて、六十度も傾斜している赤土の斜面を横切らなければならなかった。」などと記述している。険しい岩場などではむしろその登攀を愉しんでいる様子がみられる。本場ヨーロッパアルプスでの岩登りや氷河を経験してきた彼にとっては日本アルプスでの岩場や雪渓も5月の雪の富士山も特に手強いものでもなかったのだろう。むしろ渓谷の岩の上に付いた苔でスリップし、草鞋の威力を知り、鋲靴に草鞋を重ねるなどの工夫をしている。
彼の一連の登山の中で、小生が最も興味をそそられたのは、上条嘉門次と一緒に登った前穂高岳の記録だ。嘉門次小屋を出て、前穂の東面から前穂高岳に登り、その日のうちに下山している。はっきりとルートは判らないが北尾根を登ったそうなので、5、6のコル辺りから登下降したのだろうか。(東壁~北尾根というルートをとった前穂高岳である、と訳注にあるが、まさか、現在の前穂東壁ではなかろう。これはもう本当の岩壁登攀になってしまうから)
この登攀のことも彼は「ここの岩は、ぼくが経験したどこよりも、嶮しく固かった。僕たちは、全精力を登攀に傾注した。それだけに極めて痛快であった。」と書いている。当時としては特筆すべき山行のように思われる。

この書は最初に書いたようにウェストンの第一回目の、若き日の山行の記録である。従ってまだ夫人も登場していないし、日本山岳会との交流もない。ましてや後年日本近代登山の師などと呼ばれることなど想像もつかないことだろう。また都合17年間も日本に居て、そこが第二の故郷になることも想像していなかったろう。
むしろ、後年のことを度外視して読むと、好奇心と観察眼にあふれ、温かみのある、本当に山好きな一人のイギリス青年が浮かび上がってくるように思われる。

リカルド・カシン 大岩壁の五十年

リカルド・カシン(Riccardo Cassin)
大岩壁の五十年 (50 years of alpinism)

リカルド・カシンは1909年生まれのイタリアの天才クライマーです。
1930年代には、アルプスにおける数々の困難なルートを初登攀し、近代のアルピニストの旗手といっても過言ではないでしょう。戦前に活躍したクライマーなので、過去の登山家といえるかもしれません。
しかし、1975年、66歳になってもあの世界で最も難関とされたローツェ南壁にイタリア山岳会の若いクライマーを率いて挑戦したように戦後もアルピニズムの第一線に立って活躍を続けていました。
この本は1977年にイタリア語で書かれ、1981年に英訳版が発行されました。これらを基に1983年に水野 勉氏が翻訳しました。
 著者はこの本を書いた経緯を本のはしがきに次のように書いています。
『「リカルド、なぜ君は自分の登攀について本を書こうとしないのだ。アルプス前山にはじまって、アルプスやドロミテの登攀のこと、さらに、輝かしい海外遠征と、書くことはいっぱいあるじゃないか」 わたしはしばしばそう尋ねられ、自分でもそのことをいく度か考えたことがあるが、それほど真剣には考慮しなかった。しかし、1975年のローツェ南壁の登攀に失敗して、軍用機で故国へ向かっていたとき、またもや、この問いかけがわたしをうるさく悩ましはじめた。・・・まったく皮肉なことだが、あのときこそわたしがクライマーとしての自分の生涯においてはじめて敗北感を味わったときなのだった。』
数々の成功と共に初めての失敗を経て山々が人知を超えた人生の教師であることを強く認識し、その長い登山経験を身内にたぎる熱い血潮と情熱で書き綴ろうと思ったと、いうようなことを述べています。実に山の真打ちが人生の円熟期に至って初めて書いたといった本なのですが若々しい躍動感に満ち溢れている不思議な本です。
  
