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中原寺メール8/30

【住職閑話】~小さい秋~
 昼となく夜となく、休みなく続く残暑に庭に出る元気さえ喪失していましたが、昨夕は小さい秋を見つけてうれしくなりました。
 それにしても昨日の夕焼けは実にすばらしい光景でした。日没の空に織りなす光の色はオーロラを思いこさせるほどの美しさです。
自然界の現象はいつも人間の心を癒してくれます。お経に説かれる西方浄土の表現は、世を超えて常にすべての生きとし生けるものに安らぎを与えているのだと実感します。
夕闇せまる東の空にはうす雲に懸かった秋の月、ふと足元からは虫の声がありました。たしかな小さい秋を見つけました。
日が暮れて帰宅した坊守(妻)が声を弾ませて言いました。「夕焼けが見事だったわね!」
乗り合わせたバスの名物運転手さんが、「皆さまとてもきれいな夕日です。残暑がまだ続くようですから水分をよく取ってお身体に気をつけて下さい。」ですって。
夕日に染まって和んだ車内の雰囲気も伝わってきました。

食物アレルギーの経口免疫療法

食物アレルギーの経口免疫療法
これについて、誌上でのディベートがなされていました。積極的に行った方が良いという意見と、やめた方が良いという意見が披歴されました。アトピー性皮膚炎をはじめとする食物アレルギーの食事制限についての討論です。
専門家でも意見が分かれることを受け売りで書いても、読者が混乱するだけかもしれませんが、必ずしも180度意見が異なり、接点がないということでもありません。重要な意見、知見が述べられていましたので、ここにまとめてみたいと思います。
【是とする意見】
まず、経口免疫寛容の理論に則って、食べることによって食物アレルギーを抑制することを臨床応用されている神奈川県立こども医療センターアレルギー科の栗原和幸先生の考えについて。
100年以上前からモルモットやマウスでの動物実験で、トウモロコシや卵白などの食物アレルギー反応が原因食物の量、時期、回数を調整して食べることで軽減することが実証されてきました。
イスラエルとイギリスに移住したユダヤ人小児のピーナッツアレルギーの頻度を比較すると、イスラエルの方が有意に低い。生後9カ月までにピーナッツを与える頻度はイスラエルで69%、イギリス10%で、摂取量はイスラエルがはるかに多い。これは乳幼児の積極的なピーナッツの経口摂取が経口免疫を誘導し、後のピーナッツアレルギーを予防する事を示しています。
これとは別の疫学調査で、ピーナッツオイルを含むスキンケア用品の使用がピーナッツアレルギーの発症に強く関連するという結果も報告されています。
すなわち、皮膚からの食物の暴露はアレルギーを引き起こし、経口からの摂取は免疫寛容、耐性を獲得し、アレルギーを抑制するということになります。
免疫学的な説明についてもT細胞無反応状態(アナジー)や抑制性T細胞の存在など経口免疫寛容の機序が説明されています。
経皮感作と経口免疫寛容が食物アレルゲンに関して普遍的な現象であれば、食物アレルギーを予防するためには不必要な食物除去を避け、原因食物を少量ずつ食べ、皮疹を改善して皮膚バリア機能を良好に保つことが重要になります。栗本先生は2007年から重症食物アレルギーに対し、特異的経口耐性誘導(経口免疫療法)を開始して有望な結果を得ているということです。無論、この治療方法は誰でもがやって良いものではなく、専門医が厳格な指導のもとに行う研究的な治療法であることは強調すべきところです。
【非とする意見】
経口免疫療法(oral immunotherapy:OIT)に対しては、日本小児アレルギー学会食物アレルギー委員会は、「現時点においては、本法を専門医が体制の整った環境で研究的に行う段階の治療であると位置づけ、一般診療においてはいまだ行うべきでない」としています。
経口免疫療法に反対の立場の意見としては、
1. アナフィラキシーのリスクを排除できない
2. アレルゲン食物摂取中止により、過敏性が元に戻る可能性がある
3. 覆面型食物アレルギー発現が危惧される(但し、この事についての免疫学的な機序、理論づけはなされていない)
などがあります。
しかし、多くの専門医が考える食物アレルギーの基本的な診療、治療方針は「正しい診断に基づいた必要最小限の食物除去」であり、「少量ずつ自然に食べる」ことで多くの軽症者は治癒していくのが自然経過といえます。
但し、負荷陽性の患者さんに対しての食事指導、免疫療法は結論がでていないという事でしょう。小児専門医と栄養士の苦労するところとなります。
OITは現時点で確立した治療法とはいえず、いまだに研究段階にあるといえます。しかし、栗原先生のように専門的な立場での臨床研究が成果をあげれば、我々実地医家にも患者さんにも非常に心強いツールとなると思われました。

