新編 単独行 加藤文太郎 著

不世出の単独行の登山者、加藤文太郎。昭和の初めに彗星のように現れて、冬の北アルプスを縦横無尽に駆け巡り、国宝的な存在となったが、冬の北鎌尾根に消えて帰らぬ人となった。昭和11年に亡くなってもう一世紀近くになるが、いまだにファンは多く、特に多くの単独行志向の若者のあこがれの星であり続けている。
「単独行」は、遺稿集として、加藤文太郎の書いた文章を集めて昭和11年に刊行された。2000年に周辺資料を合わせて、「新編・単独行」として出版された。この新編を読む機会があったので、概略を記してみたい。
 年表によると、文太郎は1905年(明治38年)兵庫県浜坂町に生まれている。1919年三菱内燃製作所に入社し、技師として生涯勤務した。大正13年以来兵庫県内の国道と県道を四百里ほど歩いた、という。その驚異的な脚力、踏破力はその時に培われたものだろう。大正14年から夏の北アルプスへの本格登山が始まっているが、その足跡は実に驚異的である。5-10日前後の単独行を繰り返しているが、初の北アルプスからして凄い。中房温泉から燕岳へ登り、いわゆる表銀座コースを経て槍、穂高を縦走。ここまでは普通だが、上高地へ下山後、安房峠、平湯を経て乗鞍を登頂、更に進んで御嶽山を登り、木曽駒ケ岳に至っている。宝剣岳、空木岳を越え、南駒岳に到り、擂鉢窪から道なき道を辿り飯島に出ている。この長大なコースを休み日なく、車など交通手段を使った形跡もない。「神戸へ無事五日午前一時着せり、同二時床につく。痛快云わん方なかりき」と記している。このコースを登った経験のある人ならば淡々と記されたこの行程の超人的なことがわかると思う。
翌昭和2年の夏には赤石~聖~荒川~塩見~農鳥~北岳の長大なコースを8日間で縦走している。これらの経験を基に、縦走コースの紹介をしているが、一日14,5時間歩くような行程で常人にはちっとも参考になっていないし、無茶苦茶なコース設定である。彼にはこれが普通と思われたのだろう。
 昭和4年の正月には夏沢峠から硫黄岳、赤岳と初めての本格的な冬山登山を敢行している。後の彼からは考えられないようなコメントを残している。「今日は元日だ、町の人々は僕の最も好きな餅を腹一パイ食い、いやになるほど正月気分を味わっている事だろう。僕もそんな気分が味わいたい、・・・それだのに、なぜ僕は、ただ一人で呼吸が蒲団に凍るような寒さを忍び、凍った蒲鉾ばかりを食って、歌も唄う気がしないほどの淋しい生活を自ら求めるのだろう。」その後、堰を切ったように怒涛の冬山単独行が始まる。その中でも白眉は昭和6年1月に薬師岳から烏帽子岳までの北アルプス核心部をU字型に10日間かけてサポート無しに辿ったものであろう。特に三俣蓮華から烏帽子岳の踏破記録が凄い。雪の中を三俣蓮華の小屋を午前7時に出発して、鷲羽岳、黒岳、野口五郎岳と辿り、烏帽子岳の小屋には翌日の午前2時に到着している。
翌昭和7年2月の槍から双六岳及び笠ケ岳往復の記録も凄いに尽きる。午前6時に槍を出発、笠ケ岳には午後8時到着、小屋に泊る予定であったが、雪で見つからないために、来た道を引き返している。懐中電灯も切れて雪明りの中を歩き通し、翌日午後2時20分に槍の小屋に戻ってきている。実に32時間行動し続けたことになる。
このような無敵と思われる文太郎にも技術面・心理面の葛藤、変化がみてとれる。一つはいわば独学で突き進んでいったために、スキー技術、岩登り技術など不得手であったらしいこと、病気がちで先の長くない父が危ない登山はやめてくれ、身を固めてくれと懇願したことなどがあげられる。「その後父の病気はだんだん重くなっていくのになお山の恐ろしい力が私を誘惑する。それは前穂の北尾根と槍の北鎌尾根なので、一人では少々不安だ、・・・吉田君は山での死をすこしも恐れていない。その上岩登りが実にうまい。だから私は間もなく吉田君を誘惑してしまった。」この文章が悲劇の結末を暗示しているかのようでもある。実際に昭和10年には花子と結婚して無茶な山行はしなくなっているが、やはり北鎌尾根はやり残した感があったのだろうか。
