月別アーカイブ: 2013年11月

肝斑

境界の明瞭な淡褐色から褐色の色素斑が、頬骨を中心とした顔面に左右対称性に生じます。
色素斑は眼瞼部が抜けるのが特徴で、この部分に色素があるのは太田母斑や、真皮メラノーシスの可能性が高いとされます。
【名称について】
肝斑の名前の由来は頬骨部を中心に線状、弓状、三日月型にみえることによるそうです。
下が円い三日月型は肝臓の型に似ているので、肝斑とされたそうですが、これは肝臓が悪いわけではありません。英語では肝斑のことをmelasma, chloasmaと呼びますが肝臓の意味合いはありません。
Melasとはギリシャ語でblackという意味合いだそうで、それに由来しています。またchloazeinとは緑色であることを意味するそうですが、肝斑はメラニン色素によって茶褐色斑を呈することよりmelasmaが主に使われています。
 肝斑は妊娠時に増悪することが多いために、欧米ではmask of pregnancyとも呼ばれています。
これとは別に老人性色素斑が手背にできたものを、liver spotというそうですが、これも当初肝臓機能が悪いためと誤解されてつけられ、後には肝臓の色に似ているからとされたそうです。
 いずれにしても、肝臓とは直接関係がないのに(肝機能障害が悪化因子という場合もありますが)、肝斑という名称は一寸誤解を招くような印象を受けます。
【臨床症状】
20歳から40歳代の妊娠可能な年代の女性に多くみられ、男女比は本邦で1:14、海外では1:9とのことです。また肌色の濃い人々に多く、Fitzpatrickのskin type IV, V , VIに多くみられます。
スキンタイプ
I  常にサンバーン、サンタンは無い
II  常にサンバーン、軽度のサンタン
III  時にサンバーン、常にサンタン
IV  サンバーンは無い、常にサンタン
V  茶色の皮膚色
VI 黒い皮膚色

顔面に生じる部位によって3型に分けられます。
1) centrofacial (顔面中央型:頬、前額、鼻背、上口唇、顎)63%
2) malar(頬骨型:頬、鼻背) 21%
3) mandibular(下顎型:下顎)16%
(%は Fitzpatrickの教本による。)
顔面の左右対称の部位に生じる色素斑で地図状を呈し境界は明瞭で、辺縁は不整形です。最初に述べたように眼瞼部を避けるのが特徴です。前胸部や前腕の伸側にも生じることもあるそうです。
【原因・悪化因子】
肝斑の原因については、よく分かっていません。ただ、遺伝的な因子に加えて、性ホルモンの影響、それに最も影響の強いのが紫外線ということは分かっています。
それに加えて様々な悪化、誘発因子が挙げられています。
◆紫外線:
発症要因としても、悪化要因としても真っ先に挙げられている程、最大の増悪因子といえます。春先に発症、悪化する人がほとんどで、患者全員が紫外線による悪化を認識しているといいます。
治療効果も、紫外線による悪化や、季節による自然軽快を勘案しないと正確な判断ができません。
◆エストロゲン(卵胞ホルモン、女性ホルモン)、プロゲステロン(黄体ホルモン)
皮膚には広くエストロゲン受容体が存在しています。(毛包、脂腺などや線維芽細胞や色素細胞などにも)。エストロゲンは美人ホルモンとも呼ばれ、肌をすべすべにして、髪に張りを持たせ、気力も充実させます。ニキビも減少させます。しかし、また好ましくない作用もあります。妊娠中のエストリオールの上昇で血管拡張や、手掌紅斑や、色素増加がみられます。(妊娠中はニキビはエストロゲンの上昇にもかかわらず、プロゲステロンがさらに上昇するため、そのアンドロゲン作用によって悪化します。)
肝斑も妊娠中や、エストロゲンの多い経口避妊薬や、卵巣腫瘍などで増悪します。それで、mask of pregnancyとも言われます。同時に黒子や、乳房や外陰部の色素も濃くなります。プロゲステロンもメラノサイトの活性化を促進する作用がありますが、妊娠中は高値を保ち、肝斑の増悪の原因となります。
◆その他の悪化因子
抗生剤、抗けいれん剤、光毒性、光アレルギー性薬剤、化粧品類も悪化因子になるとされます。しかし、これらは湿疹の後の炎症後色素沈着とも重なり得ます。
【病理組織およびその他の検査】
欧米の教本では、表皮型、真皮型、その混合型の3型に分けてあるものが多いですが、真皮型は後に述べる「真皮メラノサイトーシス」と同一の病態を指しているものと考えられます。また混合型もRiehl黒皮症など肝斑とは別の病態とも考えられるとのことです。
少なくとも本邦では肝斑は表皮型のみとするコンセンサスが得られています。
これを厳密に分けるのは、病態が異なることと、それぞれに治療方法、予後、経過が異なることも関係するかと思います。
それで、以下は表皮型の組織所見です。

