月別アーカイブ: 2011年4月

カンジダ症

カンジダ症についてまとめてみました。疫学調査によると、カンジダ性間擦疹が最も多く、どの病型も女性の方が多く、特にカンジダ性爪囲爪炎、指間びらん症は特に女性に多いとのことです。
 確かに外来診療をしていると圧倒的に女性に多い印象があります。やはり水仕事が多いためでしょう。それに乳房下などの擦れる部分が多いこと、妊娠時、性周期の後や抗生剤使用後の膣カンジダ症の心配、赤ちゃんのカンジダ症など女性の方はカンジダ症という言葉になじみがあるようです。それに比べると男性はその言葉自体にもなじみが薄いように感じます。
 ただ高齢者で寝たきり入院患者などの背中やおむつ部など男女共に多くみられます。

金峰山

目の前に数葉の古ぼけた写真がある。金峰山で富士山をバックに撮ったものだ。まだ髪の毛はふさふさしているし、お腹も出ていない。頂上の五丈岩の上ではしゃいだものもある。ついこの間のようにも思われるが、もう40年もたってしまっている。昭和46年5月の連休を利用して奥秩父の金峰山に登った時のものだ。
 近所の友人のMさんと、その友人で山に詳しいTさんに連れていってもらったのだが、これが私の本格的な山のデビューであった。その当時のいきさつはよく覚えていないが、ハイキング程度の山には行ったもののそんなに山に登りたいという気持ちはなかったと思う。中央線に乗って、小淵沢まで行き、小海線に乗り換えた。途中の南アルプスをみてこれから登る山ですか、などと頓珍漢なことを聞いていたように記憶している。信濃川上の駅から梓山行きのバスに乗り秋山で下車し、川端下部落を通り金峰山荘まで歩いた。翌日は沢伝いに残雪の残る山道を山慣れないおぼつかない足取りで皆の後を追った。金峰山小屋について初めて山小屋なるものに入った。薄暗い土間にダルマストーブが勢いよく燃えていた。大柄の山小屋の主人がてきぱきと動き回り、皆を誘導していた。その人が金峰山の愛好者の皆から「おやじ」と慕われる林袈裟夫さんだった。当時はいわゆる第一次登山ブームで、大勢の人々で賑わっていた。見るもの、聞くもの全てが初めてでベテランの山人が話す自慢話など、驚きの念で聞き入っていたように思う。もう記憶は断片的でおぼろげではあるが、一部はまるで映画の一場面のように今でも鮮やかに脳裏に浮かんでくる。ある荒れ模様の夜などは夜遅くなってからずぶ濡れで小屋に駆け込んでくる人、しっかりした足取りで甲武信岳を越えてきましたと平然という強ものなどがいて小屋はてんやわんやだった。連休の山小屋は大混雑でまともに仰向けにも眠れず、互い違いに横になるので目の前に他人の靴下が迫ってくる有様だった。またある時は八ヶ岳で遭難があり、小屋の無線に連絡が入り緊迫したやり取りに聞き入った。遠くに見える白く雪をまとった八ヶ岳は一層近寄りがたいベテランでないと行けない山に思えたものだった。山小屋は日中は登山者が出払って夜の野戦病院のような喧騒がうそのように静かになる。2,3泊しながら金峰山頂上の五丈岩に登ったり、山小屋の近くで岩登りの真似ごとなど教わったりして遊んだ。袈裟夫さんのストーブを麓から小屋まで担ぎあげたという話しや一日で金峰から雲取まで駆け抜けたという話しを聞き、あこがれとも尊敬ともつかない念を抱いた。下山の日は、風雨の中を皆が一団となって固まって進んだ。頂上から這い松帯をたどり千代の吹上げといわれる片側が絶壁になった所など正に風に吹き上げられながら必死で歩いたものだった。そして富士見平から増富温泉に下った。
 その時以来、丹沢などに足繁く通うようになったから、やはりこの山行が山登り熱に火をつけたのだろう。その後は、時折ふらっと金峰山小屋を訪れたりした。袈裟夫さんは、ぶっきらぼうな佐久弁でよく来たなといい、その人なつっこい目で歓迎してくれたものだ。甘党で饅頭などに目がないので、お土産など持っていくと目を細めて喜んでくれた。またある時、丹沢で遭難騒ぎがあった時、一緒に居合わせた袈裟夫さんが鮮やかに担架を作り、皆をてきぱきと動かして遭難者を無事下山させた手際の良さはさずがと思ったものだ。その当時、金峰山小屋愛好会というのがあって、小生もその人達に混じって麓から酒樽を担ぎあげるのを手伝い正月を小屋で迎えたりした。大弛峠に向かって朝日岳の登りで胸を突くラッセルにびっくりしたのも今は懐かしい。その後はだんだんと怠惰になり、一番楽なコースを取ることが多くなった。峰越林道をたどれば、車で大弛峠まで歩かずに行ける。激しい山行の後などはぶらっと散歩気分で金峰まで行くのが好きだった。
 写真を眺めていると、時の過ぎゆくのが速いのに驚かされる。世事にかまけているうちに四半世紀はおろか半世紀近くも過ぎ去ってしまった。もう随分長いこと金峰に行かなくなりあの頃小屋に集った人たちともご無沙汰になってしまった。不死身と思った袈裟夫さんも事故で亡くなったと聞いた。年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず とはよくいったものだ。五丈岩はちっとも変わらないのに自分の周りはすっかり変わった。
 そのうち、またあの何となく心安まる大弛から金峰への道を歩いてみようかと思う。しかし一寸故郷に帰るのを躊躇するような変な心持ちもする。あの頃の金峰はそのままそっと自分の心の中にしまっておいて反芻したい気持ちにもなるのだ。金峰山は小生にとっては山に導いてくれた心の山なのだ。
                                             
