月別アーカイブ: 2012年5月

植物によるかぶれ

このところ、植物によるかぶれ(接触皮膚炎)に興味を持ち、調べています。 ホームページに植物による接触皮膚炎としてまとめました。 うるし・ハゼノキかぶれのように一見して原因のわかるものもあれば、へーと驚くようなものもあります。アトランダムに書き綴ってみます。 ▲うるし、ハゼノキ、ギンナンのかぶれは有名で、誰でも知っています。しかし、うるし、マンゴー、ギンナンが相互に交叉過敏性を持っていて、一つにかぶれる人はこれら全てにかぶれ易いことは意外と知られていません。ましてやカシューナッツと交叉過敏性があることは知っている人は稀でしょう。食べるカシューナッツはローストしてあるために、かぶれないそうです。しかし、カシューナッツが原因であったサンダル靴皮膚炎の報告もあります。なんと、カシューナッツが皮革の風合いを出すために仕上げ塗料として使われるケースもあるとのことです。 うるしは完全に乾燥して、硬い樹脂状になったものはかぶれないそうですが、新しいもの(塗って2年以内のもの)は要注意だそうです。塗り箸など多いですが、書類の綴じ紐という意外な報告もありました。 ▲プリムラ・オブコニカはトキワザクラとも呼ばれ、ピンクがかったきれいな花ですが非常にかぶれ易いです。そんな花はもっていません、といわれ写真をみせると「それならある」といわれることもしばしばです。 ▲菊もかぶれ易い植物ですが、特徴なのは顔・手など露光部に出やすく、光線過敏症やアトピー性皮膚炎とまぎらわしい臨床像をとりますし、なかなか診断が難しい皮膚炎です。花屋や葬儀屋など普段菊を扱う人に多く、職業性接触皮膚炎の原因物質の一つとして、最近のジャパニーズスタンダードアレルゲンに菊アレルゲン(sesquiterpene lactone mix)が追加されました。結構日本人にも多いそうですが、欧米よりも症状が軽いことが多いそうです。これは日本人は普段から菊を食用としていて、知らず知らずのうちに減感作療法を行っているからとの説もあります。昔から漆職人は筆につけた漆を少量ずつ舐めていたといいます。これも経験的に減感作療法を行っていたものでしょう。 ▲木材でもかぶれることがあります。かつて、学生実習でブラジリアン・ローズウッドを扱い、木屑で多形紅斑様の重症のかぶれを起こした学生が大学病院を受診した事がありました。数名の学生がかぶれを起こしていました。アンデスのたて笛、ケーナでかぶれた報告もあります。tropical woodの一種パープルウッドを素材にしていたものでした。ハゼノキ以外でもかぶれる木材があります。 ▲プロポリスはミツバチが産生する樹脂状の物質ですが、産地によって内容に差があるそうです。北半球のものは樹脂成分が多く、南米のものは花粉殻が多いそうです。日本のものはコールタール・アスファルトなども混入していることもあるそうです。プロポリスは古来その殺菌作用、抗酸化作用などから民間薬として活用されてきましたが、使用頻度の多さと比例するようにかぶれも増えているようです。 ▲アロマテラピーの人気とともにエッセンシャル・オイルによるかぶれも増えているそうです。この10年ラベンダー・オイルのパッチテストの陽性率は増加しています。皮膚科でよく用いられるオリーブ・オイルによるかぶれの報告もありました。精油のかぶれにも注意が必要です。 ▲レモンなどの柑橘類は時に女性の顔のパックにも利用されるようですが、これらはフロクマリンを含んでいます。植物としてクワ類(いちじく)、ミカン科(ベルガモット、レモン、オレンジ、ライム)セリ科(パセリ、セロリ)などは各種フロクマリン(ソラレン、8-MOP,5-MOP)を含み植物性光線皮膚炎の原因になります。ソラレンは白斑に色素をつける紫外線治療法の薬剤です。すなわちしみ・色素を人工的に増やす物質です。ベルロック皮膚炎という言葉がありますが、香水、オーデコロンをつけて日光に当たると皮膚炎、しみを起こすものですが、これは中に含まれるベルガモット油中のベルガプテン(5-MOP)などの光毒性によります。(ベルロックとはペンダントの意味で液体が下方に流れた形を示したものです。) ▲ラテックスとは天然ゴムの木の樹液を意味し、これから天然ゴムが作られます。ラテックスアレルギーは天然ゴム製品による即時型のアレルギーのことで、接触じんましんを生じます。接触皮膚炎のⅣ型アレルギーとは機序が異なりますが、アナフィラキシ―ショックを起こすこともあり要注意です。ラテックスには多種のたんぱく質が含まれており、約半数に果物アレルギーを生じます。その他、花粉、野菜、薬草などにも共通抗原を有しておりラテックス・フルーツ症候群と呼ばれます。これらは進化の過程で突然変異を受けることなく多くの種に保存されてきた生体防御たんぱく質が共通抗原として交叉反応を起こすとされています。ゴム手袋を頻用する医療従事者、美容師、アトピーの人に多いとされます。  天然のもの、自然食品などは人工物でないだけに安全と思いこみがちですが、かぶれやアナフィラキシ―などのアレルギーを起こすことも知って普段の生活の上で注意する植物を知っておくことは重要かと思います。

