月別アーカイブ: 2012年7月

八方尾根花紀行

八方尾根から唐松岳に登ってきました 。登山道沿いには数々の高山植物が咲き乱れていました。7月末の週末とあって唐松山荘は今年一番の登山客ということで,大混みでした。残念ながら晴天とはいかず頂上からの眺望も今一つでしたが、久しぶりの山の空気を吸って心地よい気分でした。 写真に収めた高山植物で名前のわかったものをピックアップしてみました。
オオバギボウシ.JPGキンコウカ .JPGコマクサ.JPGシモツケソウ.JPGタカネナデシコ.JPGチングルマ.JPGニッコウキスゲ.JPGニッコウキスゲ2.JPGハクサンタイゲキ.JPGハクサンチドリ.JPGハッポウタカネセンブリ.JPGミヤマコゴメグサ.JPGミヤマダイモンジソウDSCF2467.jpgミヤマママコナ.JPGムシトリスミレ.JPGユキワリソウ.JPGワタスゲ.JPGワタスゲ2.JPGツガザクラ.JPGミヤマアズマギク.JPGヤマブキショウマ.JPGタテヤマウツボグサ.JPGクルマユリ.JPG八方ケルン.JPG八方池から唐松ー不帰.JPG

アルプス登攀記 ウインパー 著

エドワード・ウインパー。
1840年、ロンドンに生まれた。父の画家としての職業を踏襲して、挿絵画家の道を歩んだが1860年イギリス山岳会の登山紀行集の挿絵の仕事を依頼されたことをきっかけにヨーロッパアルプスに出発した。それまでは登山は素人であったが、アルプスに魅了され繰り返しアルプス登山を行った。そして念願のマッターホルンに7度の失敗を乗り越えて1865年に初登頂し、その下山時に同行者が墜死するという悲劇はあまりに有名である。アルプス登攀記(SCRAMBLES AMONGST THE ALPS)はその間の紀行、論考をまとめた本で、最後に栄光と悲劇の物語のクライマックスを迎えて劇的に終わっている。
1871年に初版本が発行されたが、1900年まで加筆、改定を繰り返している。日本語版は1936年自身も登山家である浦松佐美太郎によって訳出された。
ウインパーが述べているように、「私は登山を、スポーツとして、この本のなかで書いたのであって、それ以外のことは何も考えていない。これらの登山によって与えられた楽しさは、それを他の人に伝えることは不可能である。アルプスの山々の素晴らしさは、どんな名文豪でも文章に書き現わすことはできなかった。これからも、できないことだろうと思う。大文豪といわれる人の書いた詳細にわたる叙述も、全く違った印象を読者に与えるにしか過ぎないーーおそらく読者は壮大な風景を、心のなかに作りだすかもしれないが、それでもなお現実の山の姿に対しては、まことに貧弱なものにすぎないのである。」
フランスのドフィネ地方のモン・ペルヴー登山から次々へ高山に登り、未知の世界へ、マッターホルンへと駆り立てられていった衝動を述べながら、また画家としての詳細な描写をしながらもなおかつ読者へ伝えきれないもどかしさを述べている。確かに実際に経験しなくてはその感動は分からない。百聞は一見に如かず、だ。文章を読んでいても現場のイメージはわからない。ただ、今はインターネットによる写真があり、グーグル・アースなどの情報があるので、読みながら参照すればいくらかは実像を感じ取る補助にはなるかもしれない。
 第1回目のマッターホルンへの試登は、1861年に南面のイタリア側から行われた。というのは、ツェルマットのある北面側から眺めた時、切り立った絶壁のようで、南面からの眺めはピラミッドが幾重にも積み重なったように見え、取り着き易いイメージがあり、初期の試みは皆後者からであった。ブルーイユの村からリオンのコルを目指し、南西山稜にとり着いたが、チムニーに行く手を阻まれた。