食物アレルギーの臨床症状

食物アレルギーの臨床症状
即時型反応(主にIgEによる急性の免疫反応)と遅延型反応(マンゴーによるアレルギー性接触皮膚炎などで細胞性免疫によるもの、パッチテストで判定)に大きく分けられますが、ここでは前者の急性反応の症状についてみてみたいと思います。
アレルゲンとして感作された食物を食べたり、皮膚に付着したり、気道から吸い込んだりして数分から数時間以内に症状が発生します。
皮膚では、痒み、紅斑(赤み)、じんましん、血管性浮腫など。
目は痒み、結膜充血、浮腫、流涙など。
口では、痒み、口唇、舌、口蓋の腫れなど。
鼻では、痒み、鼻閉、鼻汁、くしゃみなど。
気道では、咳、かすれ声、ぜーぜー、呼吸困難、喉頭浮腫、肋骨陥没など。
消化器では、嘔吐、下痢、腹痛など。
循環器では頻脈(時に叙脈)、血圧低下、めまい、失神、四肢冷感など。
上記の症状のうちで、血圧低下などの循環器症状が出現した場合は勿論、皮膚症状や消化器症状に加えて気道症状が出現した場合は食物アナフィラキシーと考え、ショックへの対策が急を要します。
近年食物アナフィラキシーは増加傾向にあり、その8割が乳幼児とのことです。生卵、牛乳などが口囲などの皮膚のかぶれた部分から付着、侵入して発症した例や、こぼれた牛乳が遊んでいるうちに皮膚に付着し発症した例もあるそうです。
治療は、アナフィラキシーの発症から30分以内のアドレナリン(エピネフィリン)の注射が重要です。2011年からはショック緩和薬としてのアドレナリンの自己注射薬(エピペン)が保険適応になりました。
学校ナース、教師、救急隊による施行が法整備されているとのことです。
繰り返して誘発されたり、医療機関から離れた地域に住んでいたり、旅行などではエピペンの自己注射が適応になりますが、使い方に慣れて訓練していないといきなり飛び出る針を自己注射するのは難しいかもしれません。

体重によるエピペンの選択
欧州アレルギー学会・日本小児アレルギー学会
体重 15-30Kg: 0.15mg
      30Kg以上: 0.3mg

小児の食物アレルギーの特徴

小児の食物アレルギーの特徴、原因食物、自然史として藤田保健大学小児科の近藤康人先生の総説がありました。
ガイドラインも米国国立衛生研究所から発刊されたものが、近年定義の変更があったり、食事療法も厳格なものから必要最低限の除去に変わってきたりと、最新の医療現況は変わってきているとの記述が印象的でした。その抜粋を紹介します。
まず定義の変更ですが、以前は経口摂取(口から食べたもの)だけが対象でしたが、皮膚接触(いずれ後日また述べます。)、吸入、注射などどの経路を辿っても原因が食物であれば食物アレルギーとされます。
臨床病型は4つに分類されます。
1. 新生児・乳児消化管アレルギー・・・他の型と異なり非IgE依存性
2. 食物アレルギーの関与する乳児アトピー性皮膚炎
3. 即時型症状(蕁麻疹、アナフィラキシー)
4. 特殊型(食物依存性運動誘発アナフィラキシー、口腔アレルギー症候群)・・・この型は少ないですが重要なので後日改めて述べます。
このうち、ショックなどの重篤な症状を起こす危険性が高いのが3.と4の中の食物依存性運動誘発アナフィラキシーです。
臨床症状は皮膚症状のみが(88.6%)、呼吸器症状(26.8%)、粘膜症状(23.8%)、消化器症状(13.4%)、ショック症状(10.9%)と続きます。
食物アレルギーの有病率は乳児期は5~10%、幼児期は5%、学童期は1.5~3%と徐々に耐性ができて、少なくなってきます。ただ、そのメカニズムはよく分かっていません。
3大原因物質は鶏卵、牛乳、小麦が多く、以下甲殻類、果物、ソバ、魚類、ピーナッツと続きます。この中で甲殻類、ソバ、魚類、ピーナッツは耐性ができにくいとされます。
治療はこれまでの厳格な原因食品の除去から必要最小限の除去に変わってきました。乳幼児の栄養面に配慮し、多くは耐性を獲得するため小児科医と管理栄養士の連携で指導を行っていくのがよいとされます。
ただ、誤食は常に起こる可能性がありますので、抗ヒスタミン剤の携行、アドレナリンの使用指導が必要です。最近幼児でもエピペン(携行アドレナリンの自己注射セット)が使用可能になり、アナフィラキシー時の救命に役立つことが期待されます。