納棺夫日記

先日、親鸞聖人七百五十回大遠忌法要が中原寺であり、長い無沙汰の罪滅ぼしも兼ねて出席してきました。
その日の記念講演は青木新門氏によるものでした。
氏は1993年に「納棺夫日記」を上梓した作家です。ご存じの本木雅弘主演の「おくりびと」の原本になった本ですが、彼とのかかわり、本、映画のことについて講演されました。一般に知られざる逸話も多く語られ、興味深い講演でした。
最初に5月に500部程刷っただけなのに、11月に本木氏から突然電話があり、「インドのベナレスに行って来ました。写真集をだしたいのですが、その中で青木氏の一文を引用したい」との内容だったそうです。ベナレスはヒンズーの聖地で、ナム法典のマニュアルに家住期、林住期、遊行期があり、死期を察した人々が臨終の地として各地から集まってくる聖地だそうです。不思議なことに彼らの目はきらきらと輝いているそうです。それは来世を信じているからだといいます。そこでは365日荼毘の煙が途絶えず、ガンジス河には捨てられた死骸の手足が浮いているそうです。その近くで沐浴する人々がいる生と死が当たり前のように繋がった土地だそうです。そして、氏の許可を受けて本木氏はよりによって青木氏の本の中で「蛆(うじ)も命なのだ。そう思うと蛆たちが光ってみえた」という部分を引用したそうです。若いのに(まだ26歳位だったそうです)、しかも少し前までアイドルとしてもて囃されていたのに、いい感性を持った俳優だと思ったそうです。そのうち、本木氏は書道5,6段の達筆の毛筆で、「考えているうちに映画化したいと思うようになった」と手紙をよこしたそうです。
青木氏は「お葬式」のようなものなら可能だが、茶化した映画なら御免蒙りたい、ライフワークとして考えるなら何年かかっても一人でおやりなさい、他に権利を渡す事もないから、と返答したといいます。それから5,6年間は音沙汰なしだったそうです。7年目に有能な若手の脚本家を得て制作委員会がたち上がり映画化が本格化したと連絡がはいったといいます。
ただ、その内容を聞くと、舞台は富山ではなく山形で鳥海山がでてくる、実際の仕事はお手伝いでお金は貰わなかったのにそうなっていない、主題が父と子のヒューマニズムのようになっており、死生観、後世を語っていないなど「カチン」とくる部分が多く映画化を断ったとのことです。しかし本木氏本人が雪の富山まで訪ねてきて懇願するので、青木の名前をはずす、題名を変える、という条件で許可したとのことです。
その後1年たって試写会があり、その後は誰もが知るようにあっという間に大ヒットとなりアカデミー賞に輝くまでになったとのことです。
誰も青木氏の事を知らなかったはずなのに受賞後のインタビューで本木氏が青木氏のことをぽろっとしゃべったそうで、翌日から報道機関の電話が急に鳴りっぱなしになったといっていました。
映画をみて良くできていると感心したそうですし、本木氏の人物も高く評価されていましたが、やはり映画は映画、本は別物と考えているとおっしゃていました。やはり、文人の気骨というか、後世の一大事を問うたものとは異なるということなのでしょう。氏は親鸞聖人の御教えに出あって「納棺夫日記」を著したので、その部分を完全に削除されては納得いかなかったといいます。中原寺住職との出会いも勿論親鸞聖人を介してのものでしょう。(1999年の中原寺の文化講演会の講師として青木新門氏が招かれている)
ある時の住職のひとこと法話に事の本質が語られていました。
 『たしかに、映画では死後何カ月もたった死体のシーンはありましたが、「蛆も命なのだ、そう思うと蛆が光って見えた。」という最も大切な、青木さんが感得した「いのちの平等性」は表現しようもありません。
 仏教に深く帰依し、念仏者としての道を歩む青木さんが「納棺夫日記」で読者に知ってほしいのは、死者たちに教えられた真実の「光」なのです。その「光」は仏さまによって導かれた智慧の眼です。
 すべてを分別してしか見ようとしない人間のおろかさ、その生者中心の眼差しの闇を知らせることなのではないでしょうか。』
 当日はもう一つ、中原寺第十七世住職継職奉告法要がありました。現住職の引退、継職法要という行事です。ある意味、小生にとってこれは重要な行事でした。長いこと我が家をみていただき、父の葬式も務めていただいた住職の引退は感慨深いものがありました。たまにですが、心に沁みる深い話を聴くことは喜びでした。父は戦前この地の化研病院で育てられ、戦後田舎に移り住み長いこと町医者を務めました。その後縁あって古巣の化研病院に戻り、この地で生涯を閉じました。住職、奥様(坊守というそうです。)には色々とお世話になったり、父もまた医者として面倒をみたりしていたそうです。そういった意味でも感慨深いものがありました。これからは、前住というそうですが、まだまだお元気そうですし、いつまでもお元気で中原寺メールも続けて頂きたいと思いまいた。
また息子さんの新住職も凛々しく決意を述べられていました。これから両人で寺と門徒を盛りたてていっていただきたいと思うこと切でした。

