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日本アルプスの登山と探検

本書は日本近代登山の師とも呼びならわされるウォルター・ウェストンの若き日の日本アルプスの登山記である。
ウェストンは1861年にイギリスで生まれ、宣教師として1884年に来日した。1894年に帰国したが、これはその時期の紀行文である。その後、1902年新婚のエミリー・フランシスを伴い再来日、1905年まで聖アンデレ教会の司祭として横浜に居住した。さらに1911年から1915年まで三たび来日し、横浜に居住した。
本書は1896年英文で上梓されたが、それから7年後に横浜の岡野金次郎という青年がこの本を偶然手にし、心臓が止まるばかりに驚いた。散々苦労してこの夏登ってきたばかりの槍ヶ岳の写真までも写っていたからである。
このことが小島烏水に知らされ、後にウェストンとの交流から日本山岳会への設立へと繋がっていったそうである。
彼は英国山岳会にならった団体を日本にも作るように勧め、帰国後も様々なアドバイス、激励の手紙を書いたとのことで、日本近代登山の師と仰がれ、毎年ウェストン祭が行われるのも頷ける。
しかし、この本ははただ一人の山好きなイギリスの青年の異国での見聞録で、後世の評価のような大層な目的のための書でも、日本人に向けての書でもない。その分純粋な山への情熱が伝わってくるし、率直な当時の日本への感想も知ることができ興味深い。内容について個人的な思いも含めて書いてみたい。

まず感じるのは当時の日本と英国の山登りに対する認識の違いである。日本ではまだ個人の楽しみ、趣味としての登山という概念は一般にはなかったようである。従って、彼は行く先々で何のために山に登るかと訝しがられる。銀や銅などの鉱物が目的か、何か宝物でも探すのか、といった具合である。
また、当時の中部山岳地帯の景観、地元民の生活、風習などが事細かに活き活きと簡潔に記されている。決して美文調ではないが誇張のない実態が浮き彫りにされている。
「僕が、あえて詳細な旅行記を書いたのは、その土地のほとんどが、人に踏み慣らされた道をはずれて、事実上世に知られていない土地へ足を踏み入れたからである。そこには、典型的な日本の風景とは少しも結びつかぬ雄大で野生的な景観があった。また一方、手厚いもてなしを受け、頗る楽しい交際を結ぶことのできた農民たちの間に伝わる、昔ながらの風習や迷信も、それなりに注目すべきものである。」と書かれている。

彼の紀行文を読み進めると、風景や風習のディテールへ良く注目していることがわかるが、それにも増して広い山域を大掴みに捉えていることもわかる。山頂から四方に眼を向けて遠望を捉えていて、岩の質、種類についても記述があり、地学の素養が感じ取れる。
紀行は碓氷峠越えから軽井沢、浅間山登山に始まって、槍ヶ岳(試登)、木曽駒ヶ岳から天竜川下り、乗鞍岳、そして念願の槍ヶ岳登頂と続く。さらに赤石岳、針ノ木雪渓から峠越え、上条嘉門次との前穂高岳登攀、5月の富士登山、恵那山から天竜川下り、白馬岳、そして、地元民の迷信に妨げられつつやっと登った笠ヶ岳、常念岳、そして御岳と書き進んでいる。
彼の紀行を通して、当時の日本の交通機関や道路事情もよくわかる。当然のことながら、文明開化間もない時期なので、鉄道は一部出来たばかり、地方までは伸びていず、鉄道馬車、人力車が多くなる。また道は貧弱で御者、車夫も慣れていない人も多かったようでいろいろと苦労している。むしろ歩いたほうがよかった所もあったようだ。ただ、一方で文明開化が急速に進み、古いよいものが壊されて便利になるにつれ、外国人擦れして、料金は高くなり、対応も良くなくなる傾向があることも嘆いている。
外国人を初めてみる人々の戸惑いや珍奇な物をみるような好奇心に当惑しながらも、一見教養のない田舎の人々でも少し接してみるととても礼儀正しく、親切で真の教養は特有の階級の専有物ではないと感心している。しかしまた一方でごまかしをしたり、知ったかぶりをして役にたたない案内人などにも触れていて人様々と感じる。
時間のルーズな事、運送便の遅さにも触れていて、日本には「時は金なり」という観念がないと述べている。現在の日本の正確、厳密な時間感覚からは想像もつかない。文明の発達というものは時間感覚を変えるのだろうが、当時はゆったりとした時の流れのままに生きていけたのだろう。
また文のあちこちで触れているのが、宿屋や山小屋での蚤の被害だ。日本への旅行者へのアドバイスとして必ずノミ取り粉を持参することと書いている。あと宿屋で辟易しているのが、夜遅くまで続くどんちゃん騒ぎと襖一枚しか隔てのないプライバシーのなさだ。こちらは現代でも当てはまる処があるのかもしれない。
彼は日本料理と温泉は気にいったようで登山の端々に記している。
彼の山行記録は実に淡々としている。客観的な事実が述べられていて取りたてて誇張もなく、すっきりした感がある。
針ノ木雪渓では「堅く凍った雪渓は、三十八度近くまで勾配がきつくなり、猟師たちは、雪渓を通るのを嫌がった。」
また、ガラ峠の先では「やがて、六十度も傾斜している赤土の斜面を横切らなければならなかった。」などと記述している。険しい岩場などではむしろその登攀を愉しんでいる様子がみられる。本場ヨーロッパアルプスでの岩登りや氷河を経験してきた彼にとっては日本アルプスでの岩場や雪渓も5月の雪の富士山も特に手強いものでもなかったのだろう。むしろ渓谷の岩の上に付いた苔でスリップし、草鞋の威力を知り、鋲靴に草鞋を重ねるなどの工夫をしている。
彼の一連の登山の中で、小生が最も興味をそそられたのは、上条嘉門次と一緒に登った前穂高岳の記録だ。嘉門次小屋を出て、前穂の東面から前穂高岳に登り、その日のうちに下山している。はっきりとルートは判らないが北尾根を登ったそうなので、5、6のコル辺りから登下降したのだろうか。(東壁~北尾根というルートをとった前穂高岳である、と訳注にあるが、まさか、現在の前穂東壁ではなかろう。これはもう本当の岩壁登攀になってしまうから)
この登攀のことも彼は「ここの岩は、ぼくが経験したどこよりも、嶮しく固かった。僕たちは、全精力を登攀に傾注した。それだけに極めて痛快であった。」と書いている。当時としては特筆すべき山行のように思われる。

この書は最初に書いたようにウェストンの第一回目の、若き日の山行の記録である。従ってまだ夫人も登場していないし、日本山岳会との交流もない。ましてや後年日本近代登山の師などと呼ばれることなど想像もつかないことだろう。また都合17年間も日本に居て、そこが第二の故郷になることも想像していなかったろう。
むしろ、後年のことを度外視して読むと、好奇心と観察眼にあふれ、温かみのある、本当に山好きな一人のイギリス青年が浮かび上がってくるように思われる。

リカルド・カシン 大岩壁の五十年

リカルド・カシン(Riccardo Cassin)
大岩壁の五十年 (50 years of alpinism)

リカルド・カシンは1909年生まれのイタリアの天才クライマーです。
1930年代には、アルプスにおける数々の困難なルートを初登攀し、近代のアルピニストの旗手といっても過言ではないでしょう。戦前に活躍したクライマーなので、過去の登山家といえるかもしれません。
しかし、1975年、66歳になってもあの世界で最も難関とされたローツェ南壁にイタリア山岳会の若いクライマーを率いて挑戦したように戦後もアルピニズムの第一線に立って活躍を続けていました。
この本は1977年にイタリア語で書かれ、1981年に英訳版が発行されました。これらを基に1983年に水野 勉氏が翻訳しました。
 著者はこの本を書いた経緯を本のはしがきに次のように書いています。
『「リカルド、なぜ君は自分の登攀について本を書こうとしないのだ。アルプス前山にはじまって、アルプスやドロミテの登攀のこと、さらに、輝かしい海外遠征と、書くことはいっぱいあるじゃないか」 わたしはしばしばそう尋ねられ、自分でもそのことをいく度か考えたことがあるが、それほど真剣には考慮しなかった。しかし、1975年のローツェ南壁の登攀に失敗して、軍用機で故国へ向かっていたとき、またもや、この問いかけがわたしをうるさく悩ましはじめた。・・・まったく皮肉なことだが、あのときこそわたしがクライマーとしての自分の生涯においてはじめて敗北感を味わったときなのだった。』
数々の成功と共に初めての失敗を経て山々が人知を超えた人生の教師であることを強く認識し、その長い登山経験を身内にたぎる熱い血潮と情熱で書き綴ろうと思ったと、いうようなことを述べています。実に山の真打ちが人生の円熟期に至って初めて書いたといった本なのですが若々しい躍動感に満ち溢れている不思議な本です。
  