最近食物アレルギーに対する経口免疫療法が脚光を浴びており、今回の雑誌のなかでも取り上げられており、ディベートがなされていますが、是とする意見と非とする意見があり、未だ研究段階で安易に行うべきではないようです。

アレルギーについて考える

日常診療をしていて、アレルギーという言葉を聞かなかった日はほとんどありません。それ程に日常的で馴染みの深い言葉ですが、さてその実態はどれほど理解されているでしょうか。「アレルギーの原因を調べて下さい。」とはよく聞く言葉ですが、一見してアレルギーではないな、と思う病気にもよく使われています。原因はなんですか、という程の意味で使われているのでしょうか。
かぶれに対しても、アレルギーの血液検査をして下さい、といわれることがありますが血液検査ではわかりません、パッチテストで調べていくものです、というと怪訝な顔をされることもあります。
アレルギーという言葉は便利で皆が知っているようでいて、実は非常にデリケートで誤解を招き易い言葉です。
特に、蕁麻疹とアトピー性皮膚炎ではよく使われ、誤解を招き易く、時には説明しても納得が得られず、不満を残したまま外来を立ち去るといった場合もあります。
近着のVisual Dermatologyという皮膚科の雑誌に 最新! 食物アレルギーの診断と治療 という特集号がありました。
食物だけがアレルギーの原因ではありませんし、食物アレルギーとアトピー性皮膚炎は本来別の疾患ですが、食べ物は多分多くのアトピーの子の母親には常に気になっている事柄だと推察します。
現時点で最新の情報とのことですので、それを基にできるだけ分かり易く何回かに分けてまとめてみることにしました。(その分野の専門家でもない者が適切に説明できるか心許ない所ではありますが)

塩原温泉にて

お盆休みに塩原温泉に行ってきました。のんびりとした数日を過ごせました。 夜は打ち上げ花火などもありました。お湯につかりながらぼーとしたり、温泉街を散策したり、リラックスできました。散策の途中で塩原の資料館を見つけ入ってみました。明治時代の古くからの写真や資料がありましたが、皇族方、文人墨客も多く塩原温泉を訪れていました。尾崎紅葉、田山花袋、夏目漱石などの名前もありました。漱石は大正の初めに湯治に滞在したとのことで、その紀行文のなかで、西都須野(西那須野?)で下車す、軽便鉄道で関谷まで行きそこで下車。「いゝ路なり 蘇格土蘭土を思ひ出す 松、山、谷、青藍の水」と書いています。塩原にスコットランドの風土を思い出したとは意外な感じもしましたが、途中の高原がそのような景色なのかとも思いました。古い写真の中には塩原遊覧の馬車だとか、高村光太郎と智恵子の写真などもあって興味深いひと時でした。 塩原は渓谷とあって、渓谷にかかる多くの吊り橋があります。もみじ谷大吊橋もその一つで320mと大きなものでした。 日塩もみじラインの途中にはハンターマウンテンゆりパークという500万輪ともいうゆり畑があってユリの花を堪能しました。スキーゲレンデが一面のユリ畑になっていて、リフトで上まで上がり、ユリに埋もれたような遊歩道を山麓まで下りてきました。途中フジバカマに止まって蜜を吸うアサギマダラも見えました。シロツメグサなども咲いて一面の花畑になっていました。直売所では50種類もの色とりどりのユリの花が咲き乱れ、選ぶのにまごつく程でした。塩原1.jpg塩原2.jpg塩原3.jpg資料館1.jpg資料館2.jpg資料館3.jpg資料館4.jpgもみじ谷大吊橋.jpgアサギマダラ.jpgゆり1.jpgゆり2.jpgゆり3.jpgゆり4.jpg