ペルーより

南米ペルーにきています。昨日はナスカの地上絵をセスナ機からみました。地上では数百mにも及び巨大なのでしょうが、さすがに飛行機の中からではこじんまりとみえました。今日はクスコ、インカ帝国のかつての首都です。美しい独特な石組みが興味を引きました。少しボーとして眠いのは、時差ぼけか高地の影響でしょうか。 明日はハイライトのマチュピチュです。天気が良いことを願っています。オウム.JPGクモ.JPGハチドリ.JPGハチドリ2.JPGハチドリ3.JPG宇宙飛行士.JPG現地の人.JPG12角の石.JPGクスコの中心アルマス広場.JPGアルナス広場.JPGクスコの街並み.JPG

水虫に似た皮膚病

先日、船橋皮膚科医会がありました。講師は北里大学名誉教授の西山先生です。いつものように次々に繰り出される臨床スライドは圧巻でした。足だけでしかも水虫ではない皮膚病でこんなにいっぱいの疾患があり、また1時間も間が持つなんて一寸驚きです。あんまり多すぎるので、後から皮膚科学の教本を引っ張り出してみて、西山先生が言及しなかった疾患がどれ程か調べたほうが早い位でした。
多分、絶対無いのは化粧かぶれとニキビと円形脱毛症位ではないかと思えた程でした。
無論すべての疾患が足だけにできるわけではなく、大体ある疾患の部分症状として足にもみられる、といったものでしたが、足の写真だけみせられると何だか判らない病気が多くありました。ヘイリー・ヘイリー病だとか、疥癬だとか、梅毒だとか、エイズのカポジ肉腫だとか陰部に特徴のある病気の部分症状もありました。
かつてあるベテランの先生が皮膚病をみるとき、「シタ」をみることが大切だ、とおっしゃっていましたがそれは「舌」と「下(しも、陰部)」のことです。そこに病気のヒント・本体が隠されていることがあり、普段他人にみせない場所だから見過ごしがちだからです。
これに、足も加えた「下」をみることが重要だということが認識されました。
確か、昔のヨーロッパの著名な病院はガウンを着せただけで全身をくまなく診る、と聞いたことがありました。さすがに現在はそんなこともなかろうし、人権問題にもなるし、お互いの労力、時間は大変でしょう。
しかし患者さんは関係ないと思ったり、その他の理由で一部分しかみせてくれないこともあり、常に全体、全身を考えておくことが必要なのだ、と思いました。

