月別アーカイブ: 2012年9月

プラハにて(1)

プラハに来ています。プラハは中世の佇まいを色濃く残した街で、ある意味では古いヨーロッパの街をそのまま現前に見せてくれるような感じがします。旧市街の中心のヴァーツラフ広場に面した所にホテルを取りましたが、ムーステクからムゼウムまでの通りはまるで中世のような建物が新しい建物とマッチして残っていました。ある本に次のように書いてありやや納得しました。 「多くの人々をこれだけ惹きつけるプラハはほどよい大きさの規模の中に歴史、文化、芸術が凝縮しています。その歴史はヨーロッパの歴史そのものであり、その文化・芸術はヨーロッパ全体の文化であり、芸術です。かつてプラハが神聖ローマ帝国の首都となった時に、ここにヨーロッパの粋を極めた文化・芸術がもたらされました。・・・ プラハに来るたびに思うことがあります。それはヨーロッパの中央にあって何世紀もの間に幾つもの大きな戦争に巻き込まれたのにもかかわらず、この町はなぜこのような歴史的景観を今日まで保つことができたのかということです。 第二次世界大戦ではナチス・ドイツに占領され、その後約四十年間は旧ソ連の影響を色濃く残す社会主義国となりました。第二次世界大戦でドイツ軍が侵攻してきた時も、そして「プラハの春」を弾圧するために旧ソ連軍がプラハ侵攻した時も、チェコ人はあえて思慮深く、静かに抵抗する姿勢を取り続けました。おそらくチェコの人たちは、流血の惨事で美しいプラハを損ないたくなかったからではなでしょうか。」 プラハ歴史散歩 日経BP企画 旅名人編集室 より EADV(European Academy of Dermatology and Venereology)の学会場はムゼウムから地下鉄で2駅めのヴィシェフラというところでしたが、ここはプラハ旧城のあるところで高い城という意味で、プラハ発祥の地だそうです。 いくつもの会場のうちちらっと垣間見ただけですが、その印象を伝えることができるでしょうか。(後で一寸書いてみます。) 屋台で食べた串焼きやソーセージにビルスナー・ビールはとても美味しかったです。フランクフルトから約1時間位の近さですから、ほとんどドイツ文化圏なのでしょうかね。
メイン会場.JPG会場.JPG会場からa.JPG会場からb.JPGヴァーツラフ広場1.JPGヴァーツラフ広場2.JPGヴァーツラフ広場3.JPGヴァーツラフ広場4.JPGヴァーツラフ広場5.JPGプラハの春の2人.JPG塔の上.JPG

しばらくお休みします

明日からしばらくお休みします。申し訳ありません。(10月4日まで) チェコのプラハでヨーロッパ皮膚科学会があり、一寸その空気を吸ってきます。 英語力はからきしないのですが、目でみる皮膚科学ですから雰囲気だけでも何かしら感じ取れればという程度です。 きれいな景色でもあれば写真に撮ってみたいと思います。

アトピー性皮膚炎治療の新たな展開

アトピー性皮膚炎治療の新たな展開――病態知見から得た新事実――
              大阪大学皮膚科  室田 浩之先生
第2部は、新進の研究者による新たなアトピー性皮膚炎の側面を捉えたユニークな講演でした。その概要と印象記を述べます。
アトピーの治療は以下のものが根幹となります。
(1) 悪化因子の除去と対策
(2) 生理機能異常に対するスキンケア
(3) ステロイド外用薬とタクロリムス軟膏の外用療法と抗ヒスタミン薬などの補助療法
(1) の汗に関しては、従来汗は悪化因子で悪者の扱いでしたが、汗は温度調節、自然免疫、保湿など有用な働きを有するなど皮膚の重要な生理機能の一つでもあります。アトピー性皮膚炎では軸索反射性発汗が低下している事、また思春期再燃型アトピー性皮膚炎患者は乏汗傾向にあります。この様な患者に発汗を促す処置、指導をすると皮膚炎が改善する経験を何例か提示しました。このことより、発汗をうながす指導も有用だと考えられたとのことでした。
小生のコメント:アトピー性皮膚炎(Atopic Dermatitis: AD)患者における前向きアンケート調査が九州大学古江増隆教授をまとめ役として全国のアトピー専門大学を中心に行われていますが、その結果では汗で悪化したと考える患者さんは286例(82.7%)で、そのうち14.7%の人は汗をかかないように工夫していました。但し下記のようなコメントもありました。「成人AD においては、外出をしない、運動を制限する、シャワーを使うなどによって汗をかく機会が減ってきた結果として皮膚の乾燥によりかえってAD が悪化するということも考えられる。特に夏にシャワーがよく使われているが、シャワーを浴びた後に角層水分量が減ってしまうので、シャワー後に保湿薬を塗るなどの処置をすべきである」
講演でも触れられていますように、成人AD では乾燥傾向が強いですが、乳児期では脂漏性湿疹の形を取ったり、あせも様の発疹を生じやすく汗が悪化要因になり易いように感じます。そもそもAD は近年一つの疾患ではなく、似たような症状を起こす疾患群だと考えられるようになっていますので、汗で良くなる場合も悪くなる場合もあるのかと思います。
従って一律に汗が絶対だめ、ではなく個別に患者さんの状態をみながら指導する必要性を教わりました。
温度については、「温まると痒い」ことは、患者さんがよく経験する所ですが、演者らはAD病変部からサブスタンスPによって誘導される神経栄養因子の一つであるアーテミンという物質が「温まると痒くなる」現象を起こすことを見出しました。
ただ、これもある皮膚科医で重症のADの先生のコメントに「熱いシャワーを浴びると天にも昇る良い気持である」とありました。温度によっては蕁麻疹もそうですが、却って気持ち良いのかもしれません。但し、その後の皮疹の反動はひどくなるのは必至ですが。痛み刺激が痒みを抑えるように痒みに関しては奥深いものがあるように感じました。
(2) スキンケアはいつから始めるべきかについて検討されました。アトピー素因を持つ新生児に生後1週間前から保湿剤を使用してバリア機能の評価をしたところ有効な結果が得られたとのことです。早くから保湿することが重要なようです。
ただ、これも日焼け止めもそうですが、かぶれに注意が必要なように思いました。
例えば欧米などピーナッツ入りの保湿剤を赤ちゃんに使うケースで経皮感作が成立し、ピーナッツアレルギーが増えた例を紹介しましたが、長期に使う外用剤でのアレルギーには注意が必要だと感じました。