五丈石3.jpg

中原寺メール4/22

【住職閑話】~活力~
 東日本大震災の日から未だ余震も治まらず、どうも意気が上がらずに日々が過ぎていました。
被災地や被災者の姿が毎日テレビや新聞で報じられて、何も出来ない自分にいささか嫌悪感さえ漂っていました。
 ところがそんな自分の思いに新鮮な風を入れてくれたのが自然界の樹木の営みです。
この四月、本堂前のしだれ桜は見事に咲いてくれました。可憐なピンクの花びらが木いっぱいにたわわに咲きました。思わず桜の木に合掌し感謝の言葉をつぶやきました。
数年前、この桜の木は雑草を憎む私の意地の悪さが原因で枯れ死寸前になったのです。それを思うと今年の花の見事さはなんとすばらしい復活でしょう。大地は常に不可思議な生命力に満ちています。
そして、去年の夏の酷暑で枯れてしまったと思っていた境内の山ぼうしの木も百日紅も葉が出、芽が吹き出してきました。人間の命ははかないけれど自然界の営みは強くたくましいものです。
いや、目に見えるいのちははかないけれど、目に見えないいのちははかり知れないことを感じました。あらためて、見えるものは見えないものに支えられていることを教わりました。
人間の力は弱いけれど、大自然は人間に力をくれるのですね。
ただ気づいていないだけなのですね。

爪水虫の内服療法

爪水虫について内服療法を中心にまとめてみました。内服薬には、イトリコナゾール(イトリゾール)パルス療法と、テルビナフィン(ラミシール)内服療法があり、それぞれ一長一短があります。その効果とリスクを知って使うことが重要です。ややマニアックになりますが、薬価も含めて詳細に書きました。関心のある人、水虫の人はHPを見て下さい。例によって写真は後からのせる予定です。 爪水虫といって受診される患者さんで、爪水虫ではない方もかなりあります。そして他科の先生から水虫の内服薬をもらっている方の中で水虫ではないケースもたまにあります。やはりしっかり皮膚科専門医に診断してもらってから服用するのが良いと思います