表皮基底層のメラノサイト(色素細胞)の数の増加はありませんが、
一個当たりのサイズの増大、周囲のケラチノサイト(有棘細胞)へのメラニンの受け渡しが増大しています。そして、表皮全層のメラニンの含量が増えています。
真皮には光線性弾性繊維変性と少数のメラノファージが見られます。
【鑑別診断】
◆炎症後色素沈着( Post Inflammatory Hyperpigmentation : PIH) 
分布、色調とも炎症後色素沈着と肝斑は区別がつきにくい時がありますが、肝斑ではメラニン色素は表皮全層に亘りみられ、角層にも見られます。これに対し炎症後色素沈着では表皮基底層にのみメラニン色素を認めるとのことです。また真皮のメラノファージは多くみられます。
確実に区別するためには、皮膚を少量切除して検査する病理組織所見が有用ですが、侵襲的で顔を傷つけることになるため気軽に行えません。
 色調は肝斑が褐色調なのに対し、PIHでは青灰色、より黒色調となります。
Wood灯は長波長紫外線を出すランプですが、表皮型の肝斑であれば周囲健常部より暗く浮き上がってくっきりとみえます。しかし、これもPIHとの区別はできません。近年では共焦点反射顕微鏡が病態を正確に現わすとのことです。
しかし、これは一般的ではなく高価な機器が必要です。接着性のあるスライドで角層を剥がしMasson染色などのメラニン染色で染め、角層でのメラニン顆粒の有無を調べればこの両者を区別できるそうです。(イスタンブールの肝斑のセッションでやっていました。)

◆真皮メラノサイトーシス
欧米では肝斑の真皮型と呼ばれるものですが、日本では別物として扱われます。(後述)
色調が灰褐色調を帯びていること、境界が肝斑に比べてややシャープでないこと、眼瞼部にも生じること、地図状というより、頬部では数mm大の小型の色素斑として見られることが多いこと、冬場でも肝斑ほど軽快しないこと、Wood灯での所見が違うことなどが鑑別点になります。
正確には病理組織で確認することになります。
【治療】
肝斑の治療を専門にしている美容皮膚科も多くみられますので、教科書的な一般的治療法を述べるに留めます。
基本的に肝斑は軽快・増悪を繰り返す疾患なので根治療法はないということを知っておくことが重要です。
普段の生活上での注意点としては、紫外線が最も大敵ですので、防御することが第1です。
またピルなどの薬剤や、悪化させる化粧品類などにも注意が必要です。強く刺激、マッサージすることはfriction melanosis(摩擦黒皮症)の原因にもなりますので避けるべきです。
<外用療法>
美白剤・・・最も強力な作用、効果のあるものはハイドロキノンですが、高濃度のものを長期間連用すると、ochronosis(丘疹や斑状の褐色色素沈着)を生じることがあります。またハイドロキノンの酸化物はベンゾキノン、水酸化ベンゾキノンに変化することがあり、これはメラニン毒性があり、脱色素斑を形成します。それで、ハイドロキノンの使用は3~4か月程度に留め、一旦休止するのが望ましいです。
その他にも様々な美白剤がありますが、割愛します。
トレチノイン・・・欧米ではハイドロキノンと弱いステロイド剤とトレチノインが混合された外用剤が用いられているようです。(Kligman法)
トレチノインは表皮のターンオーバーを促進し、表皮基底層周辺のメラニンの排出を促進します。表皮のresurfacing効果ともいえます。それで、一時的には表皮の落屑、紅斑などの皮膚炎症状を生じますので、ハイドロキノン単独よりも効果はあるものの、日本人の皮膚では使用に耐えられない人もあるようです。
なお、ステロイド剤の使用については炎症症状は抑えるもののレチノイドの表皮のターンオーバーの亢進や表皮角化細胞の増殖を抑えるために使用しない方が良いともいわれます。
<ケミカルピーリング>
トレチノインで刺激があり、使用に耐えない場合はグリコール酸を用いたレベルI、IIの表皮基底層までの浅いケミカルピーリングが効果的とされます。ハイドロキノンの併用でさらに効果はあがります。
<内服療法>
本邦ではビタミンC、E、トランサミンを組み合わせた内服療法が頻用されます。ただ、トランサミンは欧米では用いられず、血栓性疾患、動脈硬化、心臓疾患の患者には使えませんので注意を要します。
<レーザー療法>
以前は肝斑に対するレーザー療法は禁忌でした。今でも学者によっては禁忌とする人も多いです。しかし、ブログにも書きましたが、レーザートーニングという言葉も言われるようになり、メドライトなどのQスイッチNd:YAGレーザーが発売され肝斑にも有効との報告がでてきました。
照射面がTop-hat Modeといって平らな帽子のようになっていて、低出力のレーザー光がフラットに照射され、表皮基底層部位での熱障害を最小限に留めるために肝斑にも使用できるそうです。しかし、完治させる治療法ではないので継続が必要となります。
 肝斑とSDM(対称性真皮メラノサイトーシス)の区別がつきにくい時は、まずビタミン、トランサミン、ハイドロキノンなどで肝斑のプレトリートメントを行ってから低出力のレーザー治療(レーザートーニング)を行なうことをACP(Aging Complex Pigmentation)治療と称して行っている先生もあります。(山下理恵)
但し、レーザー治療の教本には専門医の下記の言葉が書いてありました。
「肝斑に対するレーザー・光治療はケラチノサイトに存在する多量のメラニン顆粒を取り除くためには一時的には有効であるが、産生したメラニン顆粒をケラチノサイトに転送してしまうため、細胞質内に充分量のメラニン顆粒を含有しないメラノサイトは治療後も生き残る。高出力のレーザーや光照射の刺激により、生き残ったメラノサイトは活発にメラニン顆粒を産生して、治療前よりかえって増悪することがしばしばある。従って、肝斑には高出力かつ不用意にレーザー治療や光照射を行うことは原則禁忌であることは忘れてはならないと考えている。」( 秋田浩孝 スキルアップ皮膚レーザー治療 p58)