翌1862年も同じルートを挑んだが、天候のためや、人夫の不調のためまた敗退した。それで、単独でまた登りなおし、チムニーを越えて、大きな岩塔まで登った。ここからは、岩は逆層がきつくなり、ボロボロな岩質になっていたため退却した。下降に便利なように鉄のフックや懸垂下降用の鉄の輪などを利用している。下降に邪魔な氷斧をテントに残してきたため、氷の斜面で滑落してしまった。岩壁から岩壁へと空中を飛ばされながら、絶壁のすぐ上の岩溝のくびれたところに引っ掛かり、止まったという。20か所以上の傷口から血が吹き出、一旦気絶しながらもブルーイユまでたどり着いた。1週間後には性懲りもなく同じ岩塔まで戻ってきている。今回はベテランガイドのカレルを伴って。しかし天候が急変し吹雪になったため下山した。
カレルはどうも自分がイタリアからの初登頂を狙っているようで、協力的ではないために別のガイドを伴って前回の最高点を通過して登っていったが垂壁に阻まれてしまった。
1863年8月もコル・デ・リオンから挑んだ。またしても吹雪、雷鳴に苦しめられて頂上近くの「肩」を手前にして退却した。この間麓は快晴でマッターホルンにだけ雲がかかっていただけだったという。
1865年はいままでの戦略を大きくかえた。その最大の理由はマッターホルンの岩層が西南西の方向へ傾斜していることが分かったことである。すなわち南西稜から登るとまるで屋根瓦を登って行くような逆層の岩になり、ヘルンリ綾、東壁からだとその逆の順層になるということである。また東壁は見た目の急峻さとは異なって40度を越えていないことが分かった。それに今までの気象障害、尾根筋よりも岩壁、雪壁を登ることを好むようになったことなどを理由としてあげている。
6月末にクローら山案内人4人を連れて南東山稜から東壁をめざしたが、岩溝の落石のために一旦撤退した。7月にカレルに東壁からの登攀を打診したが、はっきりしない返事だったが了解をとりつけた。しかし、カレル等はジョルダーノ氏率いるイタリア隊とすでにマッターホルン登攀の予定を組んでおり、ウインパーは出し抜かれた形になってしまった。
無念さに歯ぎしりした彼はなんとか挽回する策を考えた。早くイタリア側のブルーイユからツェルマットに戻り、ガイドを雇うということだ。若い英国人(ダグラス卿)がペーテル・タウクワルダーを連れてツェルマットからやってきた。また老タウクワルダーはヘルンリの上まで登り、登頂への可能性を見出した、と聞いた。そこで彼はペーテル親子を雇い彼らと登攀することにした。ダグラス卿も参加を希望したので誘った。ツェルマットに着くとシャモニに帰ったとばかり思った信頼するガイドクローとホテル・モンテローザの前でばったり出会った。彼はハドソン氏とマッターホルンに登る予定だという。友人のハドー氏も一緒だという。話し合いの結果、二つの登山隊が、同じ目的を持って、同じ時に一つの山に登るのは、どうも面白くないという意見で一致した。それでウインパーがハドソン氏を彼の仲間に誘った。彼は寝床の中で様々な不思議な因縁が去来して仕方がなかった、という。 
 こうしてイタリア隊に対抗するべく急造の登山隊が結成されたのである。
7月13日午前5時半にツェルマットを出発した。雲一つない晴天だったという。ヘルンリ稜から東壁に向かった。思ったよりも易しい岩場だった。12時前にテントを張った。クローと小ペーテルが明日のためにルート工作に向かったが、東壁の随分高い所まで登っていった。3時過ぎに戻ってきた2人は「難しい所は一つもありません。登ろうと思えば今日中にでも登って戻って来れたでしょう。」といった。14日夜明け前に出発。荷物がないので楽だった。難しい所も左右に動けば登れた。大部分はザイルも必要としなかった。しばらく登ると垂壁に行く手を阻まれたので北東山稜から北壁側にまわり、岩と氷のミックス壁を登った。難しかったが40度を越えなかった。しっかりした登山家なら安全に登れる所だった。ハドソン氏は一度の手助けも必要としなかった。しか