しかし、色々な新しい知見がどんどん積み重なって治療に反映されることは頼もしいことだと感じました。

接触皮膚炎の現況と展望

昨日、新進気鋭の若手皮膚科医のアレルギー関連の講演会2題がありました。丁度アレルギー関連の病気を調べていることもあり、興味を持って参加しました。そこでの情報と印象記です。 「接触皮膚炎の現況と展望」東京医科歯科大学   高山かおる先生 「アトピー性皮膚炎治療の新たな展開――病態知見から得た新事実――」 大阪大学 室田浩之先生 高山先生は日本皮膚科学会での接触皮膚炎ガイドライン作成も担当されており、それを踏まえての講演でした。そのうちの気になったものを何点か挙げます。 1. ケトプロフェンは強い光感作物質ですが、痛み止めの貼り薬にこの物質が入っているものがあります。肌色をしていて貼り易く、露光部には注意と書いてありますがスポーツをした後などに貼って’光かぶれ’をする人が多く見られます。この貼り薬が一般の薬局でも買えるようになり、今後一層患者さんの増加が懸念されるところです。皆様、表示をよく見てから使用しましょう。 2. パラフェニレンジアミン(PPD)は毛染めに含まれる強い感作物質で、時に激しいかぶれ症状を起こしますが、強い真皮の浮腫を伴います。実際に、顔がお岩さんのように腫れる例も経験します。髪の毛の生え際、首など液が流れ落ちた部位に強く症状が現れます。植物、天然の毛染めで大丈夫と思われるヘナにもPPDが含まれる事があり、かぶれることもあります。 3. スギ花粉皮膚炎でも顔がかぶれる事があり、スギ抗原のプリックパッチテストで陽性になりますが、アトピー性皮膚炎の患者さんの3割もの人がこれに該当するとのことです。一見蕁麻疹様の浮腫性の紅斑が特徴です。風が強く雨の後に症状が強くでるそうです。 4. ヒアレインミニ目薬の中のアミノカプロン酸、デスクマットに含まれるTCMSP これらは抗菌剤ですが、アレルギーの原因にもなります。生薬入りのシャンプー、キュレル、ホホバオイルによる接触皮膚炎、ラワン材の鍬によるものなどの紹介もありました。小生のホームページにも書きましたが、さまざまな思わぬ物質にアレルギーとなることがあります。 5. 金属アレルギー、特に全身性金属アレルギーは近年報告が増えており問題になっています。ホームページにも書きましたが、異汗性湿疹、掌蹠膿疱症の原因にもなることもあり、食事性の場合もあります。但し、パッチテスト陽性といっても歯科金属の除去などの評価・適応、原因の特定、臨床の評価など専門的な知識が必要で、何でも歯を抜けば良いというわけでもありません。 6. 歯科従事者のメタクリルレジンアレルギーも問題になっています。この物質は手袋を通過するので厄介です。歯科金属アレルギーが重要視されるようになるとともに、これからはレジン、チタンのアレルギーの問題も注意深く見守る必要性がありそうです。
湿疹は皮膚科の外来で最も頻度の多い病気ですが、慢性の湿疹の中で原因物質がはっきりしているものを接触皮膚炎と言います。この原因物質を推定して特定し、その原因を取り除くことができれば治癒できる病気です。 それゆえにパッチテストでの原因の特定は重要ですが、実地診療では困難なこともあります。
長くなるので、今回は第1部の接触皮膚炎のみのレポートとしました。