カシンの初期の登山はロンバルディのグリニァというロック・クライミングのエリアから始まりました。17歳の時コモ湖の近くのレッコという町に移り住みその後終生彼のホームタウンとなりました。当初夢中になっていたボクシングをやめて短いが困難なルートを次々に制覇していきました。相棒はマリ・ヴァラーレ 、マリオ・デッロロ(愛称ボガ)などでした。より困難な課題を解決するためにこの頃からカシンはすでにピトンを単なるプロテクションとしてだけではなく、より積極的な補助用具として使い始めていました。マリの紹介でエミリオ・コミチに出合い、人工登攀の考え方やダブル・ロープなどのドロミテ・テクニックを学びました。それで、一部では彼らのことを「はしご職人」とけなしたりしました。
彼は次第にそのグリニァ山域より巨大で垂直にそそり立つドロミテ山域に目を向け興味をそそられていきました。
1935年には、彼の若きザイル・パートナーのヴィットリオ・ラッティと共にトッレ・トリエステの南東リッジを初登攀しました。二人はオーバーハングを越えた所に見つけた洞穴でロジンの臭いのするユリを褥として数時間のビバークをしました。「穏やかな8月の夕べには、月光が冴え、頭上には暗闇の中に大きな岩塔がそそり立っていた。ラッティにはそれまでの経験の中でも、心から愉快なひとときだった。今になってみると、これらの時間はさらに一層重要なもののように思える。彼は戦争の暴力の中で死んでいったからである。」と書いています。苦楽を共にした最愛の友への哀惜のこもった言葉です。オーバーハングを混えて、5級、6級の連続する困難なルートでした。
その後、二人はチマ・オベスト北壁を狙います。先の成功の勢いをかって祖国のためにもドイツ人との初登攀争いに挑みました。オーバーハングの続く垂壁を辿り、左方へ難しいトラバースをして、大クーロワールを登り頂上に達しました。嵐の中でのビバーク、後半は雪と氷の中での登攀でした。
1937年にはエスポジト、ラッティと共にピッツ・パディレの北東壁を登りました。オーバーハングの出口で落石に合いながら、また嵐のビバークに耐えながら登攀に成功しました。しかし、同時に合流して登攀したコモの2人組は疲労と寒さに耐えきれず息絶えました。
1938年は彼の最も輝かしい、金字塔となる初登攀の年でした。
ジノ・エスポジトとウゴ・ティッツォニとともにアイガー北壁を狙いました。しかしクライネ・シャイデックについてみるとすでに、ドイツ人とオーストリア人のパーティーが壁に取り着いていて、嵐の中を初登攀に成功しました。それには人間としては喜んだが、イタリア人としてはひどく落胆した、と正直に述べています。それで、アイガーの次に考えていたグランド・ジョラス北壁ウォーカー稜に狙いを定めました。
この登攀はカシンが常にザイルのトップを務めてルートを切り開いていきました。出だしのカシン・クラックはあまりにも難しく、その後の多くの登攀者は左手のレビュファ・バリエーションを登るとのことです。巨大な氷のジェードル(本を開いたような凹角)を越え、オーバーハングを避けて、振子トラバースを行い、灰色の岩塔の下のレッジ(小棚)に達し、そこで2回目のビバークをしました。天気は崩れ、雹や雪も降り出しました。しかし3日目の午後3時頃嵐の中をウォーカー稜のピークに立ちました。
 しばらくして、戦争が始まりました。彼はムッソリーニやナチズムと対抗すべく、パルチザン活動に携わりました。その戦闘の最中にラッティは命を奪われてしまいました。カシンも負傷しましたが、生き延びて軍功十字勲章をもらっています。
 戦後になると、カシンはイタリア山岳会レッコ支部長や、イタリア登山学校連盟会長などの要職を務めながら、それまで登っていなかった山や以前の山の再登攀を行いました。 
1954年にイタリアはデジオ教授率いるK2への遠征を行い登頂を勝ちえましたが、当初登攀リーダーと目されて教授と共にカラコルム視察までしたカシンはメンバーから健康診断の理由で外されました。しかし、彼はそれは建前で、実は教授がカシンに主導権や名声を取られるのを恐れて排斥したのではないかと述べています。(本の注釈では、デジオがカシンを、学術目的に脅威を与えかねない人物として考えるようになったともいえる、と書いてありました。真実はどうだったのでしょうか。)
1957年にはイタリア山岳会は今度はカシンを第2回イタリア・カラコルム遠征隊の隊長に選出しました。彼はマウリやボナッティを率いてガッシャブルムⅣ峰を征服しました。彼自身は登頂しませんでしたが、高所に耐えられることを確認し、K2の無念さを改めて感じました。頂上直下は4級から5級の難しさで、当時のヒマラヤでは最も困難な登攀でした。
1961年にはマッキンリーの南壁登攀に挑みました。若いレッコの仲間5人と共に困難な氷と岩壁を登り、全員登頂に成功しました。その下降は壮絶なものでした。体調を崩し、凍傷にかかった仲間をかばいながら、スリップしたり雪崩に巻き込まれそうになりながら、吹雪の中を全員なんとか下山しました。この成功はJFケネディーからも称賛の祝電を受けました。この登山はレッコの岩登りグループ「蜘蛛」結成15周年記念ともなり、兄弟愛と団結心を示したカシンの山歴の中でも特筆すべき最大の喜びであったと述べています。
1969年には、アンデスのマッターホルンとも呼ばれるヒリシャンカ西壁の登頂に成功しました。リッジから上部の岩壁は平均斜度65-70度で、垂壁やオーバーハングの部分もあったといいます。6000mを越す、高度で困難な氷壁に60歳で挑み、若者と行動を共にできるとは驚くべきことです。
 次に、カシンの関心はより高度で困難な課題に向いていきました。イタリア山岳会の会議で「K2、ガッシャブルム、南極以降の大きな遠征が行われていないのは遺憾だ」と述べ、残された最大の課題であるローツェ南壁への遠征を提案しました。そして、15人の精鋭隊員の参加を求めました。この中にはかのラインホルト・メスナーも含まれていました。
1975年3月、ローツェ南壁へと向かいました。しかし、壁は雪や氷ばかりでなく岩の崩壊も起こしていて、とても危険な状態でした。それで、以前日本隊が試登した南壁左側の氷稜を登攀することにしました。上部のキャンプにルート工作をしている中で、ベースキャンプを雪崩が襲い掛かり、装備や食料を散逸させてしまいました。しかし、残った装備を再点検し、ベースキャンプを移動し、登攀の続行を決めました。5月7日には第3キャンプの上、7500mの高さまで到達しました。しかし、小さな雪崩は第3キャンプを圧し潰してしまいました。これで、頂上に到達する時間もチャンスもなくしてしまいました。そうして、彼の初めての山での敗退の遠征は終わったのでした。

 そして、これが帰国の飛行機の中で彼が述懐した、この本を書く動機に繋がっていったのです。
 カシンはこの本の最後に「登山の発達と美学と」という項目を設けて、彼の登山哲学を吐露しています。

「アルピニズムの先駆者達でさえも、自分たちの目的を達成するために人工的手段に頼ることを気にかけなかった。モン・ブランを登るためにド・ソシュールは梯子を携行したし、ティルマンもマッターホルンにこれを持っていった。また、鋼鉄の鋲や引っ掛けかぎなどもカレルやウインパーによってマッターホルンで用いられた。」
「わたしは個人的にはフリー・クライミングから出発した。最初はピトンを確保のためだけに用いた。しかしまもなくそれを直接的補助用具としても用いるようになった。ダブル・ロープとあぶみを利用することによってのみ、わたしはグリニェッタやアルプスでいくつかのルートを開拓することが可能だった。それらは、当時のフリー・クライミングでは登攀不可能であったろう。はるか昔になったその当時にあって、多くの人びとがわたしを賞賛したが、もっと多くの人びとがわたしを非難した。わたしや仲間たちを「金物屋」と呼びさえした。」
 積極的な補助手段も否定しない彼ですが、ピトンを不当に多く使用して登ることは否定していますし、埋め込みボルトを使用した登攀は真のクライマーの興味をそぐようなものだと述べています。
「極度の困難に対する挑戦の基本的動機は常に、健康的な喜びと精神的高揚の追及であるべきだ。・・・さらに、クライミングは満足と正当な報いを与えてくれるものだが、それはけっしてメダルや褒章ではない。真のクライマーはそんなメダルや褒章などを心から毛嫌いするものである。」とも述べています。

カシンはその後も、現役クライマーとして、登山を続け、1987年、78歳の時には、ピッツ・パディレ初登攀50年記念としてカシン・ルートを再登しています。しかもマスコミの反応が遅いために1週間後にまた登りなおして写真を提供するほどで、とても並の老人のすることではありません。壁に多くの残置ハーケンが残されたのを悲しみながらもビバークしながら往時を懐かしんでいるのも実りの人生を感じさせます。80代の半ばまでクライミングを続けたといいますから正に超人です。
 
カシンは登攀者を詩人になぞらえる記述をしています。「わたしは本好きでもないし、詩をほとんど読んだことがない。けれども、詩人が日常生活で灰色の現実から、強烈なイマジネーションによって創造された世界へと逃れようとしていることを知っている。・・・詩に対するかなりの共感なしには、登攀の不愉快さ、疲労、危険などに対決することはできない。特に大岩壁に対してはそうである。」
「山にはどんなに鈍い心の持主でも驚いて心ふるえるような様相が無限にある。日を浴びて流れゆく雲は金色の輪にふちどられて輝く。雲の覆いを突き通して岩に剣のように当たる光線、それは鮮やかな色彩で石に生命を吹きこむ。風によってクーロアールをのぼる霧は、その特異な匂いをあたりにただよわせる。ピークがいくつもいくつも重なり拡がる広大な眺め。見る者の胸を息ができないほどしめつける、とあるドロミテの盆地の閉塞の恐怖。岩壁でのビバーク、などなど。」
この文章を読んだだけで、小生にはカシンが素晴らしい詩人に思えます。山岳の名文家は数多いのでしょうが、美辞麗句を連ねたものより、実直な登攀記録の中に一寸挿入される一文が心に沁み入ります。トッレ・トリエステ南東リッジのビバークでの記述などもそうです。人と天地の交錯がまるで一幅の絵のように瞼に浮かんでくるようです。
 また、カシンは書きます。『ヴィットリオ・ラッティとわたしがトッレ・トリエステの南東リッジの登攀から帰ってきたとき、握手を求めにやってきたクライマーの一人――名前を思い出せないが――が言った。「700メートルの岩壁できみは詩を書いたね」
そのとき、われわれは笑ったが、後になって、その言葉が正しかったことを知った。』
まさに、言葉ではなくても登攀作品そのものが詩なのでしょう。
 そういう目でみればカシンはアルプスの峰々ではまさに大詩人といっても過言ではありません。
カシンは前に書いたアンドレア・ヘックマイヤーと同時代の人でありながら、ボナッティ、メスナーなどの後世のクライマーの師表であり、現代にも活躍した時代を超越した稀有な登山家でもありました。

