アルフォンス・ミュシャ

先日、プラハでの学会の際に、ホテルの近くのミュシャ美術館に立ち寄ってみました。
「ジスモンダ」や「ヒヤシンス姫」はやはり目を引きました。館内の一番奥まった処にミュシャの生涯と作品を紹介するドキュメンタリー上映の小部屋があり興味深く観ました。その後再び作品を見直すとまた違った感興がありました。
ミュシャはチェコを代表する画家です。「ミュシャ」はフランス語読みで、チェコ語では「ムハ」と発音するとのことです。現在はチェコの観光名所とされ、国民的人気のある「ムハ美術館」もオープンしたのはわずか1998年とのことで、ミュシャはナチス占領下や社会主義体制下にあっては日の目をみず退廃的、ブルジョワ的と非難の的にさえなったそうです。
ミュシャは1860年に南モラヴィア(現在のチェコ)のイヴァンチッツェに生まれました。幼少時から絵が得意だったとのことです。19歳でウイーンに行き、デッサン学校に通いながら暮らしたものの失業しましたが、才能を認められてパトロンの援助を受け、ミュンヘンの美術学校、さらに卒業後にパリに出て絵の修業を続けました。
1984年ミュシャ34歳の時、彼の人生を変える出来事が起こりました。パリの大女優サラ・ベルナール主演の戯曲「ジスモンダ」のポスターの依頼が舞い込みました。実はクリスマス休暇で担当の画家たちが全て出払い、彼にお鉢が回ってきたのでした。期間が僅か1週間ほどの納期だったそうですが、出来上がったポスターはパリ中の人気を博し、彼は一躍アール・ヌーボーの旗手と持て囃されるようになりました。ポスター以外にも装飾パネルや挿絵なども手掛け、1900年のパリ万博でも成功し、その名声をもって渡米し、アメリカでも成功を収めました。
1910年には祖国に戻り、スラブの民族色の強い作品群を制作していきました。このきっかけになったのがスメタナの「わが祖国」とも言われています。壮大な「スラブ叙事詩」などをみると若き日の官能的な眼差しの女性像はなく、スラブの女性を意識したものに変わっていっています。またプラハ市庁舎のホール装飾や、チェコスロバキア共和国の紙幣、切手などのデザインを手がけたり、聖ヴィート大聖堂のステンドグラスのデザインを手がけたり、民族的、愛国的ともいえる存在となっていきました。
そういうこともあってか、ナチスドイツがチェコに侵攻してきた時、逮捕された第1番目が高齢のミュシャだったということです。その後釈放されましたが、4ヶ月後に体調を崩し、78歳の生涯を閉じたとのことです。
戦後も共産党政権はブルジョア的、退廃的として彼の存在を無視してきましたが、1968年のプラハの春以降再評価されることになり、今日まで人気は続いています。
ミュシャの絵はどことなく日本人になじみが深いような気がします。ミュシャ自身が浮世絵や東洋絵画の影響を受けていたともいいますし、与謝野晶子のみだれ髪のポスターもミュシャの影響があるといわれています。成程そういわれればなんとなく納得できるような気がします。
ただ、初期の頃の官能的な絵と後年の壮大なスラブ的な絵とでは随分趣が異なるように思われます。人によってその好みが分かれるようですが、自分自身としては初期のややエロチックな女性像に惹かれます。19世紀末の混沌とした、しかし活気に満ちて平和で未来に希望があったベル・エポック(良き時代)の頃のパリ、ジャポニズム華やかで戦争もなくインターナショナルな雰囲気があった頃のパリ時代のミュシャの方が開放的な感じがします。

以前、東京の小さな画商の出張販売で妻とミュシャの絵をみて購入しました。ローリエ(月桂樹)と題される小品ですが、時々飾ってみています。
お気に入りの1枚としてHPにアップしました。

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