白洲正子展に行ってきました。

「白洲正子 神と仏、自然への祈り」を観てきました。砧公園の一角にある世田谷美術館で生誕100年特別展として開催されていました。当日は春の陽ざしが穏やかな日曜日の昼下がりで公園内は青々と茂った若葉の木々の下で家族連れなど多くの人々が休日の憩いを楽しんでいるようでした。
「この展覧会では仏像・神像を始めとした国宝や重要文化財がいくつも並んでいて、滅多に東京では見られないような西国の寺社所蔵の作品が並んでいました。・・・展示は随筆家の白洲正子を主人公として、彼女の西国の寺社巡りを追っていくという趣旨となっています。各作品の前に原稿用紙のようなものに、白洲正子が書き残した感想?のような文があり、当時の想いがわかるようになっています。」(関東近辺の美術館めぐり~美術・美景・美味を楽しむブログ~より引用)
 小生は、仏像にも白洲正子にも疎いのですが、それでも西国のどちらかというと鄙びた、素朴な感じの作品群の観賞は心を落ち着かせ、自然信仰に根ざした古代の日本へ回帰させるような不思議な空間・時間を過ごせました。かつて琵琶湖北面をめぐる十一面観音や円空の木像をみて竹生島を辿るツアーがありましたが、それらの像も彷彿とさせるものもありました。
 東京オリンピックの年に正子はその喧騒に背を向けるかのように西国巡礼の旅に出かけるのですが、途中の山の上から新幹線が駆け抜けるのを見やりながら、「お前は最新の物だと誇らしいだろうが、すぐに壊れてしまう、それに比べればこの大和の自然・文物・文化は千年・二千年の長きに亘って続いているのだ、ざまーみろ」といったような感想を述べた一節があったように記憶していますが、現在の地震・津波・原発災害を目の当たりにすると、何か物事の真髄をついているように思えるのです。
 戦後の日本はアメリカ型の文明をモデルとして必死で追い付け、追い越せと頑張ってきたように思えますが、これを機に一部ヨーロッパ、北欧が目指している様な、あるいは古来の日本の自然を畏敬しつつ、調和のとれた新たな文明へと転換していかなくてはならないのではないかと漠然と思いました。それを生かしてこそ幾万の犠牲者も報われるのではないかとも思いました。

銀寿司

葉市医師会だよりに「誰にも教えたくないとっておきの場所 The Secret Place」というコーナーがあり、実は教えたいんだろうと揶揄したくなるような、やや屈折した題名ですが、そこに先日投稿した文があります。店の宣伝をするつもりはありませんが、ぱっとしない外目からは一寸想像できないうまさなので、店の印象記をそのまま転載してみました。
 今、日本は未曽有の災害で、しかも福島原発の放射線漏出はいつ果てるともなく終息が見えない状態です。寿司屋の記事どころではないかも知れませんが、一刻も早く事態が収束するのを祈るばかりです。そして、美味しい魚を心おきなく食べたいものです。
                 
過日そが病院の林院長から、病院の近くに一見ぱっとしないけれどうまい寿司屋があるので行かないかと誘われ食べに行ったところ気に入り、それから時々家族や友人はては従業員まで連れていくようになりました。とはいっても年に1,2回位でそれ程通い詰めているわけではありませんので、レポートを引き受けてはみたものの自分で良かったのかなといまは若干後悔しているところです。というのも自分の味覚には自信がないし、南方地区にはグルメで小生よりもよくお店を知っている先生方も多く、そちらの方々がレポーターとして適当かと思えるからです。それでも自分なりの印象記を書いてみたいと思います。