カシンの初期の登山はロンバルディのグリニァというロック・クライミングのエリアから始まりました。17歳の時コモ湖の近くのレッコという町に移り住みその後終生彼のホームタウンとなりました。当初夢中になっていたボクシングをやめて短いが困難なルートを次々に制覇していきました。相棒はマリ・ヴァラーレ 、マリオ・デッロロ(愛称ボガ)などでした。より困難な課題を解決するためにこの頃からカシンはすでにピトンを単なるプロテクションとしてだけではなく、より積極的な補助用具として使い始めていました。マリの紹介でエミリオ・コミチに出合い、人工登攀の考え方やダブル・ロープなどのドロミテ・テクニックを学びました。それで、一部では彼らのことを「はしご職人」とけなしたりしました。
彼は次第にそのグリニァ山域より巨大で垂直にそそり立つドロミテ山域に目を向け興味をそそられていきました。
1935年には、彼の若きザイル・パートナーのヴィットリオ・ラッティと共にトッレ・トリエステの南東リッジを初登攀しました。二人はオーバーハングを越えた所に見つけた洞穴でロジンの臭いのするユリを褥として数時間のビバークをしました。「穏やかな8月の夕べには、月光が冴え、頭上には暗闇の中に大きな岩塔がそそり立っていた。ラッティにはそれまでの経験の中でも、心から愉快なひとときだった。今になってみると、これらの時間はさらに一層重要なもののように思える。彼は戦争の暴力の中で死んでいったからである。」と書いています。苦楽を共にした最愛の友への哀惜のこもった言葉です。オーバーハングを混えて、5級、6級の連続する困難なルートでした。
その後、二人はチマ・オベスト北壁を狙います。先の成功の勢いをかって祖国のためにもドイツ人との初登攀争いに挑みました。オーバーハングの続く垂壁を辿り、左方へ難しいトラバースをして、大クーロワールを登り頂上に達しました。嵐の中でのビバーク、後半は雪と氷の中での登攀でした。
1937年にはエスポジト、ラッティと共にピッツ・パディレの北東壁を登りました。オーバーハングの出口で落石に合いながら、また嵐のビバークに耐えながら登攀に成功しました。しかし、同時に合流して登攀したコモの2人組は疲労と寒さに耐えきれず息絶えました。
1938年は彼の最も輝かしい、金字塔となる初登攀の年でした。
ジノ・エスポジトとウゴ・ティッツォニとともにアイガー北壁を狙いました。しかしクライネ・シャイデックについてみるとすでに、ドイツ人とオーストリア人のパーティーが壁に取り着いていて、嵐の中を初登攀に成功しました。それには人間としては喜んだが、イタリア人としてはひどく落胆した、と正直に述べています。それで、アイガーの次に考えていたグランド・ジョラス北壁ウォーカー稜に狙いを定めました。
この登攀はカシンが常にザイルのトップを務めてルートを切り開いていきました。出だしのカシン・クラックはあまりにも難しく、その後の多くの登攀者は左手のレビュファ・バリエーションを登るとのことです。巨大な氷のジェードル(本を開いたような凹角)を越え、オーバーハングを避けて、振子トラバースを行い、灰色の岩塔の下のレッジ(小棚)に達し、そこで2回目のビバークをしました。天気は崩れ、雹や雪も降り出しました。しかし3日目の午後3時頃嵐の中をウォーカー稜のピークに立ちました。
 しばらくして、戦争が始まりました。彼はムッソリーニやナチズムと対抗すべく、パルチザン活動に携わりました。その戦闘の最中にラッティは命を奪われてしまいました。カシンも負傷しましたが、生き延びて軍功十字勲章をもらっています。
 戦後になると、カシンはイタリア山岳会レッコ支部長や、イタリア登山学校連盟会長などの要職を務めながら、それまで登っていなかった山や以前の山の再登攀を行いました。 
1954年にイタリアはデジオ教授率いるK2への遠征を行い登頂を勝ちえましたが、当初登攀リーダーと目されて教授と共にカラコルム視察までしたカシンはメンバーから健康診断の理由で外されました。しかし、彼はそれは建前で、実は教授がカシンに主導権や名声を取られるのを恐れて排斥したのではないかと述べています。(本の注釈では、デジオがカシンを、学術目的に脅威を与えかねない人物として考えるようになったともいえる、と書いてありました。真実はどうだったのでしょうか。)
1957年にはイタリア山岳会は今度はカシンを第2回イタリア・カラコルム遠征隊の隊長に選出しました。彼はマウリやボナッティを率いてガッシャブルムⅣ峰を征服しました。彼自身は登頂しませんでしたが、高所に耐えられることを確認し、K2の無念さを改めて感じました。頂上直下は4級から5級の難しさで、当時のヒマラヤでは最も困難な登攀でした。
1961年にはマッキンリーの南壁登攀に挑みました。若いレッコの仲間5人と共に困難な氷と岩壁を登り、全員登頂に成功しました。その下降は壮絶なものでした。体調を崩し、凍傷にかかった仲間をかばいながら、スリップしたり雪崩に巻き込まれそうになりながら、吹雪の中を全員なんとか下山しました。この成功はJFケネディーからも称賛の祝電を受けました。この登山はレッコの岩登りグループ「蜘蛛」結成15周年記念ともなり、兄弟愛と団結心を示したカシンの山歴の中でも特筆すべき最大の喜びであったと述べています。
1969年には、アンデスのマッターホルンとも呼ばれるヒリシャンカ西壁の登頂に成功しました。リッジから上部の岩壁は平均斜度65-70度で、垂壁やオーバーハングの部分もあったといいます。6000mを越す、高度で困難な氷壁に60歳で挑み、若者と行動を共にできるとは驚くべきことです。
 次に、カシンの関心はより高度で困難な課題に向いていきました。イタリア山岳会の会議で「K2、ガッシャブルム、南極以降の大きな遠征が行われていないのは遺憾だ」と述べ、残された最大の課題であるローツェ南壁への遠征を提案しました。そして、15人の精鋭隊員の参加を求めました。この中にはかのラインホルト・メスナーも含まれていました。
1975年3月、ローツェ南壁へと向かいました。しかし、壁は雪や氷ばかりでなく岩の崩壊も起こしていて、とても危険な状態でした。それで、以前日本隊が試登した南壁左側の氷稜を登攀することにしました。上部のキャンプにルート工作をしている中で、ベースキャンプを雪崩が襲い掛かり、装備や食料を散逸させてしまいました。しかし、残った装備を再点検し、ベースキャンプを移動し、登攀の続行を決めました。5月7日には第3キャンプの上、7500mの高さまで到達しました。しかし、小さな雪崩は第3キャンプを圧し潰してしまいました。これで、頂上に到達する時間もチャンスもなくしてしまいました。そうして、彼の初めての山での敗退の遠征は終わったのでした。