2009年100歳で亡くなりましたが、まさにアルプスの山々を十全に極め、あの世に旅だった素晴らしい山の一生と言えましょう。

グリンデルワルトからアイガー

アルプスの三つの壁  アンデレル・ヘックマイヤー著  長越 茂雄 訳
アルプスの3大北壁といえば、マッターホルン、アイガー、グランド・ジョラスであまりにも有名であるが、これらは1930年代に立て続けに初登攀された。幾多の人々がこれに関わっていて、栄光と悲劇のドラマが繰り広げられたが、アンデレル・ヘックマイヤーもその中の一人であり、中心的な人物であろう。  その当時の生々しいドラマを語ってくれているのがこの本だが、特に彼がザイルのトップとして始終リードして勝ち得たアイガーの初登攀の記録は圧巻である。ドイツ人である彼は、これらの課題が全てミュンヘン出の登山家の仲間達によって解決されたと述べているが、これはやや贔屓の引き倒しのようである。しかしながら、当時のドイツの若者のエネルギーは大変なものがあったらしい。  彼も「1928年からこのかた、大恐慌による失業がとりわけかれら若者を襲った。かくて、行動への渇望はおさえがたく、彼らは山に向うことになったのだ。」と述べている。一説にはナチス・ドイツがこれらの栄光に対し、金メダルの授与で報いるとの話があり後押ししたとの言もあるが、この本には触れていないし、変に勘ぐることは彼らの山への純粋な情熱に対して失礼かもしれない、しかしそういった時代背景も影響したのかもしれない。 1931年トニーとフランツ・シュミット兄弟がマッターホルン北壁を征服した。彼らもヘックマイヤーの仲間だが秘密にしていたためグランド・ジョラスの壁への挑戦中に聞いて驚愕したと述べている。 数度のグランド・ジョラスの試登も悪天候に阻まれて頓挫していた。 1935年になり、マックス・セドルマイヤーとカール・メーリンガーがアイガー北壁へのアタックを試みたが、第3の雪壁地帯で悪天候のため遭難死してしまった(後年彼らの終焉の地は死のビバークと呼ばれるようになった)。この事件以降ヘックマイヤーの気持ちはアイガーヴァントへ集中していく。 アイガー北壁は3つの部分に分かれている。基部は2200mから2800mで、第2の部分は3400mまでのび、ここに3つの雪壁地帯がある。最後はほぼ垂直に近い壁で3974mの頂上近くまで及んでいるという(この中に蜘蛛と呼ばれる雪壁帯がはめ込まれている)。 翌年は前年の悲劇にもかかわらず、壁の下には複数のパーティーが集合していた。ドイツ人のアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツ、オーストリア人のエディー・ライナーとヴィリー・アンゲラーであった。彼らは別々に登り始めたが、壁の途中で一隊に合体した。氷雪技術のない彼らの進みは遅々として、しかもアンゲラーは落石で頭部を負傷した。2晩のビバークの後、退却を始めた。落石の危険地帯を経ながら下降しずぶぬれの3晩目のビバークを強いられた。第1雪田まで下降したが、垂壁の赤い壁に行く手を遮られた。登りにトラバースに使ったザイルを回収したため(後にヒンターシュトイサー・トラバースと呼ばれる)トラバースルートも戻れなくなってしまった。アイガー鉄道の坑道のトンネルすぐ近く救助隊の声の届く所まで下降しながら3名は落石に打たれ亡くなった。唯一壁に張り付いて生き残ったトニーは嵐の夜を生き延びて、救助隊からの援助を受けわずか3mの所まで近づいた。しかしながら凍った手で、さらには歯でもザイルの結び目がカラビナを通らず、もがいているうちに雪と突風にあおられて息絶えた。ガイド達は「結び目を通せ。そうすりゃ助かるんだぞ」と励まし続けたという。 1938年は問題の解決の年となった。この年もルードヴィッヒ・フェルクとヘックマイヤーのパーティーとフリッツ・カスパレクとハインリッヒ・ハーラーのオーストリアのパーティーが別々に北壁に取り着いた。6名もが集中した壁から一旦麓に戻ったヘックマイヤーらは先行者の歩みが遅く、天候も回復しそうなので急ぎ再び追いかけた。12本爪アイゼンを履き、氷雪技術に長けたヘックマイヤーは第3雪田の手前で一日足らずで追いついた。先行パーティーの作った足場のおかげだ。追い抜こうとした彼だったが、お人よしのフェルクは一つのザイルパーティーになることを提案した。荷物は分担できたし、オーストリアパーティーは下降ルートを知っていた。第3雪田を左に行き、傾斜路(ランペ)に取り着いた。ランペは大きなチムニー状のクーロアールだった。そこでビバークした。高度3400mだった。その上方は垂直のチムニーになっており、出口は氷のオーバーハングで覆われていた。空身になったヘックマイヤーはそれに挑み、ハングで宙ぶらりんになりながらも何とかそこを突破した。このピッチが登攀の最難関だったと述懐している。そこからザイルを10回以上伸ばして2時間以上かけて右方へ岩屑の細いバンドを辿って(神々のトラバース)「蜘蛛」に至った。蜘蛛で表層雪崩に会い、カスパレクは手に負傷した。その上のクラック帯で再びビバークした。この時の様相をクライネ・シャイデックの新聞記者がレポートしている。「4時半、我々の頭上に水の竜巻が襲いかかった。皆の恐怖の叫び声が起こった。壁をみよ!巨大な滝が壁の全体を覆い落下している。泡立つ水煙をたてた激流がクーロワールに溢れた。・・・彼らは果たして耐えられるだろうか?」。ヘックマイヤーはこの上のクーロワールのオーバーハングで墜落しながらも正午に最後のクーロワールを抜け北壁を征服した。1時間後に最後のカスパレクも抜け出した。しかし暴風雪は次第に激しくなり頂上に到達したのは午後3時半であった。雪と氷の張り着いた西稜を下ったが、ハーラーらは数日前に下ってルートを知っていた。ほとんどパーティーのラストを務め、神経も体力も消耗していないハーラーが指揮をとった。壁で墜落し、足を痛め、消耗したヘックマイヤーは後に従った。麓に下りるとこの初登攀に大騒ぎになっていた。 彼らはこの登攀に引き続いて長年の懸案であったグランド・ジョラスの北壁に向かう予定であったが、イタリアの新鋭のリカルド・カシンらが彼らのアイガーの成功から数日後にジョラス北壁を征服した。(偉大なカシンの物語についてはいずれ書こうと思います) ヘックマイヤーも1951年グランド・ジョラス北壁の第8登を成し遂げた。アイガーを征服しても、その困難さはアイガーをも凌ぐといわれるグランド・ジョラスは常に念頭にあった。そしてその制覇には悪天のために4日間かかった。やはりジョラスは最高度の困難さ、試練を彼らに与えた。  
こうしてアイガー北壁は征服されたが、日本人の登場は1965年まで待たなければならなかった。そして残念なことに栄光となるべき高田光政の日本人初登攀はザイルパートナー渡部恒明の墜死という悲劇の代償をもってなされた。山など知らなかった小生でも当時の新聞記事の記憶があるほど社会に衝撃を与えた事件だった。その顛末は「登頂あと300」という高田光政の著書に詳述されている。
たった1週間前に、芳野満彦と共に日本人でマッターホルン初登攀という成果を引っ提げてやってきた渡辺恒明は高田光政とアイガーに挑んだ。(芳野はマッターホルンで足を痛めサポートにまわった。)
その年の夏は天候不順で、普通登山靴で登る所も氷が張り、最初からアイゼンをつけっぱなしだったという。順調に下部岩壁を登り、ヒンターシュトイサー・トラバースもこなした。しばらく登り「ツバメの巣」でビバークした。氷雪をカッティングしても、やっと2人腰を下ろせる位の場所だった。翌日は氷の第一雪田、氷の管、第二雪田と進んだ。例年になく氷雪が多く困難だった。渡部は昨年にすでにここまで登り、敗退していた。今度こそはと闘志は漲っていた。午後2時25分、死のビバーク到着。第3雪田を経てランペのカミーンでビバーク。途中でかぶった流水のためずぶ濡れ、雷のあと雪が降り零下10度の寒気に苛まれる。翌日、北壁は真っ白い雪に覆われていた。進退を迷ったが頂上まであと570m、登攀続行を決めた。ランペの上部は6級の困難さを持つが、氷雪に武装されてさらに最悪の状態になっていた。ようやくそこを抜けて神々のトラバースにさしかかったが、やはり雪に埋まって通常のルートはとれず、上部をトラバースし始めた。ここで高田がスリップし30m落下した。肋骨、腰を強打してビバークを余儀なくされた。撤退か、頂上への生還に賭けるかぎりぎりの選択を迫られたが、トップを渡部が務めて高田が後続していくことに決めた。硬い氷雪の上に積もった雪を払いながら蜘蛛を登った。トップの渡部は次第に疲労の色を深めていた。足場の氷が欠けて、高田にぶつかりながら10数mスリップした。最後の難場の頂上への割れ目に達した。カミーンのリングハーケンのある場所で直登するか、左にトラバースするかで2人の意見が割れた。渡部はハラーの「白い蜘蛛」の切り抜きを見ながらこれはミスプリントだとして左にトラバースを始めた。高田は直登が正しいと反対意見を述べたが、トップはトラバースしていった。岩の状態が悪いといいながらトップはオーバーバングの向こう側に消えていった。しばらくして「落ちる」という声と共に渡部が墜落した。にぎっていたザイルに電流のような衝撃が走り、ザイルがピーンと張った。しばらく何の応答もなかったが、必死の思いで3m位ザイルをたぐりよせると渡部が岩場に取り着いたらしく重みが軽くなり、姿が見えてきた、岩場の割れ目に身を横たえた。
時計を見ると午後5時だった。多分突出した岩場でバウンドして、一呼吸あって雪の斜面を滑落したので、ザイルを手繰り寄せ、自分も引き込まれずに止めることができたのだろう、と思われた。渡部は呻くような声で「ここは滝谷か」と聞いてきた。多分意識も朦朧としているのだろう。ザイルは1本しかない。発見されるまでここで待つか、一刻も早く下山して救助を求めるか、判断を迫られた。時間は6時を過ぎた。日没まであと2時間。救助を求めて必死の単独登攀に賭けることにした。「おーい、渡部くん。2日待ってくれ」「2日は持たない」そう返事があったがもう決断しなければならない、コンロ、燃料、食料、ビバーク用の荷物を全て残して補助ザイルで下ろした。彼は何も言わなかったが、下がってきた荷物を手元に置くのが見えた。「いいか、そこから決して動くな」と言い残して北壁に向かった。装備はアイスバイル、アイスメス、ハンマーをと補助ザイル1本のみだった。もう自分の運命に賭けるしかないと思った。ただ、国内でも単独登攀の経験があり、元々単独でのアイガー登攀を目指してきた自信のみが支えだった。脆い岩くずの急斜面を登り、屋根のような岩の脆い凸面にぶつかった。確保の手段もなく、手と足しか頼るものはなかった。落ちれば即、死。しかし、そこしか行く手はなかった。必死で越えて氷雪の岩を登り、午後8時過ぎに稜線に達した。ミッテルレギ山稜を登った。暗くなった岩稜で懐中電灯のスイッチを入れたが、なんと電気がつかなかった。一瞬ビバークを考えたが、一刻も待てない友のことを思いだした。雪あかりと、両手両足の感覚でなんとか行動できるはずだ、と思い直し一歩一歩進み9時過ぎにピークに立った。すぐさま西壁を降り始めた。以前偵察で登っていたのが手助けになった。岩に前向きになりながら、手探り、足場を探りながらそろそろと降りていった。睡魔に襲われながら、極度の興奮状態にあった。朦朧としてクレバスを避けながらふらつきながら降りていった。突然明るい光が前方に現れた。アイガーグレッチャー駅だった。3時半、いくら大声を張り上げても誰も出てこなかった。アイガーグレッチャーホテルのドアをどんどん叩いたが誰も応答がなかった。夢遊病者みたいに次の駅まで歩いた。クライネシャイデックホテルまで歩いてドアを大きく叩いたが、返答はなかった。さらに1時間程歩き日本人の登山隊が泊まっているアルピグレンホテルにたどり着き遭難を告げた。5時半だった。地元の救助隊が編成されたが悪天ですぐには動けなかった。1日たち、翌日アイガー北壁の基部に横たわって死んでいる渡部が発見された。彼は自分の確保を外して動きだしたらしい。登ろうとしたのか、もがいて間違って墜落したのかわからない。
後で、高田は現地や日本の報道陣からいろいろ質問され、彼の行動に批判的な意見もあったという。しかし、その行動をつぶさにみれば賞賛されることはあっても批難されることはないと思う。ただ、2人の登攀続行の判断には批判もあるかもしれない。
その後も幾多の栄光と悲劇の舞台となったアイガー北壁は現代においてもマッターホルンと共に最も日本で最も有名なアルプスの岩壁であり続けている。
アイガー北壁