 まず入っていって安心するのはあまり高級そうではなく、店主(写真1)も九州人らしく(小生も鹿児島出身ですが)おしゃべりではなくうるさく講釈を垂れない、若旦那はさわやかでソムリエの資格もあり、酒のことも料理のことも親切に教えてくれるという点です。小生は下戸なのですが、各地の酒、焼酎を多数取り揃えており、(写真2)その特徴を懇切に教えてくれます。またぐい呑み、カラフルなガラスのグラスが選べて良い雰囲気で飲めます。(写真3)
料理はどれも若旦那が市場で厳選して新鮮なものを仕入れているようです。小生はお任せが多いのですが、お通しの後大皿が出てきます。各種のお刺身が盛られていてネタは季節ごとに変わりますが、取れたての物が並んでいてどれも珍品揃いです。(写真4)
ちなみに取材の日は釧路の秋刀魚、有明のコハダ、能登のするめ烏賊、紀州のまぐろ(いつも大間のまぐろが上がるとは限らないとのこと)、礼文のバフンウニ、香川の間八、厚岸のツブ貝、岩手の地蛸、北海道のいくら、知多半島の赤貝といったところでした。中でも感心するのは阿蘇から直送の馬刺しです。これが桜肉かと思う程臭みがなく甘く柔らかい。それに馬のたてがみという白っぽい肉はこりこりしてコラーゲンが豊富で絶品です。馬タンも美味しい。ニンニク醤油をつけていただきます。
希望があれば北海道から航空便で直送した活きたたらば蟹を茹でてくれます。若旦那(写真5)手ずから熱々の蟹をハサミで切って手渡してくれます。冷凍の蟹に慣れている小生にはこんなにと思う位美味しいです。甲羅に入れて焼いた白子、フンドシも美味でした。
そして海老、白魚の踊り食いも戴けますが、これは新鮮なのは当然ですが一寸気持ち悪い。好き好きかもしれません。
北海道むかわ町の本ししゃもはやはり味が濃い、食感も普段食べているのと一寸違います。ちなみに現在流通しているものの9割以上は樺太ししゃも(カペリン)だそうです。
釧路町厚岸湾の寺澤さん育成の生牡蠣も大きくてぷりぷりして甘くクリーミーでした。牡蠣の養殖は漁師の腕一つで品質が大きく変わるそうです。寺澤氏の育成した牡蠣は仙鳳趾の牡蠣として特別に珍重されているそうです。(写真6)
その後握り寿司が出ますが、寿司ネタも握り具合も程よくおいしく戴けます。当日は銚子の炙り金目鯛、北海道の炙りさんまで脂が乗って美味でした。さんまは釧路の青刀秋刀魚だそうで獲れた中から目利きの漁師が厳選した物だけが認可されるそうです。ちなみに青刀とは手で握ると日本刀のように立って青く光るからつけられた名前だそうです。
以前食べた炙りトロも絶品でした。箸休めとして出るお新香、そして最後に出る青のりの味噌汁これもとても美味しい。締めの料理として最適です。
ある時御主人から新子のことをお聞きしました。コハダの出たてで小さくて旬のものを新子といって初夏の頃年に一度食べられる珍味で、築地でもご祝儀相場でキロ数万円もする、けれど少したつと価格が落ち着いて安く手に入りますよ、とのことでした。新子が入りましたとの電話で早速食べに行きましたが、柔らかく美味でした。味もさる事ながら滅多に食せないものを食べられ幸せな一時を過ごせました。
これだけ充分に食べて飲んでも一人1万円は越えません。いつか高校時代の友人を連れて行った時には、銀座で食べたら2,3倍はするよといっていました。また社用族であちこち食べ歩き、長年ヨーロッパに住んでいた知人もここはかなり上位に入るよと言っていました。

レポートを書きつつ、やはり誰にも教えたくない店だなと感じています。というのも、もしこの記事で医師会の先生方が来店して隣で食べていたら緊張してゆったりとした気分で食べられないかもしれない、またあまり流行りすぎて味が落ちても困る、このままの感じでいぶし銀のような銀寿司であって欲しいと自分勝手な感想になってしまいました。

後記:トイレの横の壁に色紙が貼ってあるのを見つけました。なぜかあの蛭子能収さんのものもあり、聞いてみたら店の主人と同級生、ご近所で遊び仲間だったとのこと。あと福田アリーナが近いせいかJリーグ選手の色紙が多数ありました。一寸興味を持たれた方は小人数で出かけてみて下さい。
 銀寿司地図(写真7)
写真1.JPG写真2.JPG写真3.JPG写真4.JPG写真5.JPG写真
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私のエベレスト峰 柳沢勝輔 著