リマーヒューストン

飛行機は真夜中のリマを飛び立ちました。6,7時間のフライトでヒューストンに近づいていきました。夜間飛行のなか皆眠りについて静まりかえって暗くなった機内から目を窓に転じると、窓の外はようやく明るくなっていき、朝焼けもきれいです。飛行機は音もなく光の海の中を進んでいきます。ふっと、ジェットストリームを思いだしました。 青春時代にFMラジオでよく聞いていたあの城達也の音楽番組の名ナレーションです。 「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休める時、はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流はたゆみない宇宙の営みを告げています。満天の星をいただく、はてしない光の海をゆたかに流れゆく風に心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂のなんと饒舌なことでしょうか。光と影の境に消えていったはるかな地平線も瞼に浮かんで参ります。日本航空があなたにお送りする音楽の定期便ジェットストリーム。皆さまの夜間飛行のお伴を致しますパイロットは、私、城達也です。」深夜のFMラジオから聞こえてくる外国の曲とそれにちなんだ何か現実離れしたような夢のようなナレーションは外国を知らない者の旅心をいやがうえにもかきたてたものでした。そして、いまでも車の中でそのCDを聞いていると、気持はあの70年代の若かった頃に戻っていきます。 窓の下にようやく明けだした夜明けのヒューストンの街が見えてきました。早起きの車のヘッドライトが見え、豊かな森に囲まれた家々が散在してみえます。街灯はオレンジ色に光って暖かい感じです。20年も前初めてアメリカの地を踏んだ時、街灯の色がオレンジ色に光り、蛍光灯の白々した色と違うのに感銘を受けた記憶が蘇りました。もうふた昔前の心細いながらも一寸高揚したような気持ちを思いだしました。ああもうそんなにたってしまったのかと思いました。ヒューストンはやたら大きな空港でした。たかがトランジットなのに、両手の指紋を取られ、顔写真までとられました。しかも行きも帰りも。彼の地に最初に降り立った時も、所持金のことで税関にいちゃもんをつけられました。それがトラウマのように残りどうもアメリカの税関は気にいりません。人を犯罪人扱いにして、と内心思ってしまいます。それでいながら何かまた怖いもの見たさ、というかボディチェックのおじさんに話しかけていました。やたら人なつっこい人だなと思いましたが、それもそのはずで私の妻は日本人です。以前岩国にいました、といってました。海兵隊上がりの人でした。彼の地の人は個人的にはナイスガイが多く好きですが、国となるとあまり好きではありません。何かずっと米国行きは外してきた感があったのですが、また旅行してみたいと思いつつ、成田への機内の人となりました。 朝焼け.jpg

中原寺メール5/9

【住職閑話】
 折角のゴールデンウイークというのに、車やバスによる痛ましい事故があとを絶ちません。
 入学したばかりの小学生、お腹に小さな命を宿しながら亡くなっていった女性、ディズニーランドを楽しみにしていたツアーバスの乗客等々。犠牲者の姿を見るにつけ何ともいいようのない悲しみです。
 悲喜こもごもの人生は昔も今もこれからも変わることはありません。
仏教はいつも私たちに警告しています。
「人生は無常にして、世間は安らかではない。朝に紅顔あって、夕べには白骨となれる身である。人間はあわただしく務めをし、自らのいのちが刻々と去っていることに気づかない。ともし火の風の中にありながら意識することもなく過ごしている」と。
 こうしたわが緊急の姿であることは、発達した科学も進歩する医学も経済も教えてはくれません。
人間存在の根本的課題は仏教しか教えません。
足元を教えるのが仏教で、足元をしっかりとしなければどこまで行っても踏み惑うていることになります。
 蓮如さん(室町期の僧)は、「行く先向こうばかりを見て足元を見なければ、踏み損なう。人のうえばかり見て、わが身のうえのことを心がけなければ重大な事である」と申されています。
 デジタル時計を見ながらなにを感じますか?
しばし眺めることも大事かと思いますが‥。