 そして、これが帰国の飛行機の中で彼が述懐した、この本を書く動機に繋がっていったのです。
 カシンはこの本の最後に「登山の発達と美学と」という項目を設けて、彼の登山哲学を吐露しています。

「アルピニズムの先駆者達でさえも、自分たちの目的を達成するために人工的手段に頼ることを気にかけなかった。モン・ブランを登るためにド・ソシュールは梯子を携行したし、ティルマンもマッターホルンにこれを持っていった。また、鋼鉄の鋲や引っ掛けかぎなどもカレルやウインパーによってマッターホルンで用いられた。」
「わたしは個人的にはフリー・クライミングから出発した。最初はピトンを確保のためだけに用いた。しかしまもなくそれを直接的補助用具としても用いるようになった。ダブル・ロープとあぶみを利用することによってのみ、わたしはグリニェッタやアルプスでいくつかのルートを開拓することが可能だった。それらは、当時のフリー・クライミングでは登攀不可能であったろう。はるか昔になったその当時にあって、多くの人びとがわたしを賞賛したが、もっと多くの人びとがわたしを非難した。わたしや仲間たちを「金物屋」と呼びさえした。」
 積極的な補助手段も否定しない彼ですが、ピトンを不当に多く使用して登ることは否定していますし、埋め込みボルトを使用した登攀は真のクライマーの興味をそぐようなものだと述べています。
「極度の困難に対する挑戦の基本的動機は常に、健康的な喜びと精神的高揚の追及であるべきだ。・・・さらに、クライミングは満足と正当な報いを与えてくれるものだが、それはけっしてメダルや褒章ではない。真のクライマーはそんなメダルや褒章などを心から毛嫌いするものである。」とも述べています。

カシンはその後も、現役クライマーとして、登山を続け、1987年、78歳の時には、ピッツ・パディレ初登攀50年記念としてカシン・ルートを再登しています。しかもマスコミの反応が遅いために1週間後にまた登りなおして写真を提供するほどで、とても並の老人のすることではありません。壁に多くの残置ハーケンが残されたのを悲しみながらもビバークしながら往時を懐かしんでいるのも実りの人生を感じさせます。80代の半ばまでクライミングを続けたといいますから正に超人です。
 