しハドー氏は絶えず手助けが必要だった。午後1時40分ウインパーとクローはほぼ同時に頂上に駆け上がった。イタリア隊はずっと下の方にいた。石を投げて教えてやると彼らは退却を始めた。1時間程頂上にいて下山を始めた。ザイルの順番についてハドソンと相談した。クローを先頭に立て、次いでハドーをおいた。山案内と遜色のないハドソンは3番手を選んだ。次にダグラス卿を選んだ。その後に最も強力な老ペーテルを立てた。ハドソンには登った時の最後の難所ではザイルを岩に結びそれを握って降りるように指示した。ウインパーは頂上で写生をしたり、名前を瓶に入れて残す作業のため皆から少し遅れて下り始めた。小ペーテルとザイルを組み、難しい岩場で皆に追いついた。皆一歩ずつ慎重に下っていたが補助ロープは使っていなかった。3時頃ダグラス卿にたのまれて老ペーテルともザイルを結んだ。クローが両手でハドーの両足を支えて足場を確保していた。そして、自分が下るために後ろ向きになった時にハドーが足を滑らせクローの背中にぶつかり、突き落としたというのだ。ただウインパーの所からは岩が邪魔して一部分しか見えなかったという。そして、次々に叫び声を上げながら滑り落ちて行った。老ペーテルとウインパーにも衝撃がきてザイルはピーンと張ったが、ダグラス卿と老ペーテルの間でザイルは切れてしまった。なんと彼は補助ロープを使っていたのだった。すっかり気力をうしなったペーテル親子を叱咤激励しながら、補助ロープを岩に結びつけながら下山した。
こうして、栄光の初登攀から一転して悲劇へと変じたマッターホルンの物語は終焉を迎えた。彼もペーテルもスイスの法廷で裁判にかけられ、最終的には無罪になったが、種々の非難にさらされた。彼もこの時を境にアルプスから姿を消す。
アルプス登攀記はもちろんマッターホルン初登攀に至る記録だが、それ以外にエクランやグランド・ジョラスやエギーユ・ベルトの初登攀などの素晴らしい記録も同時に収められている。ウインパーは仕事に対しては注意深く、熱心で徹底的に物事を追求する性格の人であったという。注意深い観察眼は植物学、地質学にも及び、登山用具の改良、発展にも寄与したという。また精巧なアルプスの描写はまだ写真の発達していなかった時期にアルプスの実像を伝えたろう。これらの努力、性格がこの困難な初登攀を成し遂げる元になっていたのだろう。
この本のなかには、鉄道トンネル工事の詳細な記述や、氷河の成り立ちへの記述などその観察眼の鋭さや緻密さが垣間見られる。しかし、氷河の学説に対し、当時の大家を激しく非難している記事や、当時のアルプスの人々の貧しさ、汚さを述べている点、アオスタ谷に多くみられた甲状腺腫(クレチン病)による?精神遅延者を根絶する試みに対する今日では不適切ともとれる記述などやや温厚さを欠く性格も垣間見られるようだ。しかし、友人たちの追憶の言葉によれば「他人にお世辞を言わず、思うことをはっきりと言う性格であり、また積極的に人との交際を求めることもしなかったために誤解されることが多かったが、彼は温かい心の持主で、心をゆるした友人との間では、よき話相手であり、心置きなく付き合える人柄であった。また話題も豊富で、独特の鋭い皮肉な観察眼ももっていた」という。
アルプスを去った彼はその後、グリーンランド探検、南米のチンボラソ初登攀、カナディアンロッキー初登攀など精力的に活動している。
年老いた彼はかつての青春の日々を追憶すべく、ツェルマット、シャモニと旅を続け、シャモニの宿で客死した。最後は部屋に鍵をかけ医者の治療を拒否して逝ったという。いまは静かにシャモニの墓地に眠っている。
アルプス登攀記はウインパーが山に目覚め、マッターホルンを初登攀し、アルプスを去るまでのたかだか6年間の個人的な手記である。それでいながら、意識したかどうかはともかく、この間彼はアルプス登山史の中心にいて最大の偉業を成し遂げた。この時期はアルプス登山史の黄金期の最終開花期でもあった。モンブランを始め幾多のアルプスの高山が制覇されていった当時、最後に残る難攻不落の山がマッターホルンだったのである。
彼の詳細な、また時として歯に衣を着せぬ報告は今となっては却って第一級の歴史的な資料となっている。この本を読んで、山への、アルプスへの憧れを掻き立てられ、登山家として成長していった多くの若者がいるという。あの時期の粗末な装備で氷の斜面を登下降したりシュルンドを飛び越したりなど臨場感のある記述を読むと、今も手に汗を握る程である。山好きの人には堪えられない本だといえる。