あの頃の丹沢

奥秩父で山に目覚めた後は、丹沢に足繁く通うようになりました。多分、小生より上の世代の「山や」は丹沢で修業し、谷川岳、穂高滝谷へと進んで(はまって)いくコースを辿った人が多いようです。
その前例に倣ったわけではないと思うのですが、小生もお決まりのコースを辿りました。
都心から近く多くの峰々や森や草原や谷があり、沢登り、岩の練習、ボッカの練習などができ、夜行日帰りに最適で、気軽に行けるロケーションがお気に入りでした。
1971年の記録をみると(あの頃は真面目に記録していたのだなーと我ながら感心しますが、その後は記録も記憶も次第に不鮮明になっていきます。)丹沢オンリーです。
最初が、金峰山に連れて行ってくれた仲間の一人H氏との登山でした。
大倉尾根~蛭ケ岳~熊木沢~ユーシンとなっています。ほとんど薄れた記憶の中で大倉尾根からみえた秦野の夜景がとてもきれいで印象的だったのを思い出します。
その後、表尾根~蛭ケ岳~原小屋~東野へと初めて単独で歩を進めました。友人を誘って表尾根~蛭ケ岳~檜洞丸~石柵~中川へも懐かしい思い出です。一緒に写真に写っている友人はその後若くして癌でなくなりました。遠い昔の思い出・・・。
そして、講習会で鍋割山。
その後は次第に水無川周辺に足が向くようになりました。金峰山で知り合った仲間達と沢登りをしているうちに岩登りのまねごとなどもやるようになっていきました。水無川流域には手ごろな沢がいくつもあり、本谷をはじめ新茅沢、モミソ沢、セドノ沢、源次郎沢などで遊んだものでした。金峰山で知り合った人が倉見山荘の小屋番をしていて週末よく泊りにいった一時期がありました。大倉から暗い夜道を歩いたり、その後は車で直接行ったりしました。山腹の小さな山小屋なので小屋番以外誰もいないことがよくありました。行くと「藪医者、よく来たな」と歓迎してくれたものでした。当時まだ医学生だったので藪でも医者と言ってもらえたのは褒め言葉だったのでしょう。
薄暗いランプの灯の下で谷川岳はすごいんだぞ、一の倉沢南稜なんかこんなだぞ、などと本や写真をみせてくれたりいろいろ山の話を語ってくれたのを懐かしく思い出します。今思うとやや大げさな人でしたがそんなすごい所を自分も登りたいなと思ったものでした。
丹沢集中山行で、セドノ沢で I さんが滝から転落し、金峰小屋の林袈裟夫さんが担架を作り救出してくれたのもその頃でした。
モミソ沢の入り口の岩場で遊んだり、梅雨時の本谷で流されそうになったり、沢の入り口辺りをうろうろすることが多くなり、真面目に頂上までいかない日々でした。
その後岩登りの山岳会に入り、冬の本谷、西丹沢の氷瀑なども行きましたが、次第に丹沢から足が遠ざかっていきました。
数十年振りに車で本谷出合いを訪れると、賑やかだった人々との触れ合いも思い出されました。塔ノ岳に登るだけでも結構息切れがしてしんどい思いでしたが、やはり間近にみる富士山はいいものでした。

中原寺メール9/20

【住職閑話】~スマイルアゲイン~
 人間はちょっとしたことで感傷的になるものですね
いつまでも残暑が続いて、最近はかなり体力の衰えを意識せざるをえません。
運動不足だからと思いもしますが、すぐ疲れやすく居眠りをします。雑音のしない静かな時間を独り過ごしたいと気持ちがマイナーになるのは年寄りになった証拠でしょうか。
 元気なお年寄りを見ると自分がちっぽけに見えてくるし、時代に置いてきぼりをされるような淋しさが襲ってきます。
 「友がみな、われよりえらく見ゆる日よ、花を買い来て妻としたしむ」
こんな石川啄木の詩に共感を覚えます。
そんな折、今年の夏の子ども合宿の最後にみんなが歌った「smⅰle agaⅰn」があらためて思い出され、何度もこのCDを聴いて涙ぐんでしまいました。
 少年少女の合唱曲とその歌詞がなんともすばらしいのです。以下がその詩です。
ご存知のかたは口ずさんでください。知らないかたは是非CDを聴いてみてください。

 『自分がとてつもなく ちっぽけに見えることがあるよね
  自分だけが悪者みたいに 思えるときがあるよね
  もう二度と心から 笑えなくなるんじゃないかと
  怖くなるくらい 悲しくなることがあるよね
   あしたになって 空が晴れたら
   自分を好きになって また歩き始めようよ
  【smaile again smaile again
  うつむかないで
  smaile again smaile again
  笑って見せて
  smaile again smaile again
  どんなあなたもみんな好きだから】
     ※くりかえし
  