参考文献

皮膚科診療カラーアトラス体系 編集/鈴木啓之・神崎 保 Vol.3 色素異常 他
船坂陽子 肝斑 p50-53

スキルアップ皮膚レーザー治療 編著 川田 暁 中外医学社 2011

皮膚科臨床アセット 11 シミと白斑 最新診療ガイド
総編集◎古江増隆 専門編集◎市橋正光 中山書店 2011
新しいシミ治療を展望する:形成外科の立場から   山下理恵  p162

老人性色素斑

老人性色素斑
シミと総称される疾患の中で、最も頻度の高いもので、40歳以降の中高年の顔面、手背、前腕などの露光部に多発する境界明瞭な色素斑です。(渡辺先生の統計では顔のシミ外来の60%ほどを占めていました。)
老人性色素斑(日光黒子)は真っ赤に日焼け(sun burn)するが、色黒(sun tan)にはならない人にはでき易く、逆の人はできにくい傾向にあります。太陽光線によるものが大多数ですが、乾癬などの治療に用いられるPUVA療法などの人工光線によっても生じます。( PUVA lentigo)
形は円形から類円形で色調は淡褐色から黒褐色で、大きさもそばかす様の小さいものから2~3㎝の大きなものまであります。したがって、大きさなどで3種類にわけられます。
小斑型・・・雀卵斑(そばかす)様な数mm大の色素斑が多発したもの
大斑型・・・2~3㎝大の色素斑が少数みられる、小斑型より色が濃く濃淡がみられる
白斑黒皮症型・・・色素斑と色素脱失が混在してみられる
男性より女性にやや多く、50歳台で80%、80歳以上ではほぼ全例にみられます。
【名称について】
日光暴露によることを重視した場合は日光黒子(solar lentigo)とよばれます。また日光性色素斑、老人性黒子などと呼ばれることもあります。しかし、2011年日本美容皮膚科学会において「老人性色素斑」と呼ぶことに統一されたということです。
しかし、20歳代でもみられること、海水浴などで、一気に強く日焼けした後で肩や背中にできる光線性花弁状色素斑も臨床も組織もsolar lentigoと同じであることを考えると個人的には、これらをすべて老人性色素斑と呼ぶことに違和感があります。
【老人性疣贅との異同】
老人性疣贅(いぼ)・(脂漏性角化症)は、皮膚表面から隆起して、ざらざらしているので、老人性色素斑とは区別できますが、この両者は連続してみられることも多く、一連の紫外線による光老化反応とみることもできます。病理組織像も類似の変化もみられ、老人性色素斑は老人性疣贅(とくに網状型)の早期段階の病変と考えられます。
【ダーモスコピー像】
Typical pseudonetwork(定型的偽ネットワーク)・・・開大した毛孔部が色素がつかず、丸く色抜けするために、そこが網穴となる網目状の色素沈着の像が規則的に見られます。
Moth-eaten sign/border(虫食い状辺縁)・・・毛虫に食われたような、木の葉のような境界明瞭な陥入がみられます。
それ以外にも指紋様構造、ゼリー様辺縁、黄色不透明領域などの所見が特徴とされています。