最後に彼が一番読者に伝えたかったであろう言葉でこの物語を締めくくりたい。
「そして、あの最後の悲しい記憶が、私のまわりに漂いつづけている。流れていく霧のように日の光をさえぎり、楽しかった思い出をさえ凍らせてしまう。言葉では言い尽くせないほど大きな喜びも数多くあった。それとともに、思いだしても苦しくなる悲しみもあった。これら一切のことを顧みてもなお私は、山へ登りたいと思うなら、登りなさいと言いたい。ただしかし、勇気と力だけがあっても、慎重さを欠いていたら、それは無に等しいということを忘れないでいて欲しい。そしてまた、一瞬の不注意が、一生の幸福を破滅に陥れるものであることも、忘れないで欲しい。何ごとも、あわててやってはならない。一歩一歩をしっかりと踏みしめ、常に最初から、終りが、どんなことになるかを、よく考えて行動して欲しい。」

中原寺メール7/18

【住職閑話】~知床岬へ~
 真夏日が続いていますが、これから訪れる夏本番にお体を大切にして下さい。
私は今日から少し休暇を貰って北海道の知床方面に行ってきます。
 思えば50年も前、友人と二人で北海道を旅しました。学割が5割だった頃で汽車と青函連絡船に乗って函館~登別~札幌~旭川~網走~知床~十勝~苫小牧といった所を回り、観光地を旅館に泊まりながらめぐり、悠長に十泊もしたことがありました。
 知床はそれ以来となりますが、たしか「知床旅情」の歌が流行っていた頃ではなかったかと思います。まだ秘境といわれていたし、観光船で知床半島を海から眺め、国境の国後島が見えたことを覚えています。
 旅したその友も亡くなってはや十四年にもなります。中学・高校・大学と一緒で、とても気が合う奴でした。
 8月の暑い日、壮絶な癌死で逝きましたがほんとうに残念なことでした。
生き延びている私は妻と二人の知床旅行ですが、なぜか彼のことが思い出されます。
 自由自在な仏の世界にいる彼は、私より一足さきに知床の地でハマナスの花の一輪になって私たちを迎えてくれるかもしれません。
 皆さまにはメールにて涼しい風をお届けします。

トコジラミ(南京虫)

今朝のNHK総合テレビでトコジラミ(南京虫)のことを報道していました。トコジラミは一時発症が少なくなりましたが、最近また増加傾向にあるようです。有機リン系の毒性の強い殺虫剤が禁止されたこと、海外からの団体旅行者の荷物と共に国内の観光地に持ち込まれたことなどがその原因としてあげられるようです。欧米など海外では最近ホテルなどでも、被害が相次ぎ社会問題にもなっています。旅行者が衣類などに紛れ込んだ虫をスーツケースと共に、国内に持ち帰るケースも増えているようです。また悪いことに海外からのものは、種々の殺虫剤に耐性の場合が多いそうです。
 テレビでの報道でためになったのは、トコジラミの退治方法でした。炭酸ガスに呼び寄せられるという虫の習性を利用して、夜間に寝床の近くにドライアイスをカップ等に入れておきます。それをプラスチックの鉢植えなどの皿の上に置きます。周りをザラザラの新聞紙などを巻いて虫が上がって入ってこれるようにします。内側に入った虫は内壁がつるつるのプラスチックのために登って逃げられなくなり捕獲できるとのことです。虫は翅がないために飛べないのです。これは退治だけでなく、数が少なく虫が特定できない時の虫の検出方法としても使えそうです。そして虫をみつけたらやはり下の記事を参考に徹底的に退治する必要があります。70度以上では虫は死ぬようなので、マットレスをビニールでぐるぐる巻きにして日光に当て死滅させたという記事もありました。自分で駆除できない時には、お近くの保健所に相談して下さい。専門の駆除業者もあるようですが、かなり高価なようです。
 トコジラミは南京虫(英語ではbedbug)とも呼ばれますが、かつて中国の同地方に多かったことと、外国からの持ち込んだものには「南京」と呼んだなごりがあるともいわれます。例えば南京豆とか。
 トコジラミは半翅目トコジラミ科の昆虫でカメムシの仲間で、体長5~8mmで扁平な卵型をしています。褐色調をしていますが、吸血すると濃赤色になり丸みを帯びてきます。
22度から27度が至適温度であるために、夏場に活動し、冬は休眠状態になります。夜行性ですが暗い所では昼間も活動します。定期的に吸血しますが、飢餓には強く100日以上も飢餓に耐えるといいます。吸血後に脱糞し、大工さんの糸墨をはねたような黒いシミ跡を巣の近くに残します。
住処は、狭い木と木の隙間が多く、柱と鴨居の間、タンスの合わせ目、ベッドの裏、額縁また絨毯の裏、畳の裏にも住んでいます。ただ、どちらかというと床より上方に住処を求めるようです。
 炭酸ガスに寄ってきて、主に露出部を刺します。刺された部位に虫刺され様の赤み、しこり、出血斑、蕁麻疹様の赤みなどを生じます。(家ダニより大きめの赤み)
 駆除は巣や通り道に残留効力のある噴霧剤を散布するか、畳、絨毯などではフェノトリン(スミスリン)の散布が効果的のようです。
 治療は二次的に感染していなければ、強いステロイド剤塗布と抗ヒスタミン剤の内服が効果的です。
近年の虫は虱も疥癬も、このトコジラミも海外からの輸入によって薬剤耐性のものが増えてきているようです。ウイルスから細菌、虫に至るまで新型だの薬剤抵抗性だの厄介な病気がふえてきているようで困ったものです。
最近は、リーシュマニア症や、デング熱、チクングニア熱など日本ではありえないような疾患の報告もあります。世界は限りなく身近に人の交流も便利になってきていますが、これはパラサイトにとっても同じことです。よく海外に行かれる方は成田などの空港検疫所のパンフレットなどもう一度よく読まれることをお勧めします。