アイガー北壁

花の百名山 田中澄江 著

田中澄江  1908年生まれ、2000年没の作家、脚本家。
昭和の初めの頃から山に親しむ。花の百名山は昭和53年から3年間に亘り「山と渓谷」に連載された記事をまとめたものであるという。当時は雑誌に連載されていることは知っていたが、ほとんど読んだことはなかった。最近読んでみて遅まきながら女史の山に対する愛と植物への博識のみならず歴史・文化への博識さを認識した。
日本百名山ならば、本家の深田久弥のものがあまりにも有名であるが、こちらの花の百名山は関東から東北、北海道に及び再び中央から西日本、九州へと全国に亘るものの山の大きさ、高さ、品格などにはこだわらずに著者の辿った遠近の山の花の随筆集といった趣である。
書かれた時期は昭和50年代だが、その思い出の足跡は昭和の初めまで遡る。
著者の子供時代、大正から昭和にかけては東京の高い所からなら、北に筑波、日光男体山、赤城、榛名、西には大菩薩、丹沢、箱根、富士、天城の山々が見えたという。
6歳で死に別れた父が手植えた庭の山野草を見、山の話を聞かせてもらいながら山への憧れを募らせていったという。学校の遠足、地理で近隣の山を知り、卒業して学校の教師になり月給をもらうようになると週末には一層山を歩くようになった。結婚して思うように山に行けなくなり、転んで足の骨を折ったりして一時期山から遠ざかったがまた運動の楽しみを山一本にしぼりゆっくりと山行を楽しむようになった。高水会という中高年の女性を中心とした山の仲間と頻繁に手近な山を歩き、いよいよ山の花が眼につき面白くなっていったという。
父は富士山にいて私が来るのを待っている、’お父さんは山にいる’。その思いを胸において山を歩き続けていったという。
昭和の初めの頃の9月の赤城登山の思い出も興味深い。「急に思いついてのことで、紫地のお召しの着物に朱赤の帯を締め、カナリアいろのパラソルをさして、草履であった。」黄ばみそめた白樺の葉と真っ白な幹の対照が鮮やかだった、と。また小沼のほとりのマツムシソウがきれいでその中に寝転んでいると怪しまれた、沼のボートでは投身自殺者と間違われた、という。身なりも身なりだが、その当時の若い女性の1人登山など一般的ではなかったのであろう。戦後俗化されたものの懐かしくまた往時の道を辿ると緋に燃えるようなレンゲツツジの花盛りであった。地蔵岳から忠治温泉への下り道で、草むらのなかに一点の赤い色を見つけた。薄紅のアツモリソウだった。その名は一谷に死んだ平敦盛の背に負った母衣の形からとったという。
著者は「登る山をえらぶとき、高さよりはその山が人間の生活とどうかかわりがあったかが、いつも気になる。私は古戦場とよばれるような山を歩くのが好きである。敗残の生命をかつがつに保って、落城の兵の逃げていった道などは、殊に心惹かれる」と書くように古人の故事にまつわる山を好んで取り上げている。
ヤマトタケルノミコト、源平の武将達、戦国の武田勝頼、佐々成政など悲運の末路を辿った人々の跡を辿っている。彼らはいまわの際に故郷の山河、恋する人に思いを馳せたのであろうか。そういう著者も「若い日というものは、周囲に対して、馬車馬のように注意のゆきとどかなかったものだと、今ごろになって恥ずかしい・・・ただ速く歩くばかりが能だったのである」とも述懐している。この人にしてもやはり青年期というものは一途で周りが見えないものらしい。
わが身を振り返ると、北海道から九州まで百名山も登れば数々の山の花々を目にしてきたはずだが、あまり記憶に残っていない。大体花の名前を知らないので記憶に留めようがないのかもしれない。青年期を過ぎてもただ登るだけで周りに注意が行き届かず忸怩たる思いだ。それでも、ニッコウキスゲやチングルマ、シナノキンバイ、ウスユキソウ、コマクサ、シャクナゲ、カタクリ、コバイケイソウなど貧弱な記憶の中にも思いは重なり、感慨深い。
著者は高山植物が好きといっても、図鑑と首っ引きで、花に詳しい人からその名を教えて貰うのが精一杯の花との付き合い方と謙遜されているが、植物同好会に入っていて、よく牧野富太郎氏の後をついて武蔵野の丘々を歩いた、という。また武田久吉氏から直々に尾瀬の花の話を聞くなど本格的である。
著者の花の旅は、古の人々を偲んでの山行きが多い。ただやみくもに山を歩いていた小生等には見えなかった世界だ。当たり前のことだが、この国の山も川も古からあり、人々も山河を越え、花を見ながら幾多の歴史ドラマを繰り広げていったのだろう。
その中で二上山はとりわけ心に残る一項である。昔、高校時代に皆と文集などを作っていたが、国語の先生がそこに二上山の記事を寄稿して下さった。
二上山はその昔大津皇子の悲しい歴史を秘めた山である。
大津皇子は天武天皇の第3皇子。母は天智天皇の大田皇女。父天武天皇が崩じてわずか1月も経たずに皇位を奪おうとしたとの謀反の嫌疑をかけられて死を賜った。それには早世した大田皇女の妹で自分の叔母にあたる持統天皇や藤原不比等の画策が覗われるとされる。夫の悲報に妃の山辺皇女は髪振り乱してその亡骸に取りすがり、殉じて果てた。伊勢神宮の斎王であった姉の大来皇女は皇子が二上山に埋葬された後、悲しんでうたに詠んだ。
  うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む
大津皇子は幼くして学を好み、また長ずるに及んで武芸にも秀で剣を良くしたという。性格は闊達で人望が厚かった。さらに政治にも参画し将来を嘱望されていた、とある。それだけに持統天皇は実子の草壁皇子の将来の地位を脅かす存在になると思ったものであろう。この姉弟は死の前にすでにそれを暗示するかのような歌も詠んでいる。悲しい結末をすでに思い定めていたのであろうか。
この悲劇も天智、天武朝の骨肉相食む政変劇の一つに過ぎないかもしれないが、有望な貴公子だっただけに、彼を愛した人々の逸話が伝わるだけに悲しい物語である。高校の恩師は寄稿文の最後にこの悲しい歴史を秘めた山は「にじょうざん」ではなく「ふたかみやま」と呼ぶのが似つかわしい、と結ばれた。このことはずっと心に引っかかっており、いつか訪れたいとは思っていたが、近くを通り過ぎたことはあってもまだ実現していない。女史も古の大津皇子を偲んで、レンゲやペンペン草の花盛りの田園風景の中を爪先登りに登ったという。高々500m程の山で現在ではハイキングコースというがいつか訪れてみたい。
 この本は山の花好きの人にとってはきっと情景がありありと目の前に浮かんで心躍る本であろうと

八方尾根花紀行

八方尾根から唐松岳に登ってきました 。登山道沿いには数々の高山植物が咲き乱れていました。7月末の週末とあって唐松山荘は今年一番の登山客ということで,大混みでした。残念ながら晴天とはいかず頂上からの眺望も今一つでしたが、久しぶりの山の空気を吸って心地よい気分でした。 写真に収めた高山植物で名前のわかったものをピックアップしてみました。
オオバギボウシ.JPGキンコウカ .JPGコマクサ.JPGシモツケソウ.JPGタカネナデシコ.JPGチングルマ.JPGニッコウキスゲ.JPGニッコウキスゲ2.JPGハクサンタイゲキ.JPGハクサンチドリ.JPGハッポウタカネセンブリ.JPGミヤマコゴメグサ.JPGミヤマダイモンジソウDSCF2467.jpgミヤマママコナ.JPGムシトリスミレ.JPGユキワリソウ.JPGワタスゲ.JPGワタスゲ2.JPGツガザクラ.JPGミヤマアズマギク.JPGヤマブキショウマ.JPGタテヤマウツボグサ.JPGクルマユリ.JPG八方ケルン.JPG八方池から唐松ー不帰.JPG