  やさしい言葉なんて 役に立たないことがあるよね
  自分だけがたたかわなくちゃ いけないときがあるよね
  つらいことのりこえて いつか見えてくるものがあるよ
  そしたらあなたは 今よりきっとすてきになってる
   あしたになって 空が晴れたら
   自分を好きになって また歩き始めようよ』
      ※くりかえし

 先日、ある極度の状態におかれている女性とこのCDを聴きながら一緒に涙してしまいました。
メランコリーの秋ですね。

宮岡育人・恵組の現役引退披露晩餐会

昨日ラテン・ダンサー宮岡育人・恵組の現役引退披露晩餐会がヒルトン東京ベイで開催されました。それに参列する機会がありましたのでそのレポートを。
宮岡選手は10代の頃に、彗星のごとくに現れていきなり全英選手権でめざましい成績をあげ、プロに転向し、1年後にはA級に昇級するなど若くから活躍し続けたラテン・ダンサーです。しかも千葉の地でプロ・アマチュアの後進を育て続けてきました。将に千葉県においてはラテン・ダンサーの第一人者といっても過言ではないでしょう。
それでもやはり、引退ということはプロの宿命でついにこの日を迎えたのでした。
当日は日本のダンス界のOB、現役の錚々たるメンバーが集まり、彼らの引退を名残惜しみ、晩餐会に花を添えました。めったに見られないような豪華な素敵なパーティーでした。
歴代のチャンピオン、柳橋慎太郎・久美子組、大村淳毅・和田 恵組、桧山浩治・公美子組、北条 明・須田雅美組のデモ出演といえばダンス愛好家ならば垂涎のメンバーかと思います。柳橋組のお客さんを楽しませるエンターテイナーとしての踊り、桧山組の雄大なイングリッシュ・スタイルの正統的な踊りには相変らす魅了されました。北条組、大村組の特に女性達の妖艶かつストロングな踊りは現役そのもののようでした。
また宮岡組の大の仲良しという、家泉尚樹・朋美組のスローも引退したにもかかわらず更に魅力的な踊りにみえました。
このメンバーだけでも満足ですが、更に現役のファイナリストも名を連ねていました。
スタンダードの新鞍貴浩・中田裕希子組、本池 淳・武藤法子組、ラテンの金光進陪・吉田奈津子組、西島鉱治・向高明日美組、瀬底正太・原 静組の豪華な顔ぶれです。
その他に名だたるA級ダンサー達がフォーメーションを踊ってくれるなど一寸見たこともないような趣向でした。
宮岡組の長年に亘って培ってきた人脈と名選手会長をも務めた実績の賜物なのでしょう。本人も人脈の豊富さはテレながらも一寸自慢していました。
しかし、ここまで歩んで来られたのは自分たちをサポートしてくれた人たちのおかげだと、来場の皆様への感謝の言葉を述べていました。それにも増してスタッフが支えてくれたからと、感極まってのスタッフへの熱い気持ちが伝わってきました。それでも、ここまで来れたのはパートナーであり、妻でもある恵と出会ったからと述べていましたが、まさにその通りだと思いました。(本当に素敵でダンスのうまい恵先生のファンの一人として)
引退のダンス・ショーには2003年全日本セグエ選手権で踊った「ミス・サイゴン」を再び披露してくれました。セグエはその年のトップダンサー達だけの競演の場だそうです。
そして、晩餐会の最後は白いドレスに包まれてしっとりとした素晴らしいルンバを披露して長い現役生活に別れを告げました。
目くるめくようなトッププロ達のダンスの素晴らしいひと時を堪能しました。
宮岡組の長い競技生活にご苦労さま、そしてこれからも素晴らしいダンス人生を。
そして、彼をダンス人生への導き、今や日本のジュニア・ジュブナイルダンス界の名伯楽として幾多のダンサーを育てつつあるお父さんと共に益々のご活躍を。