疥癬のお話

疥癬の講演がありました。赤穂市民病院の和田康夫先生が講師でした。疥癬は以前ミレニアムにも触れた様に、ヒゼンダニというダニによって人から人に感染する病気です。通常疥癬と、牡蠣殻様に 厚く盛り上がったあか(角質)に大量にダニがいて、非常に感染しやすい角化型疥癬(ノルウェー疥癬)があります。先生はかつて自分の指にダニを感染させて疥癬トンネルの成長を観察したほどのツワモノです。ビデオで虫(0.4mm)の蠢くさまを実際にみせてくれました。また角化型の角質に無数に虫が棲息している様もみせてくれました。手のひらで8万匹、全身ではその数十倍というから恐るべき数です。こういった場合は個室で徹底的に感染を防御しながら治療する必要があります。ただ、通常型の場合は数十匹以下なので、少し触れる程度では感染はほとんどないとのことです。
疥癬のウェブサイトがあり、(http://www.scabies.jp)和田先生の講演内容もみることができ、参考になります。
最近はダーモスコピーで疥癬トンネルの先に虫の頭部が黒くみることができるとのことですが、なかなかコツが要りそうです。
こういったことにも習熟していかなくてはと、思いました。

新編 単独行 加藤文太郎 著

不世出の単独行の登山者、加藤文太郎。昭和の初めに彗星のように現れて、冬の北アルプスを縦横無尽に駆け巡り、国宝的な存在となったが、冬の北鎌尾根に消えて帰らぬ人となった。昭和11年に亡くなってもう一世紀近くになるが、いまだにファンは多く、特に多くの単独行志向の若者のあこがれの星であり続けている。
「単独行」は、遺稿集として、加藤文太郎の書いた文章を集めて昭和11年に刊行された。2000年に周辺資料を合わせて、「新編・単独行」として出版された。この新編を読む機会があったので、概略を記してみたい。
 年表によると、文太郎は1905年(明治38年)兵庫県浜坂町に生まれている。1919年三菱内燃製作所に入社し、技師として生涯勤務した。大正13年以来兵庫県内の国道と県道を四百里ほど歩いた、という。その驚異的な脚力、踏破力はその時に培われたものだろう。大正14年から夏の北アルプスへの本格登山が始まっているが、その足跡は実に驚異的である。5-10日前後の単独行を繰り返しているが、初の北アルプスからして凄い。中房温泉から燕岳へ登り、いわゆる表銀座コースを経て槍、穂高を縦走。ここまでは普通だが、上高地へ下山後、安房峠、平湯を経て乗鞍を登頂、更に進んで御嶽山を登り、木曽駒ケ岳に至っている。宝剣岳、空木岳を越え、南駒岳に到り、擂鉢窪から道なき道を辿り飯島に出ている。この長大なコースを休み日なく、車など交通手段を使った形跡もない。「神戸へ無事五日午前一時着せり、同二時床につく。痛快云わん方なかりき」と記している。このコースを登った経験のある人ならば淡々と記されたこの行程の超人的なことがわかると思う。
翌昭和2年の夏には赤石~聖~荒川~塩見~農鳥~北岳の長大なコースを8日間で縦走している。これらの経験を基に、縦走コースの紹介をしているが、一日14,5時間歩くような行程で常人にはちっとも参考になっていないし、無茶苦茶なコース設定である。彼にはこれが普通と思われたのだろう。
 昭和4年の正月には夏沢峠から硫黄岳、赤岳と初めての本格的な冬山登山を敢行している。後の彼からは考えられないようなコメントを残している。「今日は元日だ、町の人々は僕の最も好きな餅を腹一パイ食い、いやになるほど正月気分を味わっている事だろう。僕もそんな気分が味わいたい、・・・それだのに、なぜ僕は、ただ一人で呼吸が蒲団に凍るような寒さを忍び、凍った蒲鉾ばかりを食って、歌も唄う気がしないほどの淋しい生活を自ら求めるのだろう。」その後、堰を切ったように怒涛の冬山単独行が始まる。その中でも白眉は昭和6年1月に薬師岳から烏帽子岳までの北アルプス核心部をU字型に10日間かけてサポート無しに辿ったものであろう。特に三俣蓮華から烏帽子岳の踏破記録が凄い。雪の中を三俣蓮華の小屋を午前7時に出発して、鷲羽岳、黒岳、野口五郎岳と辿り、烏帽子岳の小屋には翌日の午前2時に到着している。
翌昭和7年2月の槍から双六岳及び笠ケ岳往復の記録も凄いに尽きる。午前6時に槍を出発、笠ケ岳には午後8時到着、小屋に泊る予定であったが、雪で見つからないために、来た道を引き返している。懐中電灯も切れて雪明りの中を歩き通し、翌日午後2時20分に槍の小屋に戻ってきている。実に32時間行動し続けたことになる。