 これが、悪性黒子になると、規則的なネットワークが歪んできます。濃淡を伴い、非対症性の色素性毛孔や、環状顆粒状構造や灰褐色の線条の色素沈着が互いに交差して、菱形構造を呈したり、黒胡椒のような顆粒がみられたりします。ダーモスコピーの写真をみるとネットワークが規則的でないようですが、解答がなくていきなり写真を見せられても良性か悪性か迷う程微妙なものもあり、専門家の判断、最終的には病理組織検査で確定する必要性を感じます。
ダーモスコピーのすべて 皮膚科の新しい診断法 斎田俊明 2012年 南江堂 参照
【病理組織像】
表皮突起が不規則に下方に棍棒状、または蕾状に延長し、表皮基底層にメラニン色素が増加しています。真皮では光老化による光線性弾性繊維症などの変化がみられます。
また、一部では表皮細胞の増殖や肥大がみられ、初期の扁平な脂漏性角化症(老人性疣贅――老人性いぼ)の像をとることもあります。すなわち、老人性色素斑から盛り上がって老人性の疣になっていく一連の像をとることもあります。
【鑑別診断】
小斑型のものは、色素性母斑(黒子)や基底細胞癌と間違われることもあります。またそばかす(雀卵斑)やぱらぱら型の太田母斑と間違われることもあります。
大斑型では、茶あざ(カフェオレ斑や扁平母斑)などと間違われることもありますが、最も注意を要するのは老人の顔面に生じる悪性黒子や悪性黒子型黒色腫です。
特に悪性黒子はLentigo maligna melanoma in situといって、悪性黒色腫の表皮内の初期病変ともいえます。これを間違って、レーザー治療などすると後で大変なことになります。かつて、大原先生の皮膚癌の講演でもそのような事例に対し注意を喚起されていました。ダーモスコピーで鑑別可能ということですが、専門家でないとなかなか難しいところです。概して老人性色素斑よりも色調が濃く、境界不鮮明で色むらがあったり、非対称形ならば注意を要するところです。
【治療】
レーザー治療、液体窒素療法、ケミカルピーリングなどが行われています。
美容専門医の解説が多くありますので、わざわざ書くこともありませんが、いずれも施術後に糜爛、痂皮などを1~2週間生じるなどのダウンタイムがあり、また特に日本人の肌では半分程度に炎症後色素沈着を残すといわれていますので、よく医師に説明を聴いて納得した上で施術をうけることが重要です。また遮光や美白剤などの後療法も必要となってきます。
 上記のようなダウンタイムを嫌う場合はIPLやハイドロキノンやビタミンCなどの美白剤やトレチノインなどが用いられますが完全な消退にはいたらないようです。
 
老人性色素斑は長年に亘る紫外線暴露(光老化)が最大の誘因になるために日焼け止めその他による遮光が予防には一番重要です。
日焼けについては以前書きましたので詳しく書きませんが、UVB(サンバーンを起こす)だけではなく、UVA(サンタンを起こす)対策も必要です。

参考文献

皮膚科臨床アセット 11 シミと白斑 最新診療ガイド
総編集◎古江増隆 専門編集◎市橋正光 2012 中山書店
●総論  シミの定義と頻度・性差・好発年齢  渡辺晋一
    シミ疾患の病態と診断        渡辺晋一
    シミの鑑別診断           渡辺晋一
●各論 老人性色素斑の病態・診断・鑑別診断 山本有紀