カシンは登攀者を詩人になぞらえる記述をしています。「わたしは本好きでもないし、詩をほとんど読んだことがない。けれども、詩人が日常生活で灰色の現実から、強烈なイマジネーションによって創造された世界へと逃れようとしていることを知っている。・・・詩に対するかなりの共感なしには、登攀の不愉快さ、疲労、危険などに対決することはできない。特に大岩壁に対してはそうである。」
「山にはどんなに鈍い心の持主でも驚いて心ふるえるような様相が無限にある。日を浴びて流れゆく雲は金色の輪にふちどられて輝く。雲の覆いを突き通して岩に剣のように当たる光線、それは鮮やかな色彩で石に生命を吹きこむ。風によってクーロアールをのぼる霧は、その特異な匂いをあたりにただよわせる。ピークがいくつもいくつも重なり拡がる広大な眺め。見る者の胸を息ができないほどしめつける、とあるドロミテの盆地の閉塞の恐怖。岩壁でのビバーク、などなど。」
この文章を読んだだけで、小生にはカシンが素晴らしい詩人に思えます。山岳の名文家は数多いのでしょうが、美辞麗句を連ねたものより、実直な登攀記録の中に一寸挿入される一文が心に沁み入ります。トッレ・トリエステ南東リッジのビバークでの記述などもそうです。人と天地の交錯がまるで一幅の絵のように瞼に浮かんでくるようです。
 また、カシンは書きます。『ヴィットリオ・ラッティとわたしがトッレ・トリエステの南東リッジの登攀から帰ってきたとき、握手を求めにやってきたクライマーの一人――名前を思い出せないが――が言った。「700メートルの岩壁できみは詩を書いたね」
そのとき、われわれは笑ったが、後になって、その言葉が正しかったことを知った。』
まさに、言葉ではなくても登攀作品そのものが詩なのでしょう。
 そういう目でみればカシンはアルプスの峰々ではまさに大詩人といっても過言ではありません。
カシンは前に書いたアンドレア・ヘックマイヤーと同時代の人でありながら、ボナッティ、メスナーなどの後世のクライマーの師表であり、現代にも活躍した時代を超越した稀有な登山家でもありました。