このような無敵と思われる文太郎にも技術面・心理面の葛藤、変化がみてとれる。一つはいわば独学で突き進んでいったために、スキー技術、岩登り技術など不得手であったらしいこと、病気がちで先の長くない父が危ない登山はやめてくれ、身を固めてくれと懇願したことなどがあげられる。「その後父の病気はだんだん重くなっていくのになお山の恐ろしい力が私を誘惑する。それは前穂の北尾根と槍の北鎌尾根なので、一人では少々不安だ、・・・吉田君は山での死をすこしも恐れていない。その上岩登りが実にうまい。だから私は間もなく吉田君を誘惑してしまった。」この文章が悲劇の結末を暗示しているかのようでもある。実際に昭和10年には花子と結婚して無茶な山行はしなくなっているが、やはり北鎌尾根はやり残した感があったのだろうか。
昭和11年の正月3日、昼食後槍肩の小屋から吉田氏と北鎌尾根に向かったまま行方不明になり、4月に北鎌尾根末端の千天出合近くで遺体が発見された。第3吊橋の袂にピッケルが立ててあり、その下に吉田氏の遺体が整然と横たわり、文太郎はそこから200m下手の渓流に浸って横たわっていたという。推察するに吉田氏が先に力尽き動けなくなったのを看取った文太郎がピッケルを目印にして残し、最後の力を振り絞って何とか生還しようと一人湯俣を目指したが、やはり力尽きたと思われる。妻はその手記に文太郎が6日の明方、手編みのセーターを着て夢枕にたったという。もしかすると律義な彼が最期の別れに最愛の妻の元に別れの思いを届けたのかもしれない。
同行した2人の証言によると、3日朝、吉田氏をリーダーとして3名が槍へ向かい、文太郎は小屋に残った。昼前に3名は小屋に戻り、2名に下山するように指示し、加藤・吉田の2人で槍を越え北鎌に向かうと言って出て行った。文太郎は今日中は間違いなく晴れだといった、食料は甘納豆、リンゴ2個、チョコレート3枚で服装は簡単な防寒具だった、とある。それにしてもあのいつも慎重な文太郎のその時の行動は腑に落ちない。どうみても難関の北鎌尾根を踏破する装備、心構えではない。実際12時過ぎには猛烈な吹雪になっていたというし、無理をして深入りするような状況ではなかったと思われる。しかし両名は戻ってこなかった。そして吹雪は7日まで続いたという。捜索隊は北鎌第二峰の北側に2人のビバークの跡を発見し、附近に乱れたアイゼンの跡も見つけたという。その跡は途中で途切れていたという。現場の状況から千丈沢へ転落したのではないかと推定している。しかし、2人が発見されたのはもう一投足で湯俣という千天出合近くの天上沢だった。すなわち千丈沢へ墜死したのではないということだ。岩壁に限らず山は登るより下る方がずっと難しいことは常識だ。況してや冬の岩壁をクライムダウンしていく事の困難さは言を俟たない。ビバークの後、2人にどのようなやり取りがあり、どのようなアクシデントが起こったかは想像の域をでない。岩壁登攀の得意な吉田氏はリードして戻れなかったのだろうか。
新田次郎の小説「孤高の人」では吉田氏は初めて加藤とパートナーを組み、功をあせり結果として加藤を死地に追い込んだ者のような設定で描かれているが、事実は違う。前穂北尾根でもむしろ加藤をリードしているし、困難なルートを制覇するために加藤の方から誘ったとの記述もある。孤高の人がパーティーを組んだがために遭難したとするのは極論だろう。しかし、それでもなお彼が単独であったならばもっと慎重に、あるいはもっと臆病に事を進めていたかもしれないと思う。そして臆病に進めば、あの強靭な体力と、粘りをもってすれば数日のビバークにも耐えてひょっこり湯俣を経て里に顔を出したのではないかとも思われる。かつて友人と2人で11月の北鎌尾根を登ったが、まだ雪は少なく、頂上付近でザイルは使ったもののほぼ夏道を辿ることができた。しかし、一度悪天候になり氷雪に閉ざされると悪絶なコースに変身するという。現代でも尾根上で何回ものビバークを強いられたケースもあるという。こんな岩稜を真冬の吹雪の中、あの時代の装備でよく末端まで頑張ったと思う。
文太郎は他人に顕示するために超人的な山行を敢行したのではない。已むに已まれぬ山への思いが為せたのであろう。そして決して洗練されたとはいえない文章でも時代を越えて山好きの人の心に響き続けているのであろう。