皮膚科診療カラーアトラス体系 講談社 2009
編集 鈴木啓之 神崎 保 
Vol.3 色調異常
老人性色素斑 船坂陽子 p55

顔のシミ

イスタンブールの学会の最後の日には、Management of hyperpigmentation(色素増強症の管理)というセッションがあり、肝斑の話やハイドロキノンの話などがありました。流石に色素の話となると講師もインド人やブラジル人などカラードの先生方が多くでてきました。マイアミのAADの時も黒人の講師でした。やはり、シミについては白色人種よりも有色人種の方がなじみが深く、問題も多いのでしょうか。
この分野においては、日本人の活躍もめざましいものがあります。Fitzpatrickの教本の色素増強症の項目をみると、nevus of Ota, nevus of Ito, nevus of Horiなどの名前も見受けられますが、これらは日本人皮膚科医の名前のついた病名です。
例によってこの項目も帰国してから調べてみたレポートです。
 以前千葉県皮膚科医会で帝京大学の渡辺晋一教授がレーザーの話をされました。先生は世界に先駆けて太田母斑をQスイッチルビーレーザーで治療し、治癒しうることを報告された先生です。
Watanabe S, Takahashi H. Treatment of nevus of Ota with Q-switched ruby laser.
N Engl J Med: 331:1745-50.
講演会の後の立ち話の際に顔のシミの話もされていましたが、シミを主訴に受診する患者さんで、結構誤解が多いとの話もされていました。肝斑やそばかすと真皮メラノサイトーシスとの混同、眼の下の「くま」といって受診する人の多くが真皮メラノサイトーシスだったりという具合です。
 かつて、渡辺先生は顔のシミを主訴として来院した患者さんの統計をとったそうです。
多い順に老人性色素斑、両側性太田母斑、脂漏性角化症、肝斑、太田母斑、炎症後色素沈着、色素性母斑、などの順だったそうです。シミといって受診してもこれ程多い(あるいはもっと多い疾患)の寄せ集めということです。当然疾患が異なれば経過、予後、治療方法も異なってきます。
それで、渡辺先生の記述をもとに顔のシミについて調べてみることにしました。
小生にとっては複雑でよく解らない顔のシミです。幾多の美容専門の皮膚科医がネット上で解説される中で、どこまで整理して正確に説明出来るか一寸?ではあります。

野口英世のこと

先日、たまたま点いていた放送大学のテレビから、野口英世の話が聞こえてきました。講師は山本厚子という人でしたが、女性だけあって、野口英世をめぐる女性達の話題もありました。アメリカ人妻、彼の唯一信頼していた研究助手、渡米してからも恋心をもっていた同郷の女性・・・毀誉褒貶に包まれた彼の生涯の実像にもっと触れたくて、山本厚子女史の本をネット購入しました。最近は一寸手に入りにくい本もネットで購入でき便利です。「野口英世は眠らない」という本でした。
 この本を読み人間野口英世をより深く知らされた思いがしました。先に書いた岡本教授との梅毒のことについてのやり取りもあり、一寸書いてみたくなりました。
 野口英世ほど実像と伝記、また語る人による評価のギャップの大きい人も珍しいと思います。子供の頃の伝記は大方「幼い頃のやけどにもめげず、勉励刻苦の末にアメリカに渡り医学に偉大な功績をあげ、世界の人のために黄熱病の研究途上病に斃れた偉人」のような論調でした。しかし、ある時から本やドラマなどで真逆の野口像も伝わってきました。いわく「放蕩者、寸借詐欺、婚約不履行、学歴詐称、研究結果は散々」かつて岡本教授に話した時もそのような情報のみが頭に入っていたのかもしれません。なんでこのように評価の振幅が激しいのだろう、実像はどんな人だったのだろうと梅毒の研究のことも頭にあり、頭の隅にずっとひっかかっていた人でした。しかも2004年からは千円札の表で毎日のようにお目にかかる人です。この本を読み、少し実像に近づけた気がしました。
野口英世の経歴はWikipediaをみると、客観的な事実を年代ごとに追ってみることができます。簡単に列記すると以下のようになります。
1876年(明治9年) 福島県 猪苗代町生まれ
1877年(明治10年) 囲炉裏に落ちて左手にやけど
1892年(明治25年) 会陽医院の渡部鼎により、手の手術.後、同医院の書生となる.
1897年(明治30年) 明治29年に上京し、医術開業後期試験に合格、医師となる.
1898年(明治31年) 北里伝染病研究所に勤務する.(但し、雑用程度で研究はせず)
1901年(明治34年) ペンシルバニア大学フレキシナー博士の助手となり、蛇毒の研究に従事.研究が評価される.(来日時に通訳をした縁をたよりに押しかけ面会をし、強引に置いてもらう)
1904年(明治37年) フレキシナー博士の指示、推薦でロックフェラー医学研究所に移籍する.        
1911年(明治44年) メリー・ロレッタ・ダージスと結婚.蛇毒の研究により京都大学より医学博士号を授与.梅毒スピロヘータの純粋培養に成功と発表.
1913年(大正2年) 梅毒患者の脳組織より梅毒トリポネーマを発見.
1914年(大正3年) 東京大学より理学博士号を授与.ノーベル賞候補に挙がる.
          (1915年、1920年も候補に挙がる)
1915年(大正4年) 一時帰国.帝国学士院より恩賜賞を授与.
1918年(大正7年) 黄熱病の研究要請があり、エクアドルに出向く.
          黄熱病の病原体(レプトスピラ・イクテロイデス)を発見と発表.(1901年のウォルター・リードの濾過性ウイルスとの説との乖離から発表当時より野口説への反論があった).
1923年(大正12年) 野口の黄熱病研究結果への疑問、批判が起こる.
1924年(大正13年) アフリカ・セネガルで黄熱病発生.野口ワクチンが効果を示さず、野口のいうイクテロイデスも見いだせずと報告.
1926年(大正15年) マックス・タイラーが黄熱ウイルスの単離に成功.
1928年(昭和3年) 黄熱病の調査、研究のために西アフリカへ出向き、ガーナのアクラで黄熱病に罹患し同地で客死する.
 