先日、地区医師会の会食の席で、友人のそが病院の林院長から最高齢でエベレストに登頂した恩師がいるとの話を伺った。中学時代の担任の先生で当時はそんなすごい先生とは知らなかったが同窓会や、講演会で登頂の話を聞き、登頂記を戴いたとのことだった。興味深く話を聞いていた所、後日彼が著書を貸してくれたので読んでみた。
 「私のエベレスト峰」   柳沢勝輔 著   しなのき書房 2008年
 著者は昭和11年生まれで、大学時代から本格的な登山を始めたが、中学校教師のかたわら国内の登山を続けた。退職後の平成19年(2007年)5月22日に71歳2ヶ月でエベレストに登頂した。その後三浦雄一郎氏などにその記録を塗り替えられたが当時としては世界最高齢での輝かしい記録だ。
 著者が本格的な登山を始めたのは、登山ブームといわれた昭和30年代である。日本山岳会が総力をあげてマナスル峰の登頂を果たし、その熱気のなかで北アルプスの冬山合宿で極地法を学んだ。しかし就職し学校勤めになると長期の登山はできなくなり次第に山から遠ざかったという。ところが60歳間際、定年まであとわずかになって6000m峰への夢が開けた。ヒマラヤに行けるのなら退職したって構わないとの気持ちが行動に動かしたのだろう。ヤラピークで意外と高所に強いとの自信を得る。長野県労山記念登山隊に参加し7000m峰のレーニン峰に挑む。しかし体調管理や、高度順応などの不慣れもあり、登頂隊から漏れてしまい登頂に失敗してしまう。しかし、著者はこの登山で高所での行動が出来たことの自信を得、また高所では仲間に頼ってはだめで自分の意志の力での行動の必要性、自己管理の必要性を学んだ。
 それから数年たち、大勢の友人が登って情報の多いカザフスタンのハンテングリ峰に挑んだ。後年エベレストでも世話になる山岳ガイドの倉岡氏と同行する。大理石の岩稜、氷雪の稜線を経て頂上に立った。著者は山に行くときには「山の風に吹かれてきます。」という言葉をよく使うという。文字通り7000mの風に吹かれたのだった。
 一旦満足したかに思われた気持ちが収まらないのが山屋の性なのだろう。3,4年がたつと今度は8000mの風に吹かれたいと思うようになったという。ハンテングリでお世話になった倉岡氏に相談しハンテングリより楽ですよ、というチョー・オユーに狙いを定め、70歳の記念登山を決意する。ところが出発直前に胃癌を宣告され、手術を余儀なくされた。術後は気持ちはあせるが、体の方は思うにまかせないので、とりあえず成田空港まで行かれればいい、ネパールやチベットへ行ってからもトレーニングはできる、というのだから尋常ではない。チョー・オユーはどっかりと白い達磨が座っているようで中腹にロックバンドが走っているものの、ほかは岩場が2,3か所見えるだけで、氷の壁というよりは、下から上まで雪面が続いているという印象であった、と。「雪の尾根や雪の壁なら頑張りさえすればどうにかなるだろう」とゆっくりながら高度順応しシーズン最後の好天を狙って登頂に成功する。ロックバンドを越えて雪原状の頂上に出ると眼前にどっしりとした青くそびえる岩山が飛び込んできた。「私は息を飲んだ。エベレスト峰だ。私は我を忘れてしばらくその光景に見とれた。・・・チョー・オユーには申し訳ないが、登頂した感激よりも、エベレスト峰に完全に心を奪われてしまっていた。」
 8000mの風に吹かれヒマラヤの一角に触れられ、心は満たされ年齢的にも一区切りつき高所登山は終わったと思い定め、著者は帰国後は日常の農作業や山仕事、社会的な活動に戻って行った。しかし、チョー・オユーの記録写真を整理しながら心はやはり遥かなエベレストから離れられなかったようだ。倉岡氏にエベレストのツアー募集のパンフレットを依頼し心を慰めていたところ、氏から締め切り後なのに「柳沢さんならいいよ」との言葉をかけられ動揺したという。どうせ登れないからやめろ、といわれるに決まっていると思い、岳友、知人には内緒で出発の朝に手紙で連絡し、成田に向かったという。春物の収穫はあきらめて秋物だけにして、大幅な減収は覚悟したが、ジャガイモだけは出発前に播種した。その日のうちにバンコクに飛び、ネパールのカトマンズ経由でチベットのラサに入った。
 以下は著者の記述に沿って日記風に記述・・・