花の百名山 田中澄江 著

田中澄江  1908年生まれ、2000年没の作家、脚本家。
昭和の初めの頃から山に親しむ。花の百名山は昭和53年から3年間に亘り「山と渓谷」に連載された記事をまとめたものであるという。当時は雑誌に連載されていることは知っていたが、ほとんど読んだことはなかった。最近読んでみて遅まきながら女史の山に対する愛と植物への博識のみならず歴史・文化への博識さを認識した。
日本百名山ならば、本家の深田久弥のものがあまりにも有名であるが、こちらの花の百名山は関東から東北、北海道に及び再び中央から西日本、九州へと全国に亘るものの山の大きさ、高さ、品格などにはこだわらずに著者の辿った遠近の山の花の随筆集といった趣である。
書かれた時期は昭和50年代だが、その思い出の足跡は昭和の初めまで遡る。
著者の子供時代、大正から昭和にかけては東京の高い所からなら、北に筑波、日光男体山、赤城、榛名、西には大菩薩、丹沢、箱根、富士、天城の山々が見えたという。
6歳で死に別れた父が手植えた庭の山野草を見、山の話を聞かせてもらいながら山への憧れを募らせていったという。学校の遠足、地理で近隣の山を知り、卒業して学校の教師になり月給をもらうようになると週末には一層山を歩くようになった。結婚して思うように山に行けなくなり、転んで足の骨を折ったりして一時期山から遠ざかったがまた運動の楽しみを山一本にしぼりゆっくりと山行を楽しむようになった。高水会という中高年の女性を中心とした山の仲間と頻繁に手近な山を歩き、いよいよ山の花が眼につき面白くなっていったという。
父は富士山にいて私が来るのを待っている、’お父さんは山にいる’。その思いを胸において山を歩き続けていったという。
昭和の初めの頃の9月の赤城登山の思い出も興味深い。「急に思いついてのことで、紫地のお召しの着物に朱赤の帯を締め、カナリアいろのパラソルをさして、草履であった。」黄ばみそめた白樺の葉と真っ白な幹の対照が鮮やかだった、と。また小沼のほとりのマツムシソウがきれいでその中に寝転んでいると怪しまれた、沼のボートでは投身自殺者と間違われた、という。身なりも身なりだが、その当時の若い女性の1人登山など一般的ではなかったのであろう。戦後俗化されたものの懐かしくまた往時の道を辿ると緋に燃えるようなレンゲツツジの花盛りであった。地蔵岳から忠治温泉への下り道で、草むらのなかに一点の赤い色を見つけた。薄紅のアツモリソウだった。その名は一谷に死んだ平敦盛の背に負った母衣の形からとったという。
著者は「登る山をえらぶとき、高さよりはその山が人間の生活とどうかかわりがあったかが、いつも気になる。私は古戦場とよばれるような山を歩くのが好きである。敗残の生命をかつがつに保って、落城の兵の逃げていった道などは、殊に心惹かれる」と書くように古人の故事にまつわる山を好んで取り上げている。
ヤマトタケルノミコト、源平の武将達、戦国の武田勝頼、佐々成政など悲運の末路を辿った人々の跡を辿っている。彼らはいまわの際に故郷の山河、恋する人に思いを馳せたのであろうか。そういう著者も「若い日というものは、周囲に対して、馬車馬のように注意のゆきとどかなかったものだと、今ごろになって恥ずかしい・・・ただ速く歩くばかりが能だったのである」とも述懐している。この人にしてもやはり青年期というものは一途で周りが見えないものらしい。
わが身を振り返ると、北海道から九州まで百名山も登れば数々の山の花々を目にしてきたはずだが、あまり記憶に残っていない。大体花の名前を知らないので記憶に留めようがないのかもしれない。青年期を過ぎてもただ登るだけで周りに注意が行き届かず忸怩たる思いだ。それでも、ニッコウキスゲやチングルマ、シナノキンバイ、ウスユキソウ、コマクサ、シャクナゲ、カタクリ、コバイケイソウなど貧弱な記憶の中にも思いは重なり、感慨深い。
著者は高山植物が好きといっても、図鑑と首っ引きで、花に詳しい人からその名を教えて貰うのが精一杯の花との付き合い方と謙遜されているが、植物同好会に入っていて、よく牧野富太郎氏の後をついて武蔵野の丘々を歩いた、という。また武田久吉氏から直々に尾瀬の花の話を聞くなど本格的である。
著者の花の旅は、古の人々を偲んでの山行きが多い。ただやみくもに山を歩いていた小生等には見えなかった世界だ。当たり前のことだが、この国の山も川も古からあり、人々も山河を越え、花を見ながら幾多の歴史ドラマを繰り広げていったのだろう。
その中で二上山はとりわけ心に残る一項である。昔、高校時代に皆と文集などを作っていたが、国語の先生がそこに二上山の記事を寄稿して下さった。
二上山はその昔大津皇子の悲しい歴史を秘めた山である。
大津皇子は天武天皇の第3皇子。母は天智天皇の大田皇女。父天武天皇が崩じてわずか1月も経たずに皇位を奪おうとしたとの謀反の嫌疑をかけられて死を賜った。それには早世した大田皇女の妹で自分の叔母にあたる持統天皇や藤原不比等の画策が覗われるとされる。夫の悲報に妃の山辺皇女は髪振り乱してその亡骸に取りすがり、殉じて果てた。伊勢神宮の斎王であった姉の大来皇女は皇子が二上山に埋葬された後、悲しんでうたに詠んだ。
  うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む
大津皇子は幼くして学を好み、また長ずるに及んで武芸にも秀で剣を良くしたという。性格は闊達で人望が厚かった。さらに政治にも参画し将来を嘱望されていた、とある。それだけに持統天皇は実子の草壁皇子の将来の地位を脅かす存在になると思ったものであろう。この姉弟は死の前にすでにそれを暗示するかのような歌も詠んでいる。悲しい結末をすでに思い定めていたのであろうか。
この悲劇も天智、天武朝の骨肉相食む政変劇の一つに過ぎないかもしれないが、有望な貴公子だっただけに、彼を愛した人々の逸話が伝わるだけに悲しい物語である。高校の恩師は寄稿文の最後にこの悲しい歴史を秘めた山は「にじょうざん」ではなく「ふたかみやま」と呼ぶのが似つかわしい、と結ばれた。このことはずっと心に引っかかっており、いつか訪れたいとは思っていたが、近くを通り過ぎたことはあってもまだ実現していない。女史も古の大津皇子を偲んで、レンゲやペンペン草の花盛りの田園風景の中を爪先登りに登ったという。高々500m程の山で現在ではハイキングコースというがいつか訪れてみたい。
 この本は山の花好きの人にとってはきっと情景がありありと目の前に浮かんで心躍る本であろうと