野口英世の性癖のいくつかは、やはり事実のようです。金銭感覚が尋常ではなく、借金を重ねたり、大金を手に入れても遊郭などでの放蕩であっという間に使い果たしたりということは幾度もあったようです。特に彼に目をかけてくれて援助を惜しまなかった高等小学校教頭の小林栄や歯科医の血脇守之助からは幾度も大金の借金をしながら、踏み倒したりしています。ただ、並の寸借詐欺と違い、後年その恩義を忘れずに、血脇がニューヨークに立ち寄った時には1か月もの間、血脇の面倒をみ、米国要人にも紹介したそうです。別れ際に血脇は「君の若い時から、僕は多少君のお世話をしたことがあるが、この度こちらに参って非常に君の世話になった。もうこれで恩を帳消しにしてもらいたい」と述べたそうです。心の父と慕う小林には米国から300余通の手紙を送り続けたそうです。野口の死後、小林は「あのような秀才はなかなか再来しない、あと10年は生かしておきたかった、」と嘆き記念碑を建て、生家を保存する事業の中心となります。並の金銭感覚からはずれていますが、もっと大きな桁外れな倫理規範を持っていたのかもしれません。
 妻メリーのことについては多くを触れてある文献は少ないようです。今回読んだ本の作者はメリーの足跡を追っていろいろと調べたそうです。
アイルランドからの移民で家族は炭鉱で働いていた.ペンシルベニア州スクラントンの出身でニューヨークに出てピアニストを志望していたらしい.昼間は学問に打ち込んでいた野口も夜は異郷の地での孤独を郷里の小林に打ち明け結婚相手の相談までしている.メリーのルームメイトと彼氏の4人は親密になっていった.ある夜酔いのまわった野口が突然結婚しようと切り出した.そして4人は同じアパートに住んだ.メリーは大酒飲みで、普段は優しかったが飲むと粗暴で、家庭的な人ではなかった.2人とも経済観念がなく、浪費家だった.野口は結婚のことを研究所内、日系人などにも秘密にしていた.喧嘩ばかりしていたとの話もあるが、アフリカからの最後の日々、野口はメリー宛に頻繁に愛するメリーと手紙を送っている.
 野口の死後、妻は初めて風采の上がらない夫が偉大な科学の殉教者と知ったようでした。その後はロックフェラー研究所との関係も絶ち、ひっそりとマンハッタンで暮らしたといいます。1947年すっかり老け込んで早く野口の傍に行きたいといっていたという彼女は静かに息を引き取ったそうです。