再びリマへ

フリアカ空港から再びリマへ戻りました。高地から低地に戻ると思っただけで、気持も楽になります。今回の旅は天候に恵まれました。ナスカは5月になると霧がかかり易く、セスナで飛んでも何も見えないこともあるとか。マチュピチュでは夜ザーザー降りになりましたが、昼間は晴れました。ここでも見学中に突然降りこめられることもあるとか。チチカカ湖も寒さと風に震え上がるケースもあるとか。全てクリアーして順調なツアーでしたが、数名の人がお腹をこわしてしまいました。小生もそのうちの一人でしたが、疲労、高度で抵抗力が弱っていると生もの、水など要注意だと再認識しました。 リマでは昼は新市街の高級住宅地にある中華レストラン(目の前には街のど真ん中にゴルフ場がありましたが入れるのは白人のみとか)、夜は洒落た海上レストランとペルーの最後を飾るように豪華な食事でしたが、お腹をこわした小生はお料理を横目で見ながらもっぱらお茶とスープをすすっていました。 午後は歴史的建造物が多い旧市街のアルマス広場周辺を見て回りました。かつてフジモリ大統領もいた大統領官邸。カテドラルの端では結婚式の最中でした。サンフランシスコ教会の古い図書室は重厚なものでした。これらはピサロが初めに基礎を造ったものといいます。最後にラルコ・エレラ博物館を見学しました。インカはペルーの歴史のほんの一時期ということがわかりました。いろいろな文明が交代しながら紀元前から高度な文明を形成していたようです。特に北部のモチェ・シカン・チムーなどの土器、黄金などの金属器などには目を見張るものがあります。日本人の学者も発掘、研究に寄与したとのことです。 ガイドさんの話では、ペルーは国土も大きく、山の水は豊富、鉱物資源も世界有数、アルパカ、更に上をいくビクーニャの毛織物など世界が注目するなど今や南米一の経済発展率とのことです。しかし、貧富の差は激しく、一部富裕層は一生働かなくてもいい位の財をもち、また一方では地方から貧民が都市の周りに流れ込み掘立小屋などを作って生活しているとのことです。一番の問題は人だといっていました。旅行中にKEIKOという看板を多数みましたが、昨年の大統領選に出馬した、ケイコ・フジモリのものだったようで地方ではかなり人気があるようでした。フジモリ元大統領は在任中の人権侵害事件で禁固25年、現在服役中とのことですが、地方の寒村にフジモリが作ったという、小学校、病院、道路・橋などを多くみました。またリマのテロ撲滅にも功績があったそうです。政治家は毀誉褒貶が付きまといますが、いくつもの学校をみて感じるものがありました。 たまたま来日しているウマラ大統領の記事がありましたが、日本は200億もの円借款を表明して北部古代遺跡の観光振興に当てるそうですが、フジモリ氏の恩赦については「公式な申請はまだなく、政府として公式な見解は示せない」と書いてありました。 ペルーはリマのような大都会もあれば、アンデスの高原では昔と変わらない生活があり、とても一つの国とは思えないような多様な国でした。小生とすればできればワスカラン山岳地帯にもいってみたかったと思いました。チチカカ湖の朝焼け.jpgサンフランシスコ教会.jpg大統領府.jpgKEIKO.jpg騎馬隊.jpg人物像.jpgお面.jpg飾り物.jpgくじら.jpgはちどり.jpgキープ.jpg海上レストラン.bmp