昭和11年の正月3日、昼食後槍肩の小屋から吉田氏と北鎌尾根に向かったまま行方不明になり、4月に北鎌尾根末端の千天出合近くで遺体が発見された。第3吊橋の袂にピッケルが立ててあり、その下に吉田氏の遺体が整然と横たわり、文太郎はそこから200m下手の渓流に浸って横たわっていたという。推察するに吉田氏が先に力尽き動けなくなったのを看取った文太郎がピッケルを目印にして残し、最後の力を振り絞って何とか生還しようと一人湯俣を目指したが、やはり力尽きたと思われる。妻はその手記に文太郎が6日の明方、手編みのセーターを着て夢枕にたったという。もしかすると律義な彼が最期の別れに最愛の妻の元に別れの思いを届けたのかもしれない。
同行した2人の証言によると、3日朝、吉田氏をリーダーとして3名が槍へ向かい、文太郎は小屋に残った。昼前に3名は小屋に戻り、2名に下山するように指示し、加藤・吉田の2人で槍を越え北鎌に向かうと言って出て行った。文太郎は今日中は間違いなく晴れだといった、食料は甘納豆、リンゴ2個、チョコレート3枚で服装は簡単な防寒具だった、とある。それにしてもあのいつも慎重な文太郎のその時の行動は腑に落ちない。どうみても難関の北鎌尾根を踏破する装備、心構えではない。実際12時過ぎには猛烈な吹雪になっていたというし、無理をして深入りするような状況ではなかったと思われる。しかし両名は戻ってこなかった。そして吹雪は7日まで続いたという。捜索隊は北鎌第二峰の北側に2人のビバークの跡を発見し、附近に乱れたアイゼンの跡も見つけたという。その跡は途中で途切れていたという。現場の状況から千丈沢へ転落したのではないかと推定している。しかし、2人が発見されたのはもう一投足で湯俣という千天出合近くの天上沢だった。すなわち千丈沢へ墜死したのではないということだ。岩壁に限らず山は登るより下る方がずっと難しいことは常識だ。況してや冬の岩壁をクライムダウンしていく事の困難さは言を俟たない。ビバークの後、2人にどのようなやり取りがあり、どのようなアクシデントが起こったかは想像の域をでない。岩壁登攀の得意な吉田氏はリードして戻れなかったのだろうか。
新田次郎の小説「孤高の人」では吉田氏は初めて加藤とパートナーを組み、功をあせり結果として加藤を死地に追い込んだ者のような設定で描かれているが、事実は違う。前穂北尾根でもむしろ加藤をリードしているし、困難なルートを制覇するために加藤の方から誘ったとの記述もある。孤高の人がパーティーを組んだがために遭難したとするのは極論だろう。しかし、それでもなお彼が単独であったならばもっと慎重に、あるいはもっと臆病に事を進めていたかもしれないと思う。そして臆病に進めば、あの強靭な体力と、粘りをもってすれば数日のビバークにも耐えてひょっこり湯俣を経て里に顔を出したのではないかとも思われる。かつて友人と2人で11月の北鎌尾根を登ったが、まだ雪は少なく、頂上付近でザイルは使ったもののほぼ夏道を辿ることができた。しかし、一度悪天候になり氷雪に閉ざされると悪絶なコースに変身するという。現代でも尾根上で何回ものビバークを強いられたケースもあるという。こんな岩稜を真冬の吹雪の中、あの時代の装備でよく末端まで頑張ったと思う。
文太郎は他人に顕示するために超人的な山行を敢行したのではない。已むに已まれぬ山への思いが為せたのであろう。そして決して洗練されたとはいえない文章でも時代を越えて山好きの人の心に響き続けているのであろう。

 
                                           

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