アルプス登攀記 ウインパー 著

エドワード・ウインパー。
1840年、ロンドンに生まれた。父の画家としての職業を踏襲して、挿絵画家の道を歩んだが1860年イギリス山岳会の登山紀行集の挿絵の仕事を依頼されたことをきっかけにヨーロッパアルプスに出発した。それまでは登山は素人であったが、アルプスに魅了され繰り返しアルプス登山を行った。そして念願のマッターホルンに7度の失敗を乗り越えて1865年に初登頂し、その下山時に同行者が墜死するという悲劇はあまりに有名である。アルプス登攀記(SCRAMBLES AMONGST THE ALPS)はその間の紀行、論考をまとめた本で、最後に栄光と悲劇の物語のクライマックスを迎えて劇的に終わっている。
1871年に初版本が発行されたが、1900年まで加筆、改定を繰り返している。日本語版は1936年自身も登山家である浦松佐美太郎によって訳出された。
ウインパーが述べているように、「私は登山を、スポーツとして、この本のなかで書いたのであって、それ以外のことは何も考えていない。これらの登山によって与えられた楽しさは、それを他の人に伝えることは不可能である。アルプスの山々の素晴らしさは、どんな名文豪でも文章に書き現わすことはできなかった。これからも、できないことだろうと思う。大文豪といわれる人の書いた詳細にわたる叙述も、全く違った印象を読者に与えるにしか過ぎないーーおそらく読者は壮大な風景を、心のなかに作りだすかもしれないが、それでもなお現実の山の姿に対しては、まことに貧弱なものにすぎないのである。」
フランスのドフィネ地方のモン・ペルヴー登山から次々へ高山に登り、未知の世界へ、マッターホルンへと駆り立てられていった衝動を述べながら、また画家としての詳細な描写をしながらもなおかつ読者へ伝えきれないもどかしさを述べている。確かに実際に経験しなくてはその感動は分からない。百聞は一見に如かず、だ。文章を読んでいても現場のイメージはわからない。ただ、今はインターネットによる写真があり、グーグル・アースなどの情報があるので、読みながら参照すればいくらかは実像を感じ取る補助にはなるかもしれない。
 第1回目のマッターホルンへの試登は、1861年に南面のイタリア側から行われた。というのは、ツェルマットのある北面側から眺めた時、切り立った絶壁のようで、南面からの眺めはピラミッドが幾重にも積み重なったように見え、取り着き易いイメージがあり、初期の試みは皆後者からであった。ブルーイユの村からリオンのコルを目指し、南西山稜にとり着いたが、チムニーに行く手を阻まれた。
翌1862年も同じルートを挑んだが、天候のためや、人夫の不調のためまた敗退した。それで、単独でまた登りなおし、チムニーを越えて、大きな岩塔まで登った。ここからは、岩は逆層がきつくなり、ボロボロな岩質になっていたため退却した。下降に便利なように鉄のフックや懸垂下降用の鉄の輪などを利用している。下降に邪魔な氷斧をテントに残してきたため、氷の斜面で滑落してしまった。岩壁から岩壁へと空中を飛ばされながら、絶壁のすぐ上の岩溝のくびれたところに引っ掛かり、止まったという。20か所以上の傷口から血が吹き出、一旦気絶しながらもブルーイユまでたどり着いた。1週間後には性懲りもなく同じ岩塔まで戻ってきている。今回はベテランガイドのカレルを伴って。しかし天候が急変し吹雪になったため下山した。
カレルはどうも自分がイタリアからの初登頂を狙っているようで、協力的ではないために別のガイドを伴って前回の最高点を通過して登っていったが垂壁に阻まれてしまった。
1863年8月もコル・デ・リオンから挑んだ。またしても吹雪、雷鳴に苦しめられて頂上近くの「肩」を手前にして退却した。この間麓は快晴でマッターホルンにだけ雲がかかっていただけだったという。
1865年はいままでの戦略を大きくかえた。その最大の理由はマッターホルンの岩層が西南西の方向へ傾斜していることが分かったことである。すなわち南西稜から登るとまるで屋根瓦を登って行くような逆層の岩になり、ヘルンリ綾、東壁からだとその逆の順層になるということである。また東壁は見た目の急峻さとは異なって40度を越えていないことが分かった。それに今までの気象障害、尾根筋よりも岩壁、雪壁を登ることを好むようになったことなどを理由としてあげている。
6月末にクローら山案内人4人を連れて南東山稜から東壁をめざしたが、岩溝の落石のために一旦撤退した。7月にカレルに東壁からの登攀を打診したが、はっきりしない返事だったが了解をとりつけた。しかし、カレル等はジョルダーノ氏率いるイタリア隊とすでにマッターホルン登攀の予定を組んでおり、ウインパーは出し抜かれた形になってしまった。
無念さに歯ぎしりした彼はなんとか挽回する策を考えた。早くイタリア側のブルーイユからツェルマットに戻り、ガイドを雇うということだ。若い英国人(ダグラス卿)がペーテル・タウクワルダーを連れてツェルマットからやってきた。また老タウクワルダーはヘルンリの上まで登り、登頂への可能性を見出した、と聞いた。そこで彼はペーテル親子を雇い彼らと登攀することにした。ダグラス卿も参加を希望したので誘った。ツェルマットに着くとシャモニに帰ったとばかり思った信頼するガイドクローとホテル・モンテローザの前でばったり出会った。彼はハドソン氏とマッターホルンに登る予定だという。友人のハドー氏も一緒だという。話し合いの結果、二つの登山隊が、同じ目的を持って、同じ時に一つの山に登るのは、どうも面白くないという意見で一致した。それでウインパーがハドソン氏を彼の仲間に誘った。彼は寝床の中で様々な不思議な因縁が去来して仕方がなかった、という。 
 こうしてイタリア隊に対抗するべく急造の登山隊が結成されたのである。
7月13日午前5時半にツェルマットを出発した。雲一つない晴天だったという。ヘルンリ稜から東壁に向かった。思ったよりも易しい岩場だった。12時前にテントを張った。クローと小ペーテルが明日のためにルート工作に向かったが、東壁の随分高い所まで登っていった。3時過ぎに戻ってきた2人は「難しい所は一つもありません。登ろうと思えば今日中にでも登って戻って来れたでしょう。」といった。14日夜明け前に出発。荷物がないので楽だった。難しい所も左右に動けば登れた。大部分はザイルも必要としなかった。しばらく登ると垂壁に行く手を阻まれたので北東山稜から北壁側にまわり、岩と氷のミックス壁を登った。難しかったが40度を越えなかった。しっかりした登山家なら安全に登れる所だった。ハドソン氏は一度の手助けも必要としなかった。しか
しハドー氏は絶えず手助けが必要だった。午後1時40分ウインパーとクローはほぼ同時に頂上に駆け上がった。イタリア隊はずっと下の方にいた。石を投げて教えてやると彼らは退却を始めた。1時間程頂上にいて下山を始めた。ザイルの順番についてハドソンと相談した。クローを先頭に立て、次いでハドーをおいた。山案内と遜色のないハドソンは3番手を選んだ。次にダグラス卿を選んだ。その後に最も強力な老ペーテルを立てた。ハドソンには登った時の最後の難所ではザイルを岩に結びそれを握って降りるように指示した。ウインパーは頂上で写生をしたり、名前を瓶に入れて残す作業のため皆から少し遅れて下り始めた。小ペーテルとザイルを組み、難しい岩場で皆に追いついた。皆一歩ずつ慎重に下っていたが補助ロープは使っていなかった。3時頃ダグラス卿にたのまれて老ペーテルともザイルを結んだ。クローが両手でハドーの両足を支えて足場を確保していた。そして、自分が下るために後ろ向きになった時にハドーが足を滑らせクローの背中にぶつかり、突き落としたというのだ。ただウインパーの所からは岩が邪魔して一部分しか見えなかったという。そして、次々に叫び声を上げながら滑り落ちて行った。老ペーテルとウインパーにも衝撃がきてザイルはピーンと張ったが、ダグラス卿と老ペーテルの間でザイルは切れてしまった。なんと彼は補助ロープを使っていたのだった。すっかり気力をうしなったペーテル親子を叱咤激励しながら、補助ロープを岩に結びつけながら下山した。
こうして、栄光の初登攀から一転して悲劇へと変じたマッターホルンの物語は終焉を迎えた。彼もペーテルもスイスの法廷で裁判にかけられ、最終的には無罪になったが、種々の非難にさらされた。彼もこの時を境にアルプスから姿を消す。
アルプス登攀記はもちろんマッターホルン初登攀に至る記録だが、それ以外にエクランやグランド・ジョラスやエギーユ・ベルトの初登攀などの素晴らしい記録も同時に収められている。ウインパーは仕事に対しては注意深く、熱心で徹底的に物事を追求する性格の人であったという。注意深い観察眼は植物学、地質学にも及び、登山用具の改良、発展にも寄与したという。また精巧なアルプスの描写はまだ写真の発達していなかった時期にアルプスの実像を伝えたろう。これらの努力、性格がこの困難な初登攀を成し遂げる元になっていたのだろう。
この本のなかには、鉄道トンネル工事の詳細な記述や、氷河の成り立ちへの記述などその観察眼の鋭さや緻密さが垣間見られる。しかし、氷河の学説に対し、当時の大家を激しく非難している記事や、当時のアルプスの人々の貧しさ、汚さを述べている点、アオスタ谷に多くみられた甲状腺腫(クレチン病)による?精神遅延者を根絶する試みに対する今日では不適切ともとれる記述などやや温厚さを欠く性格も垣間見られるようだ。しかし、友人たちの追憶の言葉によれば「他人にお世辞を言わず、思うことをはっきりと言う性格であり、また積極的に人との交際を求めることもしなかったために誤解されることが多かったが、彼は温かい心の持主で、心をゆるした友人との間では、よき話相手であり、心置きなく付き合える人柄であった。また話題も豊富で、独特の鋭い皮肉な観察眼ももっていた」という。
アルプスを去った彼はその後、グリーンランド探検、南米のチンボラソ初登攀、カナディアンロッキー初登攀など精力的に活動している。
年老いた彼はかつての青春の日々を追憶すべく、ツェルマット、シャモニと旅を続け、シャモニの宿で客死した。最後は部屋に鍵をかけ医者の治療を拒否して逝ったという。いまは静かにシャモニの墓地に眠っている。
アルプス登攀記はウインパーが山に目覚め、マッターホルンを初登攀し、アルプスを去るまでのたかだか6年間の個人的な手記である。それでいながら、意識したかどうかはともかく、この間彼はアルプス登山史の中心にいて最大の偉業を成し遂げた。この時期はアルプス登山史の黄金期の最終開花期でもあった。モンブランを始め幾多のアルプスの高山が制覇されていった当時、最後に残る難攻不落の山がマッターホルンだったのである。
彼の詳細な、また時として歯に衣を着せぬ報告は今となっては却って第一級の歴史的な資料となっている。この本を読んで、山への、アルプスへの憧れを掻き立てられ、登山家として成長していった多くの若者がいるという。あの時期の粗末な装備で氷の斜面を登下降したりシュルンドを飛び越したりなど臨場感のある記述を読むと、今も手に汗を握る程である。山好きの人には堪えられない本だといえる。

最後に彼が一番読者に伝えたかったであろう言葉でこの物語を締めくくりたい。
「そして、あの最後の悲しい記憶が、私のまわりに漂いつづけている。流れていく霧のように日の光をさえぎり、楽しかった思い出をさえ凍らせてしまう。言葉では言い尽くせないほど大きな喜びも数多くあった。それとともに、思いだしても苦しくなる悲しみもあった。これら一切のことを顧みてもなお私は、山へ登りたいと思うなら、登りなさいと言いたい。ただしかし、勇気と力だけがあっても、慎重さを欠いていたら、それは無に等しいということを忘れないでいて欲しい。そしてまた、一瞬の不注意が、一生の幸福を破滅に陥れるものであることも、忘れないで欲しい。何ごとも、あわててやってはならない。一歩一歩をしっかりと踏みしめ、常に最初から、終りが、どんなことになるかを、よく考えて行動して欲しい。」