食物による口腔アレルギー症候群

成人の食物アレルギーは乳児期の消化管アレルギーや、アトピー性皮膚炎に伴うものが減少し、じんましん・アナフィラキシーの型、食物依存性運動誘発アナフィラキシー(food-dependent exercise-induced anaphylaxis: FDEIA)や花粉との交叉反応で発症する口腔アレルギー症候群(oral allergy syndrome: OAS)が主体になってきます。
今回はこの中で、OASを取り上げてまとめてみたいと思います。
OASとは食物を食べた後すぐに(数分から1時間以内)口腔内の違和感、痒み、唇、舌、口蓋腫脹などの局所の症状が現れ、ひどくなると蕁麻疹や喘息、更にはアナフィラキシーなどの全身症状まで発展しうる食物アレルギーです。それにはIgEが関与しています。
口腔症状によって診断されるので、複数の機序によるものが混在しています。すなわち、上記のタイプの全ての型でOASの症状を取りうるのですが、最も典型的なものは、花粉との交叉反応で起こる植物性食品によるものです。
それで、最近はこのタイプのアレルギーを花粉・食物アレルギー症候群(pollen-food allergy syndrome: PFAS)と呼び、狭義のOASとみなしているようです。
PFASのアレルゲン(抗原)は、感染防御、構造、種子保存など植物の根源的に重要な蛋白質に属しているために、色々な植物に共通した蛋白質だそうです。
このためにある種の花粉や、ゴムノキ(ラテックス)のアレルギーになると、それに交叉過敏性をもつ食物でOASを生じることになります。
花粉の中で、最もOASを起こしやすいのがシラカンバ、カバノキ、ハンノ木とされます。抗原としてBet v 1関連蛋白質とプロフィリンという蛋白質群が同定されていますが、これらは花粉だけでなく種々の野菜、果物などにも重要な蛋白質として含まれています。
それでシラカンバ、ハンノ木の花粉アレルギーの凡そ10%の人にOASが発症するとされています。
シラカンバと交叉過敏するのはバラ科植物が多く、リンゴ、モモ、サクランボ、イチゴ、ウメ、ナシ、ビワ、アーモンドなどが含まれます。ただ、それ以外にもセリ科やキウイなど多くの食物でも交叉過敏を起こすとされます。
スギやイネ科、ブタクサもそれぞれに交叉過敏する食品がありますが、頻度はシラカンバなどより少ないようです。
またラテックスはバナナ、キウイ、クリ、アボガド、ソバなどと交叉過敏を起こすので注意が必要です。
実はこのOASについては、書いていて非常に実感があります。
というのは、自分自身だいぶ前に花粉症になったのですが、スギの時期と一寸ずれていました。そしてスイス旅行の際にやたら花粉症がひどくなって、バスの中でもう一人のおばさんと二人して盛んにくしゃみをしていたのを思い出します。その後しばらくしてからサクランボを食べた後、口の中がやたら痒くなって、いがらっぽい感じになったことがありました。たまたまかと思ってまた食べたらまた同じことが起き、これはだめだと思いましたが、花粉との関連は知らずにいました。その後ビワがダメになり、ナシも種類によって口の中が痒くなりリンゴもモモもメロンも一寸変な時がありました。教本をみると将に典型的な花粉・食物アレルギー症候群です。医学の研究は大したものだな、と妙に納得したものです。小難しいアレルギー理論も実地に経験すると成程と思えます。
これから先、フルーツパーラーなどとはご縁がなくなるのかと残念な気持ちですが、この抗原は3次元構造がエピトープ(抗原決定基)になることが多いために熱や消化酵素で失活するとのことです。
それ故に一般に口腔症状のみの症状に留まることが多いのと、温めたり加工した食物なら大丈夫らしい点がせめてもの救いです。
PFASの治療の原則は原因食物の除去が中心です。しかし、欧米を中心に免疫療法による根治療法が試みられているとのことです。ただ、本邦ではシラカンバ標準化エキスが市販されていないこと、標準治療法が決定していないこと、アレルギーを誘発しうることなどもあり、まだ一般的ではありません。ただ、急速特異的免疫療法を施行して軽快したPFASの症例もあるとのことで、今後の経口免疫療法に期待したい所です。

参考文献
猪俣直子、相原道子:成人の食物アレルギーの特徴、原因食物、自然史.
Visual Dermatology 11:272,2012

岡本義久:pollen-food allergy syndrome の免疫療法は可能か?
     Visual Dermatology 11:296,2012

西村景子、佐野晶代、松永佳代子: 多種類の野菜・果物に症状を呈した花粉・食物アレルギー症候群の1例. Visual Dermatology 11:300,2012