2009年100歳で亡くなりましたが、まさにアルプスの山々を十全に極め、あの世に旅だった素晴らしい山の一生と言えましょう。

グリンデルワルトからアイガー

アルプスの三つの壁  アンデレル・ヘックマイヤー著  長越 茂雄 訳
アルプスの3大北壁といえば、マッターホルン、アイガー、グランド・ジョラスであまりにも有名であるが、これらは1930年代に立て続けに初登攀された。幾多の人々がこれに関わっていて、栄光と悲劇のドラマが繰り広げられたが、アンデレル・ヘックマイヤーもその中の一人であり、中心的な人物であろう。  その当時の生々しいドラマを語ってくれているのがこの本だが、特に彼がザイルのトップとして始終リードして勝ち得たアイガーの初登攀の記録は圧巻である。ドイツ人である彼は、これらの課題が全てミュンヘン出の登山家の仲間達によって解決されたと述べているが、これはやや贔屓の引き倒しのようである。しかしながら、当時のドイツの若者のエネルギーは大変なものがあったらしい。  彼も「1928年からこのかた、大恐慌による失業がとりわけかれら若者を襲った。かくて、行動への渇望はおさえがたく、彼らは山に向うことになったのだ。」と述べている。一説にはナチス・ドイツがこれらの栄光に対し、金メダルの授与で報いるとの話があり後押ししたとの言もあるが、この本には触れていないし、変に勘ぐることは彼らの山への純粋な情熱に対して失礼かもしれない、しかしそういった時代背景も影響したのかもしれない。 1931年トニーとフランツ・シュミット兄弟がマッターホルン北壁を征服した。彼らもヘックマイヤーの仲間だが秘密にしていたためグランド・ジョラスの壁への挑戦中に聞いて驚愕したと述べている。 数度のグランド・ジョラスの試登も悪天候に阻まれて頓挫していた。 1935年になり、マックス・セドルマイヤーとカール・メーリンガーがアイガー北壁へのアタックを試みたが、第3の雪壁地帯で悪天候のため遭難死してしまった(後年彼らの終焉の地は死のビバークと呼ばれるようになった)。この事件以降ヘックマイヤーの気持ちはアイガーヴァントへ集中していく。 アイガー北壁は3つの部分に分かれている。基部は2200mから2800mで、第2の部分は3400mまでのび、ここに3つの雪壁地帯がある。最後はほぼ垂直に近い壁で3974mの頂上近くまで及んでいるという(この中に蜘蛛と呼ばれる雪壁帯がはめ込まれている)。 翌年は前年の悲劇にもかかわらず、壁の下には複数のパーティーが集合していた。ドイツ人のアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツ、オーストリア人のエディー・ライナーとヴィリー・アンゲラーであった。彼らは別々に登り始めたが、壁の途中で一隊に合体した。氷雪技術のない彼らの進みは遅々として、しかもアンゲラーは落石で頭部を負傷した。2晩のビバークの後、退却を始めた。落石の危険地帯を経ながら下降しずぶぬれの3晩目のビバークを強いられた。第1雪田まで下降したが、垂壁の赤い壁に行く手を遮られた。登りにトラバースに使ったザイルを回収したため(後にヒンターシュトイサー・トラバースと呼ばれる)トラバースルートも戻れなくなってしまった。アイガー鉄道の坑道のトンネルすぐ近く救助隊の声の届く所まで下降しながら3名は落石に打たれ亡くなった。唯一壁に張り付いて生き残ったトニーは嵐の夜を生き延びて、救助隊からの援助を受けわずか3mの所まで近づいた。しかしながら凍った手で、さらには歯でもザイルの結び目がカラビナを通らず、もがいているうちに雪と突風にあおられて息絶えた。ガイド達は「結び目を通せ。そうすりゃ助かるんだぞ」と励まし続けたという。 1938年は問題の解決の年となった。この年もルードヴィッヒ・フェルクとヘックマイヤーのパーティーとフリッツ・カスパレクとハインリッヒ・ハーラーのオーストリアのパーティーが別々に北壁に取り着いた。6名もが集中した壁から一旦麓に戻ったヘックマイヤーらは先行者の歩みが遅く、天候も回復しそうなので急ぎ再び追いかけた。12本爪アイゼンを履き、氷雪技術に長けたヘックマイヤーは第3雪田の手前で一日足らずで追いついた。