新編 単独行 加藤文太郎 著

不世出の単独行の登山者、加藤文太郎。昭和の初めに彗星のように現れて、冬の北アルプスを縦横無尽に駆け巡り、国宝的な存在となったが、冬の北鎌尾根に消えて帰らぬ人となった。昭和11年に亡くなってもう一世紀近くになるが、いまだにファンは多く、特に多くの単独行志向の若者のあこがれの星であり続けている。
「単独行」は、遺稿集として、加藤文太郎の書いた文章を集めて昭和11年に刊行された。2000年に周辺資料を合わせて、「新編・単独行」として出版された。この新編を読む機会があったので、概略を記してみたい。
 年表によると、文太郎は1905年(明治38年)兵庫県浜坂町に生まれている。1919年三菱内燃製作所に入社し、技師として生涯勤務した。大正13年以来兵庫県内の国道と県道を四百里ほど歩いた、という。その驚異的な脚力、踏破力はその時に培われたものだろう。大正14年から夏の北アルプスへの本格登山が始まっているが、その足跡は実に驚異的である。5-10日前後の単独行を繰り返しているが、初の北アルプスからして凄い。中房温泉から燕岳へ登り、いわゆる表銀座コースを経て槍、穂高を縦走。ここまでは普通だが、上高地へ下山後、安房峠、平湯を経て乗鞍を登頂、更に進んで御嶽山を登り、木曽駒ケ岳に至っている。宝剣岳、空木岳を越え、南駒岳に到り、擂鉢窪から道なき道を辿り飯島に出ている。この長大なコースを休み日なく、車など交通手段を使った形跡もない。「神戸へ無事五日午前一時着せり、同二時床につく。痛快云わん方なかりき」と記している。このコースを登った経験のある人ならば淡々と記されたこの行程の超人的なことがわかると思う。
翌昭和2年の夏には赤石~聖~荒川~塩見~農鳥~北岳の長大なコースを8日間で縦走している。これらの経験を基に、縦走コースの紹介をしているが、一日14,5時間歩くような行程で常人にはちっとも参考になっていないし、無茶苦茶なコース設定である。彼にはこれが普通と思われたのだろう。
 昭和4年の正月には夏沢峠から硫黄岳、赤岳と初めての本格的な冬山登山を敢行している。後の彼からは考えられないようなコメントを残している。「今日は元日だ、町の人々は僕の最も好きな餅を腹一パイ食い、いやになるほど正月気分を味わっている事だろう。僕もそんな気分が味わいたい、・・・それだのに、なぜ僕は、ただ一人で呼吸が蒲団に凍るような寒さを忍び、凍った蒲鉾ばかりを食って、歌も唄う気がしないほどの淋しい生活を自ら求めるのだろう。」その後、堰を切ったように怒涛の冬山単独行が始まる。その中でも白眉は昭和6年1月に薬師岳から烏帽子岳までの北アルプス核心部をU字型に10日間かけてサポート無しに辿ったものであろう。特に三俣蓮華から烏帽子岳の踏破記録が凄い。雪の中を三俣蓮華の小屋を午前7時に出発して、鷲羽岳、黒岳、野口五郎岳と辿り、烏帽子岳の小屋には翌日の午前2時に到着している。
翌昭和7年2月の槍から双六岳及び笠ケ岳往復の記録も凄いに尽きる。午前6時に槍を出発、笠ケ岳には午後8時到着、小屋に泊る予定であったが、雪で見つからないために、来た道を引き返している。懐中電灯も切れて雪明りの中を歩き通し、翌日午後2時20分に槍の小屋に戻ってきている。実に32時間行動し続けたことになる。
このような無敵と思われる文太郎にも技術面・心理面の葛藤、変化がみてとれる。一つはいわば独学で突き進んでいったために、スキー技術、岩登り技術など不得手であったらしいこと、病気がちで先の長くない父が危ない登山はやめてくれ、身を固めてくれと懇願したことなどがあげられる。「その後父の病気はだんだん重くなっていくのになお山の恐ろしい力が私を誘惑する。それは前穂の北尾根と槍の北鎌尾根なので、一人では少々不安だ、・・・吉田君は山での死をすこしも恐れていない。その上岩登りが実にうまい。だから私は間もなく吉田君を誘惑してしまった。」この文章が悲劇の結末を暗示しているかのようでもある。実際に昭和10年には花子と結婚して無茶な山行はしなくなっているが、やはり北鎌尾根はやり残した感があったのだろうか。
昭和11年の正月3日、昼食後槍肩の小屋から吉田氏と北鎌尾根に向かったまま行方不明になり、4月に北鎌尾根末端の千天出合近くで遺体が発見された。第3吊橋の袂にピッケルが立ててあり、その下に吉田氏の遺体が整然と横たわり、文太郎はそこから200m下手の渓流に浸って横たわっていたという。推察するに吉田氏が先に力尽き動けなくなったのを看取った文太郎がピッケルを目印にして残し、最後の力を振り絞って何とか生還しようと一人湯俣を目指したが、やはり力尽きたと思われる。妻はその手記に文太郎が6日の明方、手編みのセーターを着て夢枕にたったという。もしかすると律義な彼が最期の別れに最愛の妻の元に別れの思いを届けたのかもしれない。
同行した2人の証言によると、3日朝、吉田氏をリーダーとして3名が槍へ向かい、文太郎は小屋に残った。昼前に3名は小屋に戻り、2名に下山するように指示し、加藤・吉田の2人で槍を越え北鎌に向かうと言って出て行った。文太郎は今日中は間違いなく晴れだといった、食料は甘納豆、リンゴ2個、チョコレート3枚で服装は簡単な防寒具だった、とある。それにしてもあのいつも慎重な文太郎のその時の行動は腑に落ちない。どうみても難関の北鎌尾根を踏破する装備、心構えではない。実際12時過ぎには猛烈な吹雪になっていたというし、無理をして深入りするような状況ではなかったと思われる。しかし両名は戻ってこなかった。そして吹雪は7日まで続いたという。捜索隊は北鎌第二峰の北側に2人のビバークの跡を発見し、附近に乱れたアイゼンの跡も見つけたという。その跡は途中で途切れていたという。現場の状況から千丈沢へ転落したのではないかと推定している。しかし、2人が発見されたのはもう一投足で湯俣という千天出合近くの天上沢だった。すなわち千丈沢へ墜死したのではないということだ。岩壁に限らず山は登るより下る方がずっと難しいことは常識だ。況してや冬の岩壁をクライムダウンしていく事の困難さは言を俟たない。ビバークの後、2人にどのようなやり取りがあり、どのようなアクシデントが起こったかは想像の域をでない。岩壁登攀の得意な吉田氏はリードして戻れなかったのだろうか。
新田次郎の小説「孤高の人」では吉田氏は初めて加藤とパートナーを組み、功をあせり結果として加藤を死地に追い込んだ者のような設定で描かれているが、事実は違う。前穂北尾根でもむしろ加藤をリードしているし、困難なルートを制覇するために加藤の方から誘ったとの記述もある。孤高の人がパーティーを組んだがために遭難したとするのは極論だろう。しかし、それでもなお彼が単独であったならばもっと慎重に、あるいはもっと臆病に事を進めていたかもしれないと思う。そして臆病に進めば、あの強靭な体力と、粘りをもってすれば数日のビバークにも耐えてひょっこり湯俣を経て里に顔を出したのではないかとも思われる。かつて友人と2人で11月の北鎌尾根を登ったが、まだ雪は少なく、頂上付近でザイルは使ったもののほぼ夏道を辿ることができた。しかし、一度悪天候になり氷雪に閉ざされると悪絶なコースに変身するという。現代でも尾根上で何回ものビバークを強いられたケースもあるという。こんな岩稜を真冬の吹雪の中、あの時代の装備でよく末端まで頑張ったと思う。
文太郎は他人に顕示するために超人的な山行を敢行したのではない。已むに已まれぬ山への思いが為せたのであろう。そして決して洗練されたとはいえない文章でも時代を越えて山好きの人の心に響き続けているのであろう。

 
                                           

日翳の山 ひなたの山 上田哲農 著

上田哲農は1911年生まれ、1970年に亡くなった。20代の頃、日本登高会の設立に加わり、戦前、白馬、谷川岳などの困難な登攀ルートの開拓に取り組んだ。また第2次RCCの設立に加わり、代表も務めた。本業は画家であり、日展の特選にも選ばれている。日翳の山 ひなたの山は昭和33年の初版だから、著者が47歳頃の書である。
本の跋に述べられているように戦前に画文集として夭折した長女の供養のために出版を企画されたものの、戦局の悪化で日の目を見なくなり、戦後さらに長男、父を失って、その人生をささげた山への想いを父の十三回忌の折に綴ったとある。
日翳とひなたの説明について、山岳風景には日の当たる山々と、陰翳の多い谷々があるが、『ぼくにいわせれば、それらはいずれも「ひなたの山」であって、「日翳の山」ではないのです。そうです。「日翳の山」とは実在のものではありません。・・・「行為」は「ひなたの山」、「思案」は「日翳の山」と考えて、これは車の両輪の如く、離そうとしても離れないし――登山がスポーツの王とされるゆえんもここにあり、書名にしたわけです。』とある。
 本書の中には、のびやかな上州や信州、北海道の山スキーや里山の紀行が随所に出てくる。一方で著者はスキーの名手だったらしく雪山を縦横無尽に駈けまわり、岩壁にも挑んでいる。時代を考えると先鋭的な活動をしていたのだろう。ただそれだけではなく、山の時々の事象、場面ごとに詩情がある。そして挿絵はプロだから当然の如く素晴らしく、その文章と相俟って臨場感があり、心に残る。僕にとっては全ての文章が山のアンソロジーだ。それと、山とは関係ないがタンゴの名手でもあり、小生の記憶ちがいかもしれないが、全日本選手権でも輝かしい記録を残している。
 岩登りでは、「ある登攀」。・・・「それはまさに死の重圧から、危くすりぬけた思いだった。思い出しただけでも、背筋の寒くなるような、あの日の経験――それを今くりかえしているものがいる。」との書き出しで始まる、白馬主稜冬季初登攀の記録だ。最大の難関、ナイフリッジで、シュルンドのためにオーバーハング状になった場所で悪戦苦闘している登攀者がいる。それを著者は白馬頂上から固唾をのんで見守っている。首尾よく乗り越えてくれという期待と同時に、簡単に完登するのを望まないという複雑な気持ちも吐露している。『「白馬の主稜なんかチョロイ」といわれるのが何より恐ろしかったのだ。そうだ。ぼくは、「どうだね、白馬の主稜はそう簡単にはいくまい」と誇りたかったのだ。越中あげの強風に煽られながら、ぼくは唇をかみ、ゆううつだった。』
 また、「蝶とBivak」では、細長い岩棚で暴風雨の中でのビバーク。仲間は瀕死の重傷を負っていながら、膝を抱えるほどのスペースしかない。夜明けに死んだかのような蝶が近くに数羽張り付いていた。それがひらひらと飛び立って、それと共に生還への希望がわいてきた、というものだ。ぎりぎりの状況は臨場感があふれる。
 一方で、「冬の宿」では、札幌の安アパートで山スキーのため数カ月滞在した時の、隣部屋の芸者さんとの一寸した人情の触れあいなどが、綴られている。
 また、「安曇野日記抄」は春の後立山での現地の人たちとの交流が雪解けの季節の移り変わりと共に綴られている。
 どの文章をとっても心に沁み入り、山への想いを掻き立てられるのだが、最後に自身も登攀者で、画家で、詩人でもある芳野満彦の解説文の一節を引用する。