あたらしい皮膚科学

「あたらしい皮膚科学」 第2版  清水 宏 著

北海道大学皮膚科教授、清水 宏 教授の講演がありました。
教授の医学に志した学生の頃から、皮膚科教授になり、皮膚科の教科書を著し、更に日本で比類のない、英文の教科書を著すまでの皮膚科医としての道程を情熱を込めて話されました。
1978年まだ大学生だった時に、南米医学派遣団を結成して南米を回り、国内では見ることのないさまざまな皮膚病に触れて、皮膚科を志したとのことでした。写真でみる皮膚病は重症の感染症、水疱症などインパクトのあるものでした。「一度経験した症例は一生忘れない」と述べていましたが、重度の先天性表皮水疱症など将にその後の教授のライフワークとなり、世界にその名を轟かせる発見の原点ともいえる症例でした。
「僕らの始めた派遣団はいまだに続いているのですよ」との言葉通り、慶応義塾大学医学部国際医学研究会第34次南米派遣団のお知らせがネットに出ていました。
教授の教科書は学生に人気があり、第1版の「あたらしい皮膚科学」は3万部もの増版を重ねたそうです。その後英語版も出し、最近全面的に改定して第2版を上梓したとのことです。11万枚の写真から厳選して550枚の写真を差し替えたということです。
近年、特にこの10年皮膚科学の進歩は目覚ましいものがあります。分子生物学の長足の発展はコンピューターの発展と呼応して医学分野でも新発見が相次ぎました。特に皮膚の表皮基底層部の構造が分子、蛋白質レベルで分かるようになり、水疱症を始めとした皮膚病の病因、名前、分類項目までも変わってきました。古典的な教科書に比べ先生の教科書はその斬新な情報も多く取り入れているとのことです。そして英語版と共に、ウェブサイトでも無料で閲覧することができるなど画期的な教本です。(残念ながら、臨床写真は買わないとみることができませんが)。医学生、皮膚科医を対象とした本ですので、一般の人には無縁のようですが、自分の皮膚病の調べなどがしたい時など有用かもしれません。
それで、小生のホームページでも簡単に見られるようにリンク先に北大のページを入れました。(作業の都合上、クリックしても数日はリンク先がでないかと思いますが、数日内に完了させる予定です)。