先行パーティーの作った足場のおかげだ。追い抜こうとした彼だったが、お人よしのフェルクは一つのザイルパーティーになることを提案した。荷物は分担できたし、オーストリアパーティーは下降ルートを知っていた。第3雪田を左に行き、傾斜路(ランペ)に取り着いた。ランペは大きなチムニー状のクーロアールだった。そこでビバークした。高度3400mだった。その上方は垂直のチムニーになっており、出口は氷のオーバーハングで覆われていた。空身になったヘックマイヤーはそれに挑み、ハングで宙ぶらりんになりながらも何とかそこを突破した。このピッチが登攀の最難関だったと述懐している。そこからザイルを10回以上伸ばして2時間以上かけて右方へ岩屑の細いバンドを辿って(神々のトラバース)「蜘蛛」に至った。蜘蛛で表層雪崩に会い、カスパレクは手に負傷した。その上のクラック帯で再びビバークした。この時の様相をクライネ・シャイデックの新聞記者がレポートしている。「4時半、我々の頭上に水の竜巻が襲いかかった。皆の恐怖の叫び声が起こった。壁をみよ!巨大な滝が壁の全体を覆い落下している。泡立つ水煙をたてた激流がクーロワールに溢れた。・・・彼らは果たして耐えられるだろうか?」。ヘックマイヤーはこの上のクーロワールのオーバーハングで墜落しながらも正午に最後のクーロワールを抜け北壁を征服した。1時間後に最後のカスパレクも抜け出した。しかし暴風雪は次第に激しくなり頂上に到達したのは午後3時半であった。雪と氷の張り着いた西稜を下ったが、ハーラーらは数日前に下ってルートを知っていた。ほとんどパーティーのラストを務め、神経も体力も消耗していないハーラーが指揮をとった。壁で墜落し、足を痛め、消耗したヘックマイヤーは後に従った。麓に下りるとこの初登攀に大騒ぎになっていた。 彼らはこの登攀に引き続いて長年の懸案であったグランド・ジョラスの北壁に向かう予定であったが、イタリアの新鋭のリカルド・カシンらが彼らのアイガーの成功から数日後にジョラス北壁を征服した。(偉大なカシンの物語についてはいずれ書こうと思います) ヘックマイヤーも1951年グランド・ジョラス北壁の第8登を成し遂げた。アイガーを征服しても、その困難さはアイガーをも凌ぐといわれるグランド・ジョラスは常に念頭にあった。そしてその制覇には悪天のために4日間かかった。やはりジョラスは最高度の困難さ、試練を彼らに与えた。  
こうしてアイガー北壁は征服されたが、日本人の登場は1965年まで待たなければならなかった。そして残念なことに栄光となるべき高田光政の日本人初登攀はザイルパートナー渡部恒明の墜死という悲劇の代償をもってなされた。山など知らなかった小生でも当時の新聞記事の記憶があるほど社会に衝撃を与えた事件だった。その顛末は「登頂あと300」という高田光政の著書に詳述されている。
たった1週間前に、芳野満彦と共に日本人でマッターホルン初登攀という成果を引っ提げてやってきた渡辺恒明は高田光政とアイガーに挑んだ。(芳野はマッターホルンで足を痛めサポートにまわった。)
その年の夏は天候不順で、普通登山靴で登る所も氷が張り、最初からアイゼンをつけっぱなしだったという。順調に下部岩壁を登り、ヒンターシュトイサー・トラバースもこなした。しばらく登り「ツバメの巣」でビバークした。氷雪をカッティングしても、やっと2人腰を下ろせる位の場所だった。翌日は氷の第一雪田、氷の管、第二雪田と進んだ。例年になく氷雪が多く困難だった。渡部は昨年にすでにここまで登り、敗退していた。今度こそはと闘志は漲っていた。午後2時25分、死のビバーク到着。第3雪田を経てランペのカミーンでビバーク。途中でかぶった流水のためずぶ濡れ、雷のあと雪が降り零下10度の寒気に苛まれる。翌日、北壁は真っ白い雪に覆われていた。進退を迷ったが頂上まであと570m、登攀続行を決めた。ランペの上部は6級の困難さを持つが、氷雪に武装されてさらに最悪の状態になっていた。ようやくそこを抜けて神々のトラバースにさしかかったが、やはり雪に埋まって通常のルートはとれず、上部をトラバースし始めた。ここで高田がスリップし30m落下した。肋骨、腰を強打してビバークを余儀なくされた。