 野口英世の研究業績の評価については、残念ながら多くのものが否定されていることは事実です。Wikipediaの研究内容と現代の評価をみると、その詳細が客観的に表としてまとめてあります。彼の仕事は「野口英世は眠らない」とロックフェラーでうわさになったほど膨大な実験、光学顕微鏡観察などから得られる病理学、血清学的な研究手法でした。 評価の高いものは、蛇毒による血管内皮の傷害による溶血性変化、数万枚ものスライドから発見したとされる神経梅毒患者の脳標本からの梅毒スピロヘータの発見などです。当時の精神科病棟での入院患者の半数もが神経梅毒の患者だったそうでその原因を突き止めたことは特に高い評価を得ています。特にペルーでは同国の精神医学の発展に大きな貢献をした医学者と高く評価されているそうです。
また南米ではペルー疣とオロヤ熱の病原体が同一のバルトネラ症であることを証明したことも高く評価されています。)(米国では、これらは別物ではないかと疑われていた。)
 逆にある意味最も有名な彼の研究テーマである黄熱病の原因がウイルスであったように、光学顕微鏡でみることのできない、すなわちウイルス関連の疾患についての業績は軒並み後世では否定されています。病理標本を光学顕微鏡で虱潰しにみていく手法ではウイルスはみつかるわけがありません。電子顕微鏡が実用化される前の時代だったことも不幸だったのかもしれません。また一時は最大の業績とされた梅毒スピロヘータの純粋培養も実は非病原性のもので、現代では否定されています。
 幾多の間違いを知りながらもエクアドルをはじめとした南米での野口英世の評価は非常に高いといわれています。それは野口のワクチンによって南米のワイル病の流行が実際に収束したこと、実験機材や顕微鏡などを各地の研究所に供与したこと、オロヤ熱やリーシュマニア病などの熱帯感染症の研究にも取り組み、南米の医学研究を促進し、野口に影響されて南米の医学のリーダー達が多く育っていったなどということも関係しているようです。
 後世の我々が間違った結果を批判することは簡単です。しかし、未知のものを探していく際に完璧、絶対間違わないことなど神様でもない限りありえないでしょう。トップリーダーは羅針盤のない、目的地も解らない大海原へ嵐をものともせずに漕ぎだしていくようなものです。遭難を恐れていてはとても前へ進めないでしょう。
 しかし、今からみれば彼の研究手法は、黄熱病でも指摘されていた濾過性ウイルスの情報を無視したことなどやや強引でスピロヘータに拘りすぎたのかもしれません。彼の助手の一人は「野口先生は日本人らしい几帳面な性格ではなく、実験器具の取り扱い方も不用意だったようです。」とも述べています。ノーベル賞候補にあがり、凱旋帰国した1915年頃が彼の最も油が乗りきって輝いていた頃だったのではないでしょうか。
 最後の数年は研究に邁進しながらも苦悩の日々だったのかもしれません。。1923年頃からは正面きって彼の研究結果への批難がまきおこります。翌年になるとアフリカで発生した黄熱病に対し野口のワクチンは効果がないこと、彼が発見したというイクテロイデスが見つからないという報告が上がってきます。次第にお膝元のロックフェラー医学研究所のラゴス本部でも野口説に否定的な見解をもつ研究者が多くなり、彼はそこを避け、アクラの研究所で現地人などを助手として孤独な研究を続けたといいます。彼自身も自分の研究結果に対し確信が揺らいできたのかもしれません。
アクラでは「皆さん、私は最善を尽くします。その結果については私は何も申せません。私にははっきりした自信がありません。」と挨拶しています。またアフリカ人助手たちに向って「野口の日没だ。おそらく不吉な日没だろう。」などといったともいいます。
野口が唯一心を許し英文論文の添削もしたという研究助手のエベリン・バトラー・ティルデンは「西アフリカの野口博士はふだんの先生ではありませんでした。」と後年述べたそうです。そして、「私が一緒に行っていたら、ああはならなかった。」とも野口の客死のことを述べていたそうです。エベリンは野口が秘書から研究員に育て上げた唯一の学者で頭脳明晰、整理・整頓の行き届いた人だったそうです。彼女が野口の専属研究員となってから彼の乱雑な研究室は整理され、論文も次々に仕上がっていったといいます。3月にはアクラからフレキシナー所長に対し、「アフリカの黄熱病の新しい病原体を発見しました。」と知らせています。しかしながら最後にエベリンへの手紙で野口は黄熱病の原因は濾過性微生物(ウイルス)が病原であると言及しそれまでの自説を否定したとも言われています。(Wikipediaより)。野口の最期の言葉は「私にはわからない・・・」というものだったそうです。
 研究結果に混乱をきたし、意識も混濁したための言葉かもしれません。しかし、小生にはこれは真摯に研究する者の、真理を追究する者の一番真面目な高貴な態度のように思われます。誰かの後追いの研究をするのでもない、間違いを権威主義のもとに捻じ曲げるのでもない科学者の真骨頂が吐露させた最期の言葉のようにも思われます。
 彼の死後、残念ながら日米の関係は悪化の一途を辿ります。彼の意思とは無関係に国威発揚の材料に使われたようです。母シカは「軍国の母」として、野口は「国民が野口のような大科学者になったら世界に恐れる国はない、どんな強い国が攻めてきても必ず日本は勝つのだ」といった具合です。戦後も疲弊した国民に勇気を与えるために「アメリカ人と互角に勝負をした偉大な医学者」というような論調もみられ、伝記にも彼の負の部分を覆い隠した偉人伝が多く出されました。
 しかし、先に述べたようにこれと真逆の出版物やドラマもみられるようになり、真の野口像からは遠のいてしまったように思われます。過度に持ち上げるのも、また過度に貶めるのも彼の人生を歪曲するものといえましょう。
 今日、我々は意識せずとも千円札で毎日のように野口英世と挨拶をかわしています。
しかし、その実像、特に本当の業績についてはあまり知られていません。解説書にすら漠然と、あるいは明らかに間違って伝えているものもあります。結果的に間違っていた研究を差し引いても、彼は近代日本の医学、特に国際的な立ち位置で大きな足跡を残した人には違いはないと思います。
ニューヨーク、マンハッタンのウッドローンの墓地には野口英世の自然石で作った墓碑があるそうです。そのプレートには次のように書かれているそうです。
Through devotion to science, he lived and died for humanity.
一身を科学に捧げ、人間愛を生き、そして、人間愛に殉じた。