 山登り気違いの少年というのは、たいがい「吾が薫陶の書」をもっている。ぼくも自分の山登りの感化を受けた書物というのは、時代とともに多少は変ったけれども、何冊かあった。たとえばエドワード・ウインパーの『アルプス登攀記』であるとか、槇有恒の『山行』、藤木九三の『屋上登攀者』、加藤泰三『霧の山稜』、ハンス・モルゲンターレル『イヤー・ベルゲ』などであった。しかし、上田哲農『日翳の山 ひなたの山』を手にしたときから、もう自分の山登りも絵も、続けて行く自信を失うほどの大ショックを受けた。山登りや絵に関する優れた書物は世の中に山ほどあるけれども、この『日翳の山 ひなたの山』ほど、一人の少年というか、すでに二十歳を過ぎていたから青年というのであろうか、とにかく、一人の人間の生きざまを狂わした書物はない。

私のエベレスト峰 柳沢勝輔 著

先日、地区医師会の会食の席で、友人のそが病院の林院長から最高齢でエベレストに登頂した恩師がいるとの話を伺った。中学時代の担任の先生で当時はそんなすごい先生とは知らなかったが同窓会や、講演会で登頂の話を聞き、登頂記を戴いたとのことだった。興味深く話を聞いていた所、後日彼が著書を貸してくれたので読んでみた。
 「私のエベレスト峰」   柳沢勝輔 著   しなのき書房 2008年
 著者は昭和11年生まれで、大学時代から本格的な登山を始めたが、中学校教師のかたわら国内の登山を続けた。退職後の平成19年(2007年)5月22日に71歳2ヶ月でエベレストに登頂した。その後三浦雄一郎氏などにその記録を塗り替えられたが当時としては世界最高齢での輝かしい記録だ。
 著者が本格的な登山を始めたのは、登山ブームといわれた昭和30年代である。日本山岳会が総力をあげてマナスル峰の登頂を果たし、その熱気のなかで北アルプスの冬山合宿で極地法を学んだ。しかし就職し学校勤めになると長期の登山はできなくなり次第に山から遠ざかったという。ところが60歳間際、定年まであとわずかになって6000m峰への夢が開けた。ヒマラヤに行けるのなら退職したって構わないとの気持ちが行動に動かしたのだろう。ヤラピークで意外と高所に強いとの自信を得る。長野県労山記念登山隊に参加し7000m峰のレーニン峰に挑む。しかし体調管理や、高度順応などの不慣れもあり、登頂隊から漏れてしまい登頂に失敗してしまう。しかし、著者はこの登山で高所での行動が出来たことの自信を得、また高所では仲間に頼ってはだめで自分の意志の力での行動の必要性、自己管理の必要性を学んだ。
 それから数年たち、大勢の友人が登って情報の多いカザフスタンのハンテングリ峰に挑んだ。後年エベレストでも世話になる山岳ガイドの倉岡氏と同行する。大理石の岩稜、氷雪の稜線を経て頂上に立った。著者は山に行くときには「山の風に吹かれてきます。」という言葉をよく使うという。文字通り7000mの風に吹かれたのだった。
 一旦満足したかに思われた気持ちが収まらないのが山屋の性なのだろう。3,4年がたつと今度は8000mの風に吹かれたいと思うようになったという。ハンテングリでお世話になった倉岡氏に相談しハンテングリより楽ですよ、というチョー・オユーに狙いを定め、70歳の記念登山を決意する。ところが出発直前に胃癌を宣告され、手術を余儀なくされた。術後は気持ちはあせるが、体の方は思うにまかせないので、とりあえず成田空港まで行かれればいい、ネパールやチベットへ行ってからもトレーニングはできる、というのだから尋常ではない。チョー・オユーはどっかりと白い達磨が座っているようで中腹にロックバンドが走っているものの、ほかは岩場が2,3か所見えるだけで、氷の壁というよりは、下から上まで雪面が続いているという印象であった、と。「雪の尾根や雪の壁なら頑張りさえすればどうにかなるだろう」とゆっくりながら高度順応しシーズン最後の好天を狙って登頂に成功する。ロックバンドを越えて雪原状の頂上に出ると眼前にどっしりとした青くそびえる岩山が飛び込んできた。「私は息を飲んだ。エベレスト峰だ。私は我を忘れてしばらくその光景に見とれた。・・・チョー・オユーには申し訳ないが、登頂した感激よりも、エベレスト峰に完全に心を奪われてしまっていた。」
 8000mの風に吹かれヒマラヤの一角に触れられ、心は満たされ年齢的にも一区切りつき高所登山は終わったと思い定め、著者は帰国後は日常の農作業や山仕事、社会的な活動に戻って行った。しかし、チョー・オユーの記録写真を整理しながら心はやはり遥かなエベレストから離れられなかったようだ。倉岡氏にエベレストのツアー募集のパンフレットを依頼し心を慰めていたところ、氏から締め切り後なのに「柳沢さんならいいよ」との言葉をかけられ動揺したという。どうせ登れないからやめろ、といわれるに決まっていると思い、岳友、知人には内緒で出発の朝に手紙で連絡し、成田に向かったという。春物の収穫はあきらめて秋物だけにして、大幅な減収は覚悟したが、ジャガイモだけは出発前に播種した。その日のうちにバンコクに飛び、ネパールのカトマンズ経由でチベットのラサに入った。
 以下は著者の記述に沿って日記風に記述・・・
 高度順化を兼ねてポタラ宮殿に行く。シガツェ、シガールを経て、ロンブク氷河の末端に位置する標高5200mのBC(ベースキャンプ)に入った。日本を発って14日目の4月12日であった。BCは氷河の河川敷ともいえるような所で3,400mはあるかと思えるような平らなモレーン(岩屑)の広川原である。今までの経験で腹八分目を堅持した。BCは国際色豊かで、日本人が5人、欧米人が10人、その他トレッキングの人、アメリカのテレビクルーなどであった。氷河のモレーンの道を登り下りしながら荷物運びのヤクの群れを避けつつ登った。4月22日吹雪の中を疲労困憊して夕暮れのABC(前進キャンプ)に到着する。高度6200mである。この間に高度順化に失敗したり、登山条件が整ってなくて下山を余儀なくされる人も出てくる。4月29日、7000mのC1に向かうがのどや唇の痛みが強く、ABCに引き返す。5月4日再度C1を目指す。固定ロープを頼りにしながらゆっくり進み、ノースコルにあるC1に到着する。5月7日は、登頂前の完全休養のためにBCへ下った。5月15日、1週間の休養を終えて、BCを出発した。中間キャンプまで。5月16日、ABCに入る。遭難者が3人出たことを知らされる。そのうち2人が日本人とのこと。そのうちの一人M氏は世界第二のK2に無酸素で登頂し、今回はエベレストに無酸素で登頂を狙っていたとのことだ。5月18日、本格的に登頂を目指す。C1に再度入るが、テントは傾いていて、窪んだ所は水たまりになっている。5月19日。朝日に照らされたC1からC2への登路はすべて雪稜である。見た目はスキー場の斜面の様だったが、実際は結構きつかった。他人を気遣うようなことを言うと倉岡氏は「他人のことなど心配しないで自分のことだけ考えな」といった。またボスのラッセル氏は「全力を出し切るな、70%の力を使い、残る30%は生きる力として温存しておけ。」といった。ここはもう生き延びるか、死ぬかのぎりぎりの世界なのだ。苦しみながら7800mのC2に到達した。5月20日。エベレスト峰は今朝も雪煙を飛ばしている。もう迷いはない。あの峰のてっぺんに登るのだ。この日はC3に到着する。ここは一般のチームのC2とC3の中間位の位置で、体力のないものも登れるように、一つキャンプを多く増やしてある。C2からは全員酸素を使う。5月21日。C3からC4(最終キャンプ)に入る。固定ロープを伝わって岩場を越えていく。5月22日、ついに登頂へ。出発は午前0時だが、興奮しているためか10時の予定が9時に目覚める。しかし準備に手間取り、出発間際にやっと間に合った。片方の靴下を履くのに、10分、高所靴を履く30分はかかった。出発直後からはきつい岩登りとなり、ヘッドランプの明かりを頼りに一歩ずつ登る。途中きのこ岩で酸素ボンベを確認する。暗闇のなかでも日本人隊、外人部隊、シェルパなど含めて20人程いた。徐々に夜が明け始め、中国隊が初登頂の際に掛けた梯子場に来た。梯子場を過ぎるとしばらくして雪田に出た。明るさが増し、エベレスト峰に光が当たった。みるみる白黒の姿が黄金に輝いた。チームの大部分の人たちは、長い列を作って先に行く。今の自分の体調はよく、闘争心も十分だ。ゆっくり進んで行くと前方の雪田に斃れた人が見える。キャンプでにこやかに話していたIさんの亡骸だった。8500mを越えると何人もの人が亡くなってそのままになっているというが、現実に屍に出会うとなんともいえない。いつ自分がその期になるとも限らない。しかし、負けてたまるか、と奮い立たせて前進する。頂上直下の岸壁を登り、ゆるやかな雪庇状の雪稜を一歩一歩を味わうように登る。そして
ついに頂上に到着する。頂上にはネパール側からの登頂者が大勢いる。ローツェ、マカルーもはるか下のほうにみえる。感激もそこそこに下山にかかる。北壁を見下ろしながら、恐怖と戦いながら岩壁、岩峰を下る。生還するぞ、負けるものか、と自分を奮い立たせた。
下り初めて1時間、いくつもの遺体を遣り過ごしながら進むうちに吹雪に見舞われた。C4で多少休んで、C3まで下って、もうこれ以上歩ける元気はなくまだ明るかったが一泊した。5月23日。テントが飛ばされそうな程の強風の中を下る。ゴーグルが曇って前が見えない。50歩歩いては座りこんで、というような調子でやっとC1まで降りる。ここでゆっくり休もうと思っていたらABCまで下れとの指示が来る。夕暮れのキャンプに着くと皆が広場に出迎えてくれた。ここまで下ればもう危険はなく無事生還である。5月24日。1日の休養のあとBCに下った。ボスのラッセル氏は広場にチーム全員を集め、記念すべき登頂者としてネパールの剣を授けてくれた。登頂をサポートしてくれた多くの人々に感謝しながら満ち足りた、しかし去りがたい気持ちを抱きながらエベレストを後にした。
林先生の話では柳沢先生は常日頃から1000mを越える高地で農作業に従事していて、高地に順応していたこと、前年のチョー・オユーなどの高地の準備ができていたこと、高地に強い体質などが成功の要因であると講演で話されていたという。著書を読んでみてそれに加えて日頃の継続的努力、トレーニング、一見淡々として謙虚な中に、強烈な個性と強靭な精神力がみてとれる。それで、いわば地方の無名の一登山愛好者ながらこうした大記録が打ち立てられたのだろう