撤退か、頂上への生還に賭けるかぎりぎりの選択を迫られたが、トップを渡部が務めて高田が後続していくことに決めた。硬い氷雪の上に積もった雪を払いながら蜘蛛を登った。トップの渡部は次第に疲労の色を深めていた。足場の氷が欠けて、高田にぶつかりながら10数mスリップした。最後の難場の頂上への割れ目に達した。カミーンのリングハーケンのある場所で直登するか、左にトラバースするかで2人の意見が割れた。渡部はハラーの「白い蜘蛛」の切り抜きを見ながらこれはミスプリントだとして左にトラバースを始めた。高田は直登が正しいと反対意見を述べたが、トップはトラバースしていった。岩の状態が悪いといいながらトップはオーバーバングの向こう側に消えていった。しばらくして「落ちる」という声と共に渡部が墜落した。にぎっていたザイルに電流のような衝撃が走り、ザイルがピーンと張った。しばらく何の応答もなかったが、必死の思いで3m位ザイルをたぐりよせると渡部が岩場に取り着いたらしく重みが軽くなり、姿が見えてきた、岩場の割れ目に身を横たえた。
時計を見ると午後5時だった。多分突出した岩場でバウンドして、一呼吸あって雪の斜面を滑落したので、ザイルを手繰り寄せ、自分も引き込まれずに止めることができたのだろう、と思われた。渡部は呻くような声で「ここは滝谷か」と聞いてきた。多分意識も朦朧としているのだろう。ザイルは1本しかない。発見されるまでここで待つか、一刻も早く下山して救助を求めるか、判断を迫られた。時間は6時を過ぎた。日没まであと2時間。救助を求めて必死の単独登攀に賭けることにした。「おーい、渡部くん。2日待ってくれ」「2日は持たない」そう返事があったがもう決断しなければならない、コンロ、燃料、食料、ビバーク用の荷物を全て残して補助ザイルで下ろした。彼は何も言わなかったが、下がってきた荷物を手元に置くのが見えた。「いいか、そこから決して動くな」と言い残して北壁に向かった。装備はアイスバイル、アイスメス、ハンマーをと補助ザイル1本のみだった。もう自分の運命に賭けるしかないと思った。ただ、国内でも単独登攀の経験があり、元々単独でのアイガー登攀を目指してきた自信のみが支えだった。脆い岩くずの急斜面を登り、屋根のような岩の脆い凸面にぶつかった。確保の手段もなく、手と足しか頼るものはなかった。落ちれば即、死。しかし、そこしか行く手はなかった。必死で越えて氷雪の岩を登り、午後8時過ぎに稜線に達した。ミッテルレギ山稜を登った。暗くなった岩稜で懐中電灯のスイッチを入れたが、なんと電気がつかなかった。一瞬ビバークを考えたが、一刻も待てない友のことを思いだした。雪あかりと、両手両足の感覚でなんとか行動できるはずだ、と思い直し一歩一歩進み9時過ぎにピークに立った。すぐさま西壁を降り始めた。以前偵察で登っていたのが手助けになった。岩に前向きになりながら、手探り、足場を探りながらそろそろと降りていった。睡魔に襲われながら、極度の興奮状態にあった。朦朧としてクレバスを避けながらふらつきながら降りていった。突然明るい光が前方に現れた。アイガーグレッチャー駅だった。3時半、いくら大声を張り上げても誰も出てこなかった。アイガーグレッチャーホテルのドアをどんどん叩いたが誰も応答がなかった。夢遊病者みたいに次の駅まで歩いた。クライネシャイデックホテルまで歩いてドアを大きく叩いたが、返答はなかった。さらに1時間程歩き日本人の登山隊が泊まっているアルピグレンホテルにたどり着き遭難を告げた。5時半だった。地元の救助隊が編成されたが悪天ですぐには動けなかった。1日たち、翌日アイガー北壁の基部に横たわって死んでいる渡部が発見された。彼は自分の確保を外して動きだしたらしい。登ろうとしたのか、もがいて間違って墜落したのかわからない。
後で、高田は現地や日本の報道陣からいろいろ質問され、彼の行動に批判的な意見もあったという。しかし、その行動をつぶさにみれば賞賛されることはあっても批難されることはないと思う。ただ、2人の登攀続行の判断には批判もあるかもしれない。
その後も幾多の栄光と悲劇の舞台となったアイガー北壁は現代においてもマッターホルンと共に最も日本で最も有名なアルプスの岩壁であり続けている。
アイガー北壁