クスコからチチカカ湖へ

マチュピチュを後にして、再びクスコに向かいました。夕食ではアンデス民族舞踊ショーをみることができました。 クスコからバスでプーノ(チチカカ湖)を目指しました。途中のドライブインでアルパカやリャマやビクーニャや天竺ねずみ(クイ)などを飼っていて餌やりなどをさせてくれるところがありました。結構近づけましたが、ビクーニャは気に入らないとくしゃみをして相手を威嚇していました。 標高4335mのラ・ラヤ峠を越えて行きましたが、ここは今回の旅で最高高度の地点です。とりたてて何の変哲もない峠ですが、さすがに高地で周りのアンデスの山々も雪を被って辺境の地にきたという感じが実感できました。高山病と寒さを心配していたのですが、この日は晴れていて高度にも馴れてきたのか寒さもそれ程感じません。道端には観光客相手のバザールが開かれ、現地の子供たちがリャマを連れて近寄ってきます。一緒に写真を撮ってあげるというのですが、一人1ソル(30円程)を要求してきます。彼らの観光収入なのです。 バスは何もない大平原を進んでいきました。遠くの山々にはアルパカの群れが黒点のように散在していました。帰りの空港のあるごみごみしたフリアカの街を抜けて8時間程かけてバスはプーノの街へと下っていきました。それでも3800mと富士山頂よりも高い所にあります。眼の前には広大な(琵琶湖の12倍以上という)チチカカ湖が拡がってみえます。 もうお隣はボリビアです。ここはインカ発祥の地とされ神聖な地だったそうです。 岸から船で20分程でウロス島に着きました。ここはトトラ葦を積み重ねた人工の浮島で観光の名所になっています。ウル族の人々が原始の生活様式を見せてくれました。何重にも葦を重ねてあるのでまるで大地のように安定していましたが、所によってはぶよぶよした足元もありました。原始的といっても観光客向けのようで実際はソーラーパネルもあり、無論テレビもあり、モーターボートなど使っていて実際の生活は意外と近代化されているようでした。日本人は上得意様なのか、帰りにはチョウチョ、チョウチョや結んで開いてなどの童謡まで歌ってサービスしてくれました。 湖の風は強く、天候が急変して冷雨もあるといわれ、いっぱい防寒具を持って行きましたが当日は順調に早く到着したこともあり、晴れていてほとんど風もなく快適でした。アンデス民族舞踊ショー.jpgアルパカとリャマ.jpgビクーニャ.jpgビクーニャ2.jpg天竺ネズミ.jpgラ・ラヤ峠.jpgラ・ラヤ峠のバザール.jpg大平原.jpg大平原2.jpgチチカカ湖とプーノ・タウン.jpgウロス島.jpgウロス島2.jpgウロス島位置.jpgウロス島模型.jpg物々交換模擬.jpg

マチュピチュ

インカの首都クスコ(標高3500m)から北西にウルバンバ川沿いに聖なる谷が続きます。ここはスペイン軍によるクスコ陥落後、インカ軍の抵抗の拠点となった所です。渓谷沿いにトウモロコシ畑が続き、インカの遺跡も点在しています。オリャンタイタンボから展望列車に乗りましたが、遠くにはベロニカ山という雪山もみえました。そして2010年に豪雨で土砂崩れがあった地点を通過し1時間半程でマチュピチュ村(標高2000m)に着きました。そこからはシャトルバスで九十九折になった山道を20分ほどかけて遺跡入り口まで登って行きました。この道はマチュピチュ発見者のハイラム・ビンガムに敬意を表してハイラム・ビンガムロードと呼ばれています。 入場ゲートを過ぎて一しきり急坂を登ると目の前にマチュピチュ遺跡(標高2400m)とワイナピチュ山が拡がって見えてきました。写真や上野でのマチュピチュ展でみたビデオそのものですが、やはり実物は圧巻でした。現地ガイドの女性も通り一遍の説明ではなく、自分でガイドブックまで書く程の熱心な人で日本語も勉強している人でしたので深い話が聞けました。 マチュピチュは一般には巫女が住む特別な宗教施設と考えられていますが、最近のDNA鑑定では人骨の男女比はほぼ同等とのことで、各地から集まった貴族が住んでいて知識(天文、宗教、技術産物など)の集積の場所となっていたのではないかとの意見を述べていました。知識そのものがパワーの象徴だったというのです。文字がなかっただけにまだわからないことがいろいろあるようです。第1日目は上の方から順次村の中を見て回り、翌日はインカ道を辿り、太陽の門インティプンクまでミニトレッキングをしました。 その時の写真をアップしました。

展望列車.jpgベロニカ山.jpg列車内で.jpgマチュピチュ全景.jpg霧のマチュピチュ.jpg九十九折(ハイラムビンガム道).JPG見張り小屋2.jpg太陽の神殿.jpg日時計(パワーストーン?).jpgコンドルの神殿.JPGリャマ.jpgインカ道.jpgインカ道からのマチュピチュ.JPGインカ道から.jpg太陽の門から.jpg太陽の門.jpg