北八つ彷徨   山口耀久 著

「八ヶ岳はいい山である。標高から言えば最高峰・赤岳は二八九九メートル、日本アルプスにつぐ高い山だ。天につきあげる岩の頂稜にはあらあらしい情熱と迫力があり、高嶺の花はゆたかに咲く。それに、中腹をおおう針葉樹林帯のみごとさと、裾野にひろがる高原の雄大さは、日本の山々でも屈指のものだ。山の姿がすっきりと美しく、登りやすいのもなによりだし、これだけすぐれた個性を持っている山はちょっとほかにはないようだ。」
 北八つ彷徨は、「岳へのいざない」の書き出しで始まる山口耀久氏の八ヶ岳の随想集だ。この本との邂逅がいつでどこだったのか今となっては定かな記憶がない。それでも珠玉のような名文がちりばめられたこの本によって八ヶ岳に誘われ、時折八つに出かけるようになったように思う。山に行かない時も、折に触れて本のページをめくれば、何かしら八ヶ岳の樹林や、土の香りが漂ってくるような気がして心がなごんだ。
 「八ヶ岳の四季」の章では山の頂稜から山麓までの山の表情、樹木、高山植物、鳥などが四季の移ろい、登山の喜びとともに鮮やかに語られている。
 「雪と風の日記」は昭和32年の年末から翌年の正月にかけて北八つの大河原峠から南八つの編笠山まで9日間に亘って縦走した記録である。当時としてはかなり大変な山行である。無雪期は穏やかな北八つが積雪期になると時に胸までのラッセルを強いられる樹林帯、歩きにくい偃松帯、ブレイカブル・クラストなど重荷での難行苦行が続く。そして猛烈な風雪、寒さの中で時折美しい冬山の姿をみせる。山から帰って左足の親指が白くロウソク色に変わったというがさぞ満足した山行だったろう。
 「雨池」は麦草峠の近くにある湖をめぐる一章である。著者は仲間の友達と天幕をかついで鉈目づたいに、また藪こぎをしながら原生林の中を雨池まで入りそこでのキャンプ生活を楽しんだ。何度も違うルートからわざわざ藪を選んで出かけている。まさに彼らの仲間だけのハイマートであったのだろう。その喜びが綴られている。当時はまともな登山道もなかったのだが、それでも観光開発の道路が延びてきて、ダンプも行きかいつつあり、開発の波を危惧している。著者が現在のスカイラインやロープウェイをみたらどう思うだろう。もう目の前の山は古き良き山ではなくなったと思うかもしれない。ただ現在の我々はそれらのお陰で楽に山奥まで行くことができるようになったのであるが。
 「落葉松峠」は北八つ・双子池のすぐ東にある峠での思い出である。著者はある年の秋の終りにその峠を訪れて印象的な情景に出会った。十月の下旬、風に運ばれて小雪が舞っていた。双子池の湖畔から峠にかけては燃えるような落葉松の紅葉であった。「熊笹の多い落葉松林の中を登っていくと、急に風が激しくなった。・・・あっと驚くようなすばやさで、いきなり風景の転調がおこなわれた。静止した落葉松林がいっせいに動いた。私たちは足を止め、息をのんだ。ゆくりなくも足を向けたその峠の上は、風と、雪と、乱れ飛ぶ落葉松林の落ち葉の、すさまじい狂乱の舞台だった。風に吹きはらわれる金いろの落葉松の葉が、舞い狂う雪と一緒に、いちめんに空を飛び散っていた。・・・秋は終わった。何といういさぎよい凄まじい訣れ。私はとり残されたような気がした。」著者は突然の秋の終りの情景に息をのむ。そして翌年の5月、ふたたび峠を訪れる。「峠の落葉松はまだその黒い枝先につぶつぶのこまかい芽をつけているにすぎなかったが、そのあかるい芽ぶきの色は、まぎれもない春のそれであった。・・・何かひどく勝手がちがう記憶のもどかしさであった。いったいあれは何だったのだろう。・・・自然はあらゆる言葉を語っているようにも見えるし、またどんな言葉も語らないようにもみえる。しかし、いま眼の前にある自然は、むしろこう言っているようだ。俺はいつもあるがままの姿で、ここにこうしてあるだけなのだ、と。」落葉松峠をめっぐての自然のいとなみがいきいきと描かれている。
 「富士見高原の思い出」は著者もあとがきに述べているように後で書き加えられた一小節である。「自分の一時期のsouvenirとしてじぶんのために書いておきたいと思いました。直接登山に関係はありませんが、おなじ八ヶ岳につながる思い出として、このような本にいれるのもあるいは許されることでありましょうか。」著者は昭和25年3月青春ただ中で肺結核の療養のために富士見高原のサナトリウムに入院した。「富士見の駅に降りて、療養所に通じる道の陸橋から八ヶ岳を仰ぎ見たときの気持ちを、私はいまでも覚えている。
肌寒い高曇りの日で、稜線につもった雪にも輝きはなかったが、何カ月ぶりかで見る八ヶ岳はいかにも高かった。これが自分の足で登った山かと思われるくらい高かった。あれが編笠山、あれが権現岳、あれが西岳、あれが赤岳、あれが阿弥陀岳・・・と、ところどころ雲を呼んでいる峰のひとつひとつに胸が痛くなるような気持で視線を注ぎながら、私はおそらくあれらの頂に立てる力は自分にはもう戻ってこないだろうと思った。そして、そう思いながらも不思議とその予想にそれほどの悲しみはなかった。失望しないためには不確かな期待を用意しないほうがいいという習慣を、私はいつのまにか身につけていた。」
青春の心血を注いで登った山を見ながら、当時としては不治に近く死の宣告とも言えるような病で入院した心持ちはいかようであったろう。満足な治療薬もない中で気胸療法、安静療法を続ける他なかった。病状もはかばかしくなく、あまつさえ腎結核まで併発してしまう。7月かろうじて手術が奏功して、それを契機に徐々に軽快していく。周辺への散歩を始めると共に、近くの分水荘に居住する詩人の尾崎喜八の所へ通い出し、将来の伴侶となる川上久子さんとも知り合い精神的にも回復してゆく。春から夏にかけて博物学の野外授業ともいえる遠足などや蛍狩りなど次第に行動範囲も拡がった。久子さんと鉄橋やトンネルを歩き、途中で汽車とすれ違うスリルを楽しんだという。ある日、二人でトンネルの窪みに身を潜めていて汽車をやり過ごそうとしたが、汽車が近づき急に怖くなった著者は独りで逃げ出し、途中であわてて引き返して彼女の手を引っ張って危うく逃げきった、と。「一人で逃げ出したというので彼女はそれから私を信用しなくなった。・・・そんなこともあったけれど、その頃から私と久子のあいだはだいぶ接近していて、・・・」など男女の機微を伺わせ微笑ましい。翌年の夏も過ぎ去り徐々に快癒し、やがて退院が近づいてきた。「十一月にはいってからも毎日美しい秋晴れの日がつづいた。
その年は、まだ九月の末だというのに八ヶ岳に一度新雪があったが、それも二日ぐらいで消えると、あとはずっと雪を見なかった。おだやかに澄んだ晩秋の空に、八ヶ岳は毎日その全容を見せて、ひとつの季節のおわりをしずかにまどろんでいるように見えた。・・・
十一月二十九日。この日を私は玄関で在院の人たちに送られながら、一年と八ヶ月をすごした思い出の療養所を後にした。八ヶ岳は白い姿を見せていたが、荒れぎみの空から小雪がちらついてくる寒い日だった。・・・
駅に着くと、尾崎先生と奥さんが先に来て待っておられた。・・・
先生は「今朝つくって今朝書いたものだから」と言われて、新聞紙に包んだ色紙をくださった。中をあけると、それにはさわやかな先生の字で
      風花をよすがに今朝の別れかな
と書いてあった。

富士見高原の思い出を読むたびに、いいしれぬ感慨を覚える。当時はまだ不治の病であった肺結核に侵され、しかも肺のみならず腎臓までも侵されてしまった身でありながら、また山に戻っている。獨標登高会をリードして、後年八ヶ岳研究も上梓している。本当に山を愛している人なのだろう。そして、書かれたものは静かに心を打つ。山の詩人なのだろう。
この本に魅かれて、八ヶ岳に通った。
もう、随分御無沙汰してしまっているけれども、北八の池たち、苔むした森林帯、本沢、にゅう、また荒々しい横岳から赤岳の稜線や大同心、小同心、裾野の高原、稲子湯など思いつくままにも心ふるえる思い出が重なって甦ってくる。
戦後の登山ブームの頃の雰囲気も心惹かれるが、一方でいつまでも新鮮な気持ちにさせられる僕にとっては不思議な本なのだ。