アイガー北壁

花の百名山 田中澄江 著

田中澄江  1908年生まれ、2000年没の作家、脚本家。
昭和の初めの頃から山に親しむ。花の百名山は昭和53年から3年間に亘り「山と渓谷」に連載された記事をまとめたものであるという。当時は雑誌に連載されていることは知っていたが、ほとんど読んだことはなかった。最近読んでみて遅まきながら女史の山に対する愛と植物への博識のみならず歴史・文化への博識さを認識した。
日本百名山ならば、本家の深田久弥のものがあまりにも有名であるが、こちらの花の百名山は関東から東北、北海道に及び再び中央から西日本、九州へと全国に亘るものの山の大きさ、高さ、品格などにはこだわらずに著者の辿った遠近の山の花の随筆集といった趣である。
書かれた時期は昭和50年代だが、その思い出の足跡は昭和の初めまで遡る。
著者の子供時代、大正から昭和にかけては東京の高い所からなら、北に筑波、日光男体山、赤城、榛名、西には大菩薩、丹沢、箱根、富士、天城の山々が見えたという。
6歳で死に別れた父が手植えた庭の山野草を見、山の話を聞かせてもらいながら山への憧れを募らせていったという。学校の遠足、地理で近隣の山を知り、卒業して学校の教師になり月給をもらうようになると週末には一層山を歩くようになった。結婚して思うように山に行けなくなり、転んで足の骨を折ったりして一時期山から遠ざかったがまた運動の楽しみを山一本にしぼりゆっくりと山行を楽しむようになった。高水会という中高年の女性を中心とした山の仲間と頻繁に手近な山を歩き、いよいよ山の花が眼につき面白くなっていったという。
父は富士山にいて私が来るのを待っている、’お父さんは山にいる’。その思いを胸において山を歩き続けていったという。
昭和の初めの頃の9月の赤城登山の思い出も興味深い。「急に思いついてのことで、紫地のお召しの着物に朱赤の帯を締め、カナリアいろのパラソルをさして、草履であった。」黄ばみそめた白樺の葉と真っ白な幹の対照が鮮やかだった、と。また小沼のほとりのマツムシソウがきれいでその中に寝転んでいると怪しまれた、沼のボートでは投身自殺者と間違われた、という。身なりも身なりだが、その当時の若い女性の1人登山など一般的ではなかったのであろう。戦後俗化されたものの懐かしくまた往時の道を辿ると緋に燃えるようなレンゲツツジの花盛りであった。地蔵岳から忠治温泉への下り道で、草むらのなかに一点の赤い色を見つけた。薄紅のアツモリソウだった。その名は一谷に死んだ平敦盛の背に負った母衣の形からとったという。
著者は「登る山をえらぶとき、高さよりはその山が人間の生活とどうかかわりがあったかが、いつも気になる。私は古戦場とよばれるような山を歩くのが好きである。敗残の生命をかつがつに保って、落城の兵の逃げていった道などは、殊に心惹かれる」と書くように古人の故事にまつわる山を好んで取り上げている。
ヤマトタケルノミコト、源平の武将達、戦国の武田勝頼、佐々成政など悲運の末路を辿った人々の跡を辿っている。彼らはいまわの際に故郷の山河、恋する人に思いを馳せたのであろうか。そういう著者も「若い日というものは、周囲に対して、馬車馬のように注意のゆきとどかなかったものだと、今ごろになって恥ずかしい・・・ただ速く歩くばかりが能だったのである」とも述懐している。この人にしてもやはり青年期というものは一途で周りが見えないものらしい。
わが身を振り返ると、北海道から九州まで百名山も登れば数々の山の花々を目にしてきたはずだが、あまり記憶に残っていない。大体花の名前を知らないので記憶に留めようがないのかもしれない。青年期を過ぎてもただ登るだけで周りに注意が行き届かず忸怩たる思いだ。それでも、ニッコウキスゲやチングルマ、シナノキンバイ、ウスユキソウ、コマクサ、シャクナゲ、カタクリ、コバイケイソウなど貧弱な記憶の中にも思いは重なり、感慨深い。
著者は高山植物が好きといっても、図鑑と首っ引きで、花に詳しい人からその名を教えて貰うのが精一杯の花との付き合い方と謙遜されているが、植物同好会に入っていて、よく牧野富太郎氏の後をついて武蔵野の丘々を歩いた、という。また武田久吉氏から直々に尾瀬の花の話を聞くなど本格的である。
著者の花の旅は、古の人々を偲んでの山行きが多い。ただやみくもに山を歩いていた小生等には見えなかった世界だ。当たり前のことだが、この国の山も川も古からあり、人々も山河を越え、花を見ながら幾多の歴史ドラマを繰り広げていったのだろう。
その中で二上山はとりわけ心に残る一項である。昔、高校時代に皆と文集などを作っていたが、国語の先生がそこに二上山の記事を寄稿して下さった。
二上山はその昔大津皇子の悲しい歴史を秘めた山である。
大津皇子は天武天皇の第3皇子。母は天智天皇の大田皇女。父天武天皇が崩じてわずか1月も経たずに皇位を奪おうとしたとの謀反の嫌疑をかけられて死を賜った。それには早世した大田皇女の妹で自分の叔母にあたる持統天皇や藤原不比等の画策が覗われるとされる。夫の悲報に妃の山辺皇女は髪振り乱してその亡骸に取りすがり、殉じて果てた。伊勢神宮の斎王であった姉の大来皇女は皇子が二上山に埋葬された後、悲しんでうたに詠んだ。
  うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む
大津皇子は幼くして学を好み、また長ずるに及んで武芸にも秀で剣を良くしたという。性格は闊達で人望が厚かった。さらに政治にも参画し将来を嘱望されていた、とある。それだけに持統天皇は実子の草壁皇子の将来の地位を脅かす存在になると思ったものであろう。この姉弟は死の前にすでにそれを暗示するかのような歌も詠んでいる。悲しい結末をすでに思い定めていたのであろうか。
この悲劇も天智、天武朝の骨肉相食む政変劇の一つに過ぎないかもしれないが、有望な貴公子だっただけに、彼を愛した人々の逸話が伝わるだけに悲しい物語である。高校の恩師は寄稿文の最後にこの悲しい歴史を秘めた山は「にじょうざん」ではなく「ふたかみやま」と呼ぶのが似つかわしい、と結ばれた。このことはずっと心に引っかかっており、いつか訪れたいとは思っていたが、近くを通り過ぎたことはあってもまだ実現していない。女史も古の大津皇子を偲んで、レンゲやペンペン草の花盛りの田園風景の中を爪先登りに登ったという。高々500m程の山で現在ではハイキングコースというがいつか訪れてみたい。
 この本は山の花好きの人にとってはきっと情景がありありと目の前に浮かんで心躍る本であろうと

八方尾根花紀行

八方尾根から唐松岳に登ってきました 。登山道沿いには数々の高山植物が咲き乱れていました。7月末の週末とあって唐松山荘は今年一番の登山客ということで,大混みでした。残念ながら晴天とはいかず頂上からの眺望も今一つでしたが、久しぶりの山の空気を吸って心地よい気分でした。 写真に収めた高山植物で名前のわかったものをピックアップしてみました。
オオバギボウシ.JPGキンコウカ .JPGコマクサ.JPGシモツケソウ.JPGタカネナデシコ.JPGチングルマ.JPGニッコウキスゲ.JPGニッコウキスゲ2.JPGハクサンタイゲキ.JPGハクサンチドリ.JPGハッポウタカネセンブリ.JPGミヤマコゴメグサ.JPGミヤマダイモンジソウDSCF2467.jpgミヤマママコナ.JPGムシトリスミレ.JPGユキワリソウ.JPGワタスゲ.JPGワタスゲ2.JPGツガザクラ.JPGミヤマアズマギク.JPGヤマブキショウマ.JPGタテヤマウツボグサ.JPGクルマユリ.JPG八方ケルン.JPG八方池から唐松ー不帰.JPG