 高度順化を兼ねてポタラ宮殿に行く。シガツェ、シガールを経て、ロンブク氷河の末端に位置する標高5200mのBC(ベースキャンプ)に入った。日本を発って14日目の4月12日であった。BCは氷河の河川敷ともいえるような所で3,400mはあるかと思えるような平らなモレーン(岩屑)の広川原である。今までの経験で腹八分目を堅持した。BCは国際色豊かで、日本人が5人、欧米人が10人、その他トレッキングの人、アメリカのテレビクルーなどであった。氷河のモレーンの道を登り下りしながら荷物運びのヤクの群れを避けつつ登った。4月22日吹雪の中を疲労困憊して夕暮れのABC(前進キャンプ)に到着する。高度6200mである。この間に高度順化に失敗したり、登山条件が整ってなくて下山を余儀なくされる人も出てくる。4月29日、7000mのC1に向かうがのどや唇の痛みが強く、ABCに引き返す。5月4日再度C1を目指す。固定ロープを頼りにしながらゆっくり進み、ノースコルにあるC1に到着する。5月7日は、登頂前の完全休養のためにBCへ下った。5月15日、1週間の休養を終えて、BCを出発した。中間キャンプまで。5月16日、ABCに入る。遭難者が3人出たことを知らされる。そのうち2人が日本人とのこと。そのうちの一人M氏は世界第二のK2に無酸素で登頂し、今回はエベレストに無酸素で登頂を狙っていたとのことだ。5月18日、本格的に登頂を目指す。C1に再度入るが、テントは傾いていて、窪んだ所は水たまりになっている。5月19日。朝日に照らされたC1からC2への登路はすべて雪稜である。見た目はスキー場の斜面の様だったが、実際は結構きつかった。他人を気遣うようなことを言うと倉岡氏は「他人のことなど心配しないで自分のことだけ考えな」といった。またボスのラッセル氏は「全力を出し切るな、70%の力を使い、残る30%は生きる力として温存しておけ。」といった。ここはもう生き延びるか、死ぬかのぎりぎりの世界なのだ。苦しみながら7800mのC2に到達した。5月20日。エベレスト峰は今朝も雪煙を飛ばしている。もう迷いはない。あの峰のてっぺんに登るのだ。この日はC3に到着する。ここは一般のチームのC2とC3の中間位の位置で、体力のないものも登れるように、一つキャンプを多く増やしてある。C2からは全員酸素を使う。5月21日。C3からC4(最終キャンプ)に入る。固定ロープを伝わって岩場を越えていく。5月22日、ついに登頂へ。出発は午前0時だが、興奮しているためか10時の予定が9時に目覚める。しかし準備に手間取り、出発間際にやっと間に合った。片方の靴下を履くのに、10分、高所靴を履く30分はかかった。出発直後からはきつい岩登りとなり、ヘッドランプの明かりを頼りに一歩ずつ登る。途中きのこ岩で酸素ボンベを確認する。暗闇のなかでも日本人隊、外人部隊、シェルパなど含めて20人程いた。徐々に夜が明け始め、中国隊が初登頂の際に掛けた梯子場に来た。梯子場を過ぎるとしばらくして雪田に出た。明るさが増し、エベレスト峰に光が当たった。みるみる白黒の姿が黄金に輝いた。チームの大部分の人たちは、長い列を作って先に行く。今の自分の体調はよく、闘争心も十分だ。ゆっくり進んで行くと前方の雪田に斃れた人が見える。キャンプでにこやかに話していたIさんの亡骸だった。8500mを越えると何人もの人が亡くなってそのままになっているというが、現実に屍に出会うとなんともいえない。いつ自分がその期になるとも限らない。しかし、負けてたまるか、と奮い立たせて前進する。頂上直下の岸壁を登り、ゆるやかな雪庇状の雪稜を一歩一歩を味わうように登る。そして
ついに頂上に到着する。頂上にはネパール側からの登頂者が大勢いる。ローツェ、マカルーもはるか下のほうにみえる。感激もそこそこに下山にかかる。北壁を見下ろしながら、恐怖と戦いながら岩壁、岩峰を下る。生還するぞ、負けるものか、と自分を奮い立たせた。
下り初めて1時間、いくつもの遺体を遣り過ごしながら進むうちに吹雪に見舞われた。C4で多少休んで、C3まで下って、もうこれ以上歩ける元気はなくまだ明るかったが一泊した。5月23日。テントが飛ばされそうな程の強風の中を下る。ゴーグルが曇って前が見えない。50歩歩いては座りこんで、というような調子でやっとC1まで降りる。ここでゆっくり休もうと思っていたらABCまで下れとの指示が来る。夕暮れのキャンプに着くと皆が広場に出迎えてくれた。ここまで下ればもう危険はなく無事生還である。5月24日。1日の休養のあとBCに下った。ボスのラッセル氏は広場にチーム全員を集め、記念すべき登頂者としてネパールの剣を授けてくれた。登頂をサポートしてくれた多くの人々に感謝しながら満ち足りた、しかし去りがたい気持ちを抱きながらエベレストを後にした。
林先生の話では柳沢先生は常日頃から1000mを越える高地で農作業に従事していて、高地に順応していたこと、前年のチョー・オユーなどの高地の準備ができていたこと、高地に強い体質などが成功の要因であると講演で話されていたという。著書を読んでみてそれに加えて日頃の継続的努力、トレーニング、一見淡々として謙虚な中に、強烈な個性と強靭な精神力がみてとれる。それで、いわば地方の無名の一登山愛好者ながらこうした大記録が打ち立てられたのだろう