 誰もが知っている人なのにその人物の実像、評価など振幅の激しい人でもあります。
福島の猪苗代の貧農の清作が世界の野口英世となり、大都会のニューヨークに眠っている、そのことだけでも何かしら夢物語のようです。彼の経歴のそのままを見習い、肯定することはできませんが、近年日本人がややもすると内向きになり、ガラパゴス化するような傾向に対し、野口のような生き方は国際人の一員として生きていく将来の若者の指標になるかと思いました。

梅毒・遠い思い出

大学卒業後、数年の内科研修を終わって千葉大学皮膚科に入局して、岡本教授の指導を受けることになりました。教授は性感染症特に梅毒が専門でした。その先代の竹内教授も梅毒が専門でした。しかし、教室員に特に性感染症の仕事を押し付けるということはなく豊富な臨床観察眼をもって、さまざまな疾患を教えるような風でした。それで、今にして思うと梅毒の大家を目の前にしながらボーッと過ごしてきて、その知識を吸収、発展させるようなこともなかったような忸怩たる思いがあります。
まだ駆け出しの頃、梅毒の患者が入院してきました。第2期顕症梅毒の患者さんでした。たまたま小生が受け持ち医になりました。入院してすぐに、患者さんの肛門周囲の扁平コンジローマの生検(皮膚を小さく切って病理検査をすること)をすることになりました。場所が場所だし、メスを持ちながらもたもたしていると教授が「自分がやる」と自ら検査を始めました。糸で縫合する段になって勢い余って教授は自分の指に針を刺してしまわれました。その後すぐに抗生剤を飲んで事なきを得たようでしたが、とんだ迷惑をかけてしまいました。その患者さんは印象的で肛囲のコンジローマがあって男性集団の仕事の人でしたので、MSMかと思いましたが最後まではっきり経緯は話してもらえませんでした。いつか尾上先生の講演で患者さんは相手の先生をみてこの先生なら話せる、自分のことを理解してもらえると信用した人にだけ本当の話をする、といったようなことを話されていましたが、正に信用されていなかったのかもしれません。躯幹、顔面にも小豆大位までの紅斑や紅色丘疹が多発して典型的な丘疹性梅毒疹でした。ペニシリン治療開始の後、発熱と皮疹の増強を示して、ああこれがあのJarisch-Herxheimer反応かなと思ったことを覚えています。貴重な症例を経験させてもらい、大阪まで研究集会まで連れていってもらって、纏めるようにいわれたのをほったらかしにして纏めずにお蔵入りさせてしまいました。岡本教授の研修講習会のテキストのその患者さんの写真を見るたびに自分の怠惰さを思い知り汗顔の至りです。そのせいか却ってその例は鮮明に脳裏に残っています。
 またある時は、ベシュライバーといって教授についてカルテに記入する係をしている時に中年女性が現れました。のどの奥の扁桃周囲に乳白色の白苔様の粘膜斑がみられました。小生が経験した初めてで唯一の粘膜疹でした。
 2期疹での手足の乾癬様の紅斑落屑も時にみました。普通乾癬は掌蹠膿疱症と異なり、手掌足底にはあまりでません。ただ、inverse typeといって逆に手掌足底に出ることがあります。時に病歴を聞くときに、そうかなと思ってもあまりプライベートなことも聞けず悩ましい思いをしたこともありました。いまでも聞いたり、まして検査して陰性だったら失礼か、などと躊躇することもあり未だにこの手の対応は苦手です。
 駆け出しの頃、1981年の丁度アメリカのMSMのグループやドラッグ常用者の間に奇妙な感染症が出だした最初の時からAIDSのことは教授から直に聞いていましたが、瞬く間に全世界に広がっていくとは思いもよらないことでした。でもあの頃AIDSの詳しい情報は国内で真っ先に知らされていたと思います。
 また、ある時、小生が野口英世のことについて、「先生、彼の研究は結局全て間違いだったのですよね。」などと知ったかぶりで教授に話すと「児島君、それは違うよ。彼が脊髄癆や麻痺性痴呆の梅毒患者の脳の組織の中から梅毒トリポネーマを発見したのは偉大な業績だよ。」とたしなめられたことがありました。その時から野口英世のことは気にかかっていました。最近彼の伝記を読む機会がありましたので、その破天荒な生涯について今度一寸書いてみたいと思います。
 最近、学会で性感染症、梅毒、HIVなどが気にかかるのはこのような経緯や忸怩たる思いが根底にあるためかもしれません。