中原寺メール8/3

【住職閑話】~暑さ対策?~
 連日連夜の猛暑続きに加えて、ロンドンオリッピックの中継を見過ぎていささか寝不足気味ではないでしょうか。
 この前の朝は、ガラス戸越しの中庭で、野良猫が熱中症で死んでいるのかとビックリさせられました。完全に体の延びきった状態でガラスを叩いても反応せず横たわっていましたから‥‥。
さて昔から「緑陰で本を楽しむ」という諺がありますが、こう暑くては緑陰も熱風で身の置き所がありません。こんな時は石川五右衛門の「釜茹で」を思い描くのは如何でしょうか?
史記によると石川五右衛門は秀吉の安土桃山時代の大盗賊、文禄3年(今から918年前)に捕らえられて、8月24日京都三条河原で一子と共に釜茹でになって殺されたといいます。一説では高温の釜の中で、自分が生き絶えるまで子供を持ち上げていたとも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも、後年創作されているのは面白いことです。
前者では、いかに大盗賊でも吾が子可愛さの親の情を描いているし、後者では、親といえども苦しみから逃れるためには自らを先とする自己中心性をいっているのでしょう。
現代社会の「子どもへの虐待」があとを絶たないことを思うと、後者の親の非情さばかりが目につきます。
石川五右衛門の釜茹での瞬間の所業はいつもこの私へのメッセージ(伝えたいこと)と受け止めたいものです。
釜茹での暑さを思うよりも、己の自己中心性に生きる罪深い姿に冷や汗が出ます。