グリンデルワルトからアイガー

アルプスの三つの壁  アンデレル・ヘックマイヤー著  長越 茂雄 訳
アルプスの3大北壁といえば、マッターホルン、アイガー、グランド・ジョラスであまりにも有名であるが、これらは1930年代に立て続けに初登攀された。幾多の人々がこれに関わっていて、栄光と悲劇のドラマが繰り広げられたが、アンデレル・ヘックマイヤーもその中の一人であり、中心的な人物であろう。  その当時の生々しいドラマを語ってくれているのがこの本だが、特に彼がザイルのトップとして始終リードして勝ち得たアイガーの初登攀の記録は圧巻である。ドイツ人である彼は、これらの課題が全てミュンヘン出の登山家の仲間達によって解決されたと述べているが、これはやや贔屓の引き倒しのようである。しかしながら、当時のドイツの若者のエネルギーは大変なものがあったらしい。  彼も「1928年からこのかた、大恐慌による失業がとりわけかれら若者を襲った。かくて、行動への渇望はおさえがたく、彼らは山に向うことになったのだ。」と述べている。一説にはナチス・ドイツがこれらの栄光に対し、金メダルの授与で報いるとの話があり後押ししたとの言もあるが、この本には触れていないし、変に勘ぐることは彼らの山への純粋な情熱に対して失礼かもしれない、しかしそういった時代背景も影響したのかもしれない。 1931年トニーとフランツ・シュミット兄弟がマッターホルン北壁を征服した。彼らもヘックマイヤーの仲間だが秘密にしていたためグランド・ジョラスの壁への挑戦中に聞いて驚愕したと述べている。 数度のグランド・ジョラスの試登も悪天候に阻まれて頓挫していた。 1935年になり、マックス・セドルマイヤーとカール・メーリンガーがアイガー北壁へのアタックを試みたが、第3の雪壁地帯で悪天候のため遭難死してしまった(後年彼らの終焉の地は死のビバークと呼ばれるようになった)。この事件以降ヘックマイヤーの気持ちはアイガーヴァントへ集中していく。 アイガー北壁は3つの部分に分かれている。基部は2200mから2800mで、第2の部分は3400mまでのび、ここに3つの雪壁地帯がある。最後はほぼ垂直に近い壁で3974mの頂上近くまで及んでいるという(この中に蜘蛛と呼ばれる雪壁帯がはめ込まれている)。 翌年は前年の悲劇にもかかわらず、壁の下には複数のパーティーが集合していた。ドイツ人のアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツ、オーストリア人のエディー・ライナーとヴィリー・アンゲラーであった。彼らは別々に登り始めたが、壁の途中で一隊に合体した。氷雪技術のない彼らの進みは遅々として、しかもアンゲラーは落石で頭部を負傷した。2晩のビバークの後、退却を始めた。落石の危険地帯を経ながら下降しずぶぬれの3晩目のビバークを強いられた。第1雪田まで下降したが、垂壁の赤い壁に行く手を遮られた。登りにトラバースに使ったザイルを回収したため(後にヒンターシュトイサー・トラバースと呼ばれる)トラバースルートも戻れなくなってしまった。アイガー鉄道の坑道のトンネルすぐ近く救助隊の声の届く所まで下降しながら3名は落石に打たれ亡くなった。唯一壁に張り付いて生き残ったトニーは嵐の夜を生き延びて、救助隊からの援助を受けわずか3mの所まで近づいた。しかしながら凍った手で、さらには歯でもザイルの結び目がカラビナを通らず、もがいているうちに雪と突風にあおられて息絶えた。ガイド達は「結び目を通せ。そうすりゃ助かるんだぞ」と励まし続けたという。 1938年は問題の解決の年となった。この年もルードヴィッヒ・フェルクとヘックマイヤーのパーティーとフリッツ・カスパレクとハインリッヒ・ハーラーのオーストリアのパーティーが別々に北壁に取り着いた。6名もが集中した壁から一旦麓に戻ったヘックマイヤーらは先行者の歩みが遅く、天候も回復しそうなので急ぎ再び追いかけた。12本爪アイゼンを履き、氷雪技術に長けたヘックマイヤーは第3雪田の手前で一日足らずで追いついた。先行パーティーの作った足場のおかげだ。追い抜こうとした彼だったが、お人よしのフェルクは一つのザイルパーティーになることを提案した。荷物は分担できたし、オーストリアパーティーは下降ルートを知っていた。第3雪田を左に行き、傾斜路(ランペ)に取り着いた。ランペは大きなチムニー状のクーロアールだった。そこでビバークした。高度3400mだった。その上方は垂直のチムニーになっており、出口は氷のオーバーハングで覆われていた。空身になったヘックマイヤーはそれに挑み、ハングで宙ぶらりんになりながらも何とかそこを突破した。このピッチが登攀の最難関だったと述懐している。そこからザイルを10回以上伸ばして2時間以上かけて右方へ岩屑の細いバンドを辿って(神々のトラバース)「蜘蛛」に至った。蜘蛛で表層雪崩に会い、カスパレクは手に負傷した。その上のクラック帯で再びビバークした。この時の様相をクライネ・シャイデックの新聞記者がレポートしている。「4時半、我々の頭上に水の竜巻が襲いかかった。皆の恐怖の叫び声が起こった。壁をみよ!巨大な滝が壁の全体を覆い落下している。泡立つ水煙をたてた激流がクーロワールに溢れた。・・・彼らは果たして耐えられるだろうか?」。ヘックマイヤーはこの上のクーロワールのオーバーハングで墜落しながらも正午に最後のクーロワールを抜け北壁を征服した。1時間後に最後のカスパレクも抜け出した。しかし暴風雪は次第に激しくなり頂上に到達したのは午後3時半であった。雪と氷の張り着いた西稜を下ったが、ハーラーらは数日前に下ってルートを知っていた。ほとんどパーティーのラストを務め、神経も体力も消耗していないハーラーが指揮をとった。壁で墜落し、足を痛め、消耗したヘックマイヤーは後に従った。麓に下りるとこの初登攀に大騒ぎになっていた。 彼らはこの登攀に引き続いて長年の懸案であったグランド・ジョラスの北壁に向かう予定であったが、イタリアの新鋭のリカルド・カシンらが彼らのアイガーの成功から数日後にジョラス北壁を征服した。(偉大なカシンの物語についてはいずれ書こうと思います) ヘックマイヤーも1951年グランド・ジョラス北壁の第8登を成し遂げた。アイガーを征服しても、その困難さはアイガーをも凌ぐといわれるグランド・ジョラスは常に念頭にあった。そしてその制覇には悪天のために4日間かかった。やはりジョラスは最高度の困難さ、試練を彼らに与えた。  