 
                                           

リャド

ホアキン・トレンツ・リャド、スペインが生んだ天才画家、光と影の魔術師、ベラスケスの再来、あるいはそれを超越したと評されながら若くしてアトリエのあるマジョルカ島で急逝しました。
妻がリャドを気に入ったようで、だいぶ前に「バガテルの薔薇」という名のシルクスクリーンを購入しました。時折、居間に掛けて見ています。
近づいてみると、荒々しく描きなぐったかとも思えるようなタッチですが、ある距離を置いてみると何ともいえなく鮮やかな草花が浮かんできます。遠くの風景や水の流れさえもみえてくるようです。大雑把なようで計算されつくしているのでしょう。
写真でしか知りませんが、光と影の織り成す風景は写実のようでありながら、何か光に満ちあふれた彼の世の世界を写しているようにも思われます。20世紀最後の印象派と言われる所以かもしれません。しかし、個人的にはルノワールの温かみのある光とも、ジベルニーのモネの光とも違うように感じます。リャドはあくまでリャドで独自の世界があるように思われます。肖像画の精緻さはベラスケスをも超越したといわれるのも納得と感じました。いつか機会があれば、ショパンとジョルジュ・サンドの島でも有名なマジョルカにいって原画を見てみたいと思いました。

中原寺メール7/3

【住職閑話】~絵本を読む~
重苦しい梅雨空の一日、気に掛っていた歩道上にまで垂れ下がっていた枝垂れ桜の枝の剪定作業をしたら汗が滴り落ちてきました。
わずかな時間と作業量なのに、じっとりとした疲れを感じたのはいかに体力が弱っているかのあらわれです。それからは昼食を挟んで眠気に襲われ、久し振りによく眠りました。
学校から帰ってきた孫娘の気配にやっと起きだしましたが、体と頭がスッキリしないのは今日の蒸し暑さなのでしょうか。
そんな気分を変えてくれたのが孫に「読んで!」とせがまれたオスカー・ワイルド原作の「わがままな きょじん」という短い一冊の絵本です。
原作では、わがままな巨人が、やがて子どもたちを見てやさしく温かい気持ちになっていつかおじいさんになり、白い花の咲く木の下で死んでいくところで終わります。
そして、作者のオスカー・ワイルドの次の言葉が今日の思い気分を振り払ってくれました。
「ワイルドは、自分の幼い息子たちに、この童話を話して聞かせている時、彼の眼には、涙がいっぱい溜まっていました。長男のシリルが驚いてその理由をたずねると、『ほんとうに美しいものに出会うと、泣かないわけにはいかないのだ』と答えたといわれています。」
「ほんとうに美しいものに出会う!」。

性器ヘルペス感染症

某外資系製薬会社主催のセミナーに参加しました。抗ウイルス剤を世界で最初に開発した会社です。まあ、会社の販売促進のプロモーションの意味合いもかなりあるでしょうが、実のあるセミナーでした。この抗ウイルス剤はアシクロビルといって、単純ヘルペス、帯状疱疹に有効ですが、この開発者はノーベル賞を貰いました、との説明があり、これは知らなかったので一寸調べてみたらガートルード・B・エリオンという女性生化学者がその人であることがわかりました。これが凄い。1918年ユダヤ人移民の子としてニューヨークに生まれる。当時は女性ということで大学院での研究者の道は閉ざされ、高校教師として働く。後にバローズ・ウエルカム社に勤務する(これが後に社名を変え、今回のセミナーの会社となります)。彼女は独力で(ジョージ・H・ヒッチングス博士の研究助手として入社し、ノーベル賞も3人で受賞しているので必ずしも独力ではないかもしれませんが)それまでのトライアンドエラーの方法ではなく、人間の細胞と病原体の違いを利用して、人間の細胞を傷つけずに特定の病原体を殺すか繁殖を阻害する薬を設計しました。81歳の生涯で6種の薬剤を開発した、とあります。これが、素晴らしい、というか信じられない思いです。ロイケリン(白血病治療薬)、イムラン(免疫抑制剤)、ザイロリック(痛風治療薬)、マラリア治療薬、トリメトプリム(細菌感染症治療薬)、そして今回のアシクロビルです。さらに、HIV治療薬のジドブシンの開発にも寄与したとのことです。これらの1つでも第一級の薬です。ひょっとするとアインシュタインにも匹敵するような頭脳の持ち主だったのかもしれません。それでいて、生涯PhD(理学博士号?)を取らなかったということです。博士号など超越していたということでしょう。あるいは女性差別へのプロテストだったのでしょうか。1988年にノーベル生理学・医学賞を受賞しますが、感染症に対する薬剤としては1939年のサルファ剤、1945年のペニシリン、1952年のストレプトマイシンに次ぐ実に37年振りの快挙だったそうです。しかも人類初の抗ウイルス剤です。
 だいぶ横道に逸れてしまいました。当日の講演で気になったもの、性器ヘルペスについて、一寸述べます。これは先日STI研究会のブログで一寸触れましたが性感染症の一つです。クラミジアや淋病と異なり外性器(皮膚)に発疹がでますので皮膚科で取り扱います。
 講演でのお役立ち情報をいくつか。
*外陰部に水疱・潰瘍を生じますが、似たような症状を呈するのは梅毒、帯状疱疹、固定薬疹、ベーチェット病、湿疹かぶれなどがあります。
*現在はタイプⅠ、Ⅱ型の判定は蛍光抗体法の外注になりますが、某会社がイムノクロマト法による試薬を開発中とのことで、近々開業医外来でも短時間でヘルペスのタイプ別診断が確実にできるようになるのが期待できそうです。
*年6回以上再発する性器ヘルペスには再発抑制療法が適用になります。すなわちバラシクロビル1錠(500mg)を毎日1年間内服することによって再発を防ぎます。
*潜伏ウイルスの量が多い程、再発頻度も多くなることが分かっています。数年間再発抑制療法を行うことで神経節内のウイルス量も減少し、再発頻度も減少することがわかっています。
*初感染時に十分量、十分な期間、しかも早期に治療を始めることで、潜伏ウイルスの量を減らせ、再発の可能性を減らすことができます。
*再発リスクはコンドームを使用すること、パートナーにヘルペスを告知することとほぼ同程度のリスク回避効果があるとのことです。
*性器ヘルペスでは、パートナーへの水平感染のみならず、子供への垂直感染のリスクがあります。出産時に産道からヘルペスウイルスの感染を受けると新生児ヘルペスを発症することがあります。
*再発抑制療法によっても潜伏ウイルスの排除は困難です。また無症候期に感染するケースもあります。再発抑制療法をいつから始め、いつまで続けるか、という点については明確なコンセンサスはまだないとのことです。これからの研究・症例検討が待たれるところです。