こうしてアイガー北壁は征服されたが、日本人の登場は1965年まで待たなければならなかった。そして残念なことに栄光となるべき高田光政の日本人初登攀はザイルパートナー渡部恒明の墜死という悲劇の代償をもってなされた。山など知らなかった小生でも当時の新聞記事の記憶があるほど社会に衝撃を与えた事件だった。その顛末は「登頂あと300」という高田光政の著書に詳述されている。
たった1週間前に、芳野満彦と共に日本人でマッターホルン初登攀という成果を引っ提げてやってきた渡辺恒明は高田光政とアイガーに挑んだ。(芳野はマッターホルンで足を痛めサポートにまわった。)
その年の夏は天候不順で、普通登山靴で登る所も氷が張り、最初からアイゼンをつけっぱなしだったという。順調に下部岩壁を登り、ヒンターシュトイサー・トラバースもこなした。しばらく登り「ツバメの巣」でビバークした。氷雪をカッティングしても、やっと2人腰を下ろせる位の場所だった。翌日は氷の第一雪田、氷の管、第二雪田と進んだ。例年になく氷雪が多く困難だった。渡部は昨年にすでにここまで登り、敗退していた。今度こそはと闘志は漲っていた。午後2時25分、死のビバーク到着。第3雪田を経てランペのカミーンでビバーク。途中でかぶった流水のためずぶ濡れ、雷のあと雪が降り零下10度の寒気に苛まれる。翌日、北壁は真っ白い雪に覆われていた。進退を迷ったが頂上まであと570m、登攀続行を決めた。ランペの上部は6級の困難さを持つが、氷雪に武装されてさらに最悪の状態になっていた。ようやくそこを抜けて神々のトラバースにさしかかったが、やはり雪に埋まって通常のルートはとれず、上部をトラバースし始めた。ここで高田がスリップし30m落下した。肋骨、腰を強打してビバークを余儀なくされた。撤退か、頂上への生還に賭けるかぎりぎりの選択を迫られたが、トップを渡部が務めて高田が後続していくことに決めた。硬い氷雪の上に積もった雪を払いながら蜘蛛を登った。トップの渡部は次第に疲労の色を深めていた。足場の氷が欠けて、高田にぶつかりながら10数mスリップした。最後の難場の頂上への割れ目に達した。カミーンのリングハーケンのある場所で直登するか、左にトラバースするかで2人の意見が割れた。渡部はハラーの「白い蜘蛛」の切り抜きを見ながらこれはミスプリントだとして左にトラバースを始めた。高田は直登が正しいと反対意見を述べたが、トップはトラバースしていった。岩の状態が悪いといいながらトップはオーバーバングの向こう側に消えていった。しばらくして「落ちる」という声と共に渡部が墜落した。にぎっていたザイルに電流のような衝撃が走り、ザイルがピーンと張った。しばらく何の応答もなかったが、必死の思いで3m位ザイルをたぐりよせると渡部が岩場に取り着いたらしく重みが軽くなり、姿が見えてきた、岩場の割れ目に身を横たえた。
時計を見ると午後5時だった。多分突出した岩場でバウンドして、一呼吸あって雪の斜面を滑落したので、ザイルを手繰り寄せ、自分も引き込まれずに止めることができたのだろう、と思われた。渡部は呻くような声で「ここは滝谷か」と聞いてきた。多分意識も朦朧としているのだろう。ザイルは1本しかない。発見されるまでここで待つか、一刻も早く下山して救助を求めるか、判断を迫られた。時間は6時を過ぎた。日没まであと2時間。救助を求めて必死の単独登攀に賭けることにした。「おーい、渡部くん。2日待ってくれ」「2日は持たない」そう返事があったがもう決断しなければならない、コンロ、燃料、食料、ビバーク用の荷物を全て残して補助ザイルで下ろした。彼は何も言わなかったが、下がってきた荷物を手元に置くのが見えた。「いいか、そこから決して動くな」と言い残して北壁に向かった。装備はアイスバイル、アイスメス、ハンマーをと補助ザイル1本のみだった。もう自分の運命に賭けるしかないと思った。ただ、国内でも単独登攀の経験があり、元々単独でのアイガー登攀を目指してきた自信のみが支えだった。脆い岩くずの急斜面を登り、屋根のような岩の脆い凸面にぶつかった。確保の手段もなく、手と足しか頼るものはなかった。落ちれば即、死。しかし、そこしか行く手はなかった。必死で越えて氷雪の岩を登り、午後8時過ぎに稜線に達した。ミッテルレギ山稜を登った。暗くなった岩稜で懐中電灯のスイッチを入れたが、なんと電気がつかなかった。一瞬ビバークを考えたが、一刻も待てない友のことを思いだした。雪あかりと、両手両足の感覚でなんとか行動できるはずだ、と思い直し一歩一歩進み9時過ぎにピークに立った。すぐさま西壁を降り始めた。以前偵察で登っていたのが手助けになった。岩に前向きになりながら、手探り、足場を探りながらそろそろと降りていった。睡魔に襲われながら、極度の興奮状態にあった。朦朧としてクレバスを避けながらふらつきながら降りていった。突然明るい光が前方に現れた。アイガーグレッチャー駅だった。3時半、いくら大声を張り上げても誰も出てこなかった。アイガーグレッチャーホテルのドアをどんどん叩いたが誰も応答がなかった。夢遊病者みたいに次の駅まで歩いた。クライネシャイデックホテルまで歩いてドアを大きく叩いたが、返答はなかった。さらに1時間程歩き日本人の登山隊が泊まっているアルピグレンホテルにたどり着き遭難を告げた。5時半だった。地元の救助隊が編成されたが悪天ですぐには動けなかった。1日たち、翌日アイガー北壁の基部に横たわって死んでいる渡部が発見された。彼は自分の確保を外して動きだしたらしい。登ろうとしたのか、もがいて間違って墜落したのかわからない。
後で、高田は現地や日本の報道陣からいろいろ質問され、彼の行動に批判的な意見もあったという。しかし、その行動をつぶさにみれば賞賛されることはあっても批難されることはないと思う。ただ、2人の登攀続行の判断には批判もあるかもしれない。
その後も幾多の栄光と悲劇の舞台となったアイガー北壁は現代においてもマッターホルンと共に最も日本で最も有名なアルプスの岩壁であり続けている。
アイガー